第三章

彩楽堂の困りごと

第26話 萬姜の魁堂鉄への想い


 正月用の赤い飾り紐を巻きつけた竹籠に、頂き物や自分で買った菓子を詰めて、萬姜は荘本家屋敷の入り組んだ建物と建物の間の細い通路を歩いていた。すれ違う使用人たちはその親しさの程度によって、「やあ、萬姜さん。どこへ行くんだい?」と呼びかけてきたり、かるく頭を下げるだけだったり。


 荘本家屋敷で初めて経験する正月だが、心浮き立つ行事はなにもない。いつも命を危険にさらしている武人ばかりの屋敷では、新年だといってもそれは暦のうえのことであって、ことさら祝うことでもないのだろう。


 しかしそれでもと、いつもよりも心を込めて丁寧に、彼女は白麗の部屋と自分たちの部屋を掃き清めた。そして新開に住んでいた時からの習わし通りに、皆で真新しい着物に着替えて正月の朝を寿いだ。


 いまこうして旧年中に仲良くなった洗濯女や炊事女たちに菓子を配るのも、新開に住んでいた時からの習慣だ。


 幼い時は菓子の入った竹籠を持つ母に連れられて、大きくなってからは彼女自身が子どもたちの手を引いて、近所のお得意さまの家をまわり、新しい年もまた贔屓にしてくれるように挨拶にまわったものだった。




 竿に干されたたくさんの洗濯ものの間から、いつもの女が気さくな笑みを浮かべた顔を覗かせた。正月だからといって汚れものが減るわけもない。朝早くから冷たい水に手を浸して、彼女たちはひと仕事を終えたところだ。


「おやおや、律儀なことだねえ。正月だからといって、ここでは、そんな気遣いは無用だよ」

 そして振り返った彼女は仲間の女たちに言う。

「みんな、一休みして、萬姜さん差し入れの菓子を食べようじゃないか」


 その言葉に、しばし厳しい労働から解放されることを知った皆の顔がいっせいにほころぶ。焚火のまわりに椅子代わりの伏せた桶を手際よく並べるのも、皆の手にある茶碗に白湯が注がれるのも、いつもと変わらない。年が改まったといっても、働くものにとっては、旧年と新年はたった一日の違いでしかないのだ。


 ただ、彼女たちの今朝の話題は宗主・荘康や白麗の噂ではなく、萬姜の着ている仕立ておろしたばかりの新しい着物についてだった。


「それは、彩楽堂さんのお見立てかい?」

 そう誰かが言い、皆のお喋りがそのあとに続く。

「さすがに、彩楽堂さんのお着物はいいねえ」

「人目を引く派手さはないけれど、いいものだって、毎日、人様の着るものを洗っているあたしらにはすぐわかるよ」


 その言葉に羨ましさは含まれていても妬みがないのは、ことあるごとに差し入れている菓子のせいに違いない。だが、もう一つ。彼女たちは知っている。あの慇懃無礼な家宰の允陶に睨まれながらの奥座敷の勤めが、どれほど息が詰まるものであるかを。それなら、洗濯女でいるほうがよっぽど気楽というものだ。


「ちょっと触ってもいいかい?」

 誰かの手が伸びてきて、遠慮なく萬姜の着ている着物の袖を撫でさすった。


「信じられないよ、木綿だというのに、こんなに艶があってなめらかだなんてね。あたしたちの着ているお仕着せとは大違いだ……」


 あとは言葉にならず大きなため息となり、皆の笑いを誘った。それに続く着物談義で、女たちばかりでの話はおおいに盛り上がり、短い休憩は終りとなる。


「お白湯をありがとうございました」

「あんなものに礼を言われたら、恥ずかしいじゃないか」


 そして去りがたそうにきょろきょろと辺りを見回している萬姜に、洗濯女は続けて言った。


「今日は、萬姜さんにつくろってもらう魁さまのお着物はないよ」


「えっ、まあ……。そういうつもりではなくて……」


「知らなかったのかい? 魁さまは、大切なご用で、何人かのお仲間とごいっしょに、昨年の暮れにどこか遠くへ行かれたそうだよ。当分の間は、この屋敷には戻ってこないとか」


「まあ、そうでしたか」

 そう答えた声が、自分でも驚くほどがっかり感に溢れていた。あの大きな背中がしばらく見られないことを、こんなに残念に思うなんて……。


 周囲の耳を気にした女の声が潜められる。

「なんでも、ものすごく危険な仕事だっていう噂だよ。ご無事に戻って来られるといいんだけどねえ」


 その言葉に驚き、痛いほどに胸が締めつけられて、萬姜は相槌を打ち返すことも忘れた。しかし、洗濯女は萬姜の胸の痛みに興味はなかったようだ。萬姜の顔に正直に出てしまった表情を、洗濯女はいつものように<縫い物好きの萬姜さん>としてとらえたようだ。


「あっ、そうだ。萬姜さんに言おうとして忘れていたよ。昨年末に、魁さまに洗ったばかりの洗濯ものを届けたときのことさ。『おれが破ってしまった着物を、丁寧に繕ってもらってすまない』って、魁さまが言われたんだよ。今まで、洗濯女のあたしたちに礼を言うような魁さまではなかったのだけどね。よっぽど、最近の繕い方が気に入られたに違いないね。それであたしも言ったんだよ。『繕っているのは、白麗さまお付きの女中・萬姜さんです』ってさ。でも、最後まで聞くこともなく、魁さまはすぐに背をむけたけどね。あの人らしいと言っちゃ、そうなんだけど」


「お礼なんて……。わたしは望んだこともありません」


「萬姜さんのことだから、そう言うだろうとは思ったけれどね。魁さまがご無事に戻られたら、また繕いものをお願いするよ」




 帰りを急ぐ萬姜の足取りは、まるで空中を歩いているように心もとなかった。


 睨まれるのが恐ろしくて、まともに真正面からは見たこともない魁堂鉄の顔だった。思い出せるのは、熊のように広く大きな背中だけだ。それがいますごく残念なことのように思える。


――危険な仕事とは、どのようなものなのでしょう?――


 幻の背中の幅を測って、竹籠を持ち直して広げた右手の親指と人差し指が、ひとつふたつと無意識に動く。


「無事に帰って来られることを祈って、着物を縫って差し上げたい……」

 想いが言葉になって、彼女の口から出た。


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