第27話 年も改まった彩楽堂の奥座敷



 大火鉢の炭火で暖められた、年も改まって十日も過ぎた彩楽堂の奥座敷。

 換気のために細く開けられた窓から見える空は、いまにも小雪が舞ってきそうにどんよりと曇っている。


 小さな茶碗を両手の平で包んで、伝わってくる茶の熱さを慈しむ。


 荘本家屋敷から彩楽堂までの道中で、すっかりかじかんでしまった指先がその熱さを喜んでいた。茶碗を顔の近くまで持ち上げると、緑色の馥郁とした香りが湯気とともにふわっと立ち昇ってくる。それを鼻孔いっぱいに吸って、萬姜は考える。


――爽やかさだけではない、この香り……。何に例えればいいのかしら?――


 一口啜れば、広がる甘さをおさえた渋みが舌を喜ばす。


――ああ、そうだわ。新年を迎える床飾りのために切った、松の木の枝……。鋏を入れたときの、あの気持ちが引き締まるような、ヤニの緑濃い匂い――


 そのとき、穏やかで耳障りのよい若い男の声がして、萬姜を現実の世界に戻した。


「萬姜さん、わたくしの淹れましたお茶は、おいしゅうございましたか?」


 その男は彼女より五つほど年下。


 顔立ちは別として、客商売をする者の身に纏った雰囲気が所帯を持ったころの若い亡き夫に似ている。しかし、そんな萬姜の胸の内をあの世の夫が知ったら、「慶央一の老舗呉服屋・彩楽堂の若主人とわたしを比べるなんて、畏れ多いことはやめておくれ」と、即座に打ち消すことだろう。


「ええ、この香り、冬の松の枝の匂いに似ているような……。爽やかでありながら重みもあって」


 柔和な色を浮かべた男の目が優しく細められる。


「萬姜さん、素晴らしい例えです。では、二煎目を淹れましょう。今度は香りも味も少し軽くなりますよ」


 そう言いながら、涼やかに松風を立てる鉄釜に、彩楽堂は銀の柄杓で差し水を足す。見られることに慣れている優雅な手つきだ。萬姜もまた伏せた男の横顔を遠慮なく眺める。


――二人姉妹で育ったけれど、彩楽堂さまのような弟がいれば……。わたしの人生も違ったものになっていたかしら。いえ、でもそうなれば、白麗お嬢さまに出会うこともなく――


 彩楽堂に初めて来た時、田舎の呉服屋とは比べようもない雰囲気に呑まれて、冷や汗が止まらなかったことが今では懐かしい。


「萬姜さん、そのように見つめられては、わたくしの手が震えます」


 彩楽堂の言葉に慌てた萬姜が謝るよりもはやく、横で茶を飲み終えた家宰の允陶が鼻を鳴らした。


「ふん! 二人して、阿保なことを言い合って。聞くに堪えないとはこのことだ」


 しかし、その声に怒気はない。荘本家から外に出ることは滅多にない彼が、それでも抜かりなく奥座敷の万端を仕切ることが出来るのは、こうして人と人の何気ない話に聞き耳を立てて、それで得た知識を蓄えてきたからだ。


「これはこれは、允さまのお耳を汚してしまいましたようで。申し訳ございません」


 彩楽堂もそれを知っている。謝っているようでいて申し訳ないなどとは思っていないことは、その軽い口調で明らかだ。


 返事の変わりに、允陶は茶を飲みほした。


 彩楽堂は允陶と萬姜の前に二煎目の茶を満たした茶碗を置く。

 しばしの静寂が訪れて、三人は申し合わせたように耳を澄ました。いつものように奥からは、女たちの嬌声がとぎれとぎれに聞こえてくる。


 彩楽堂の妻たちもまた、若主人と同じく人と接するのが巧みだ。お嬢さまも梨佳も嬉児も楽しんでいる様子だと思い、萬姜は安堵する。


 そういえば先ほどに見た彩楽堂の二番目の妻の腹の膨らみが目立ち始めていた。男前の彩楽堂と初々しく若い新妻との子だ。さぞかし可愛い子が授かることだろう。おめでたいことだ。弟に甥か姪が生まれる気分だ。だが、産み月を訊こうとして口を開きかけた萬姜よりもはやく彩楽堂が言う。


「今日の白麗お嬢さまのお着物、お嬢さまによく似合っておられました。さすが、萬姜さんです」


 寒いからといって、おとなしく部屋に閉じこもっている少女ではない。毎日、嬉児と動き回って遊んでいる。そのような少女の着物は、暖かい間は、袖も裾も切って短くしてしまえばよかったが、雪がちらつく季節となってはそうもいかない。


 動きやすくそして暖かく……。


 そう考えた末に萬姜が考えついた少女が身にまとっている着物は、薄く伸ばした綿を入れ肩幅も広くした羽織り物だ。衿まわりを白テンの毛皮が取り囲んで飾っている。萬姜が夜なべして縫いつけた。ふわふわとした毛の中に、少女の美しい顔と短く切り揃えた白い髪が半分埋まって、いかにも暖かそうで、そして神々しくさえある。


「お嬢さまの羽織り物は、この冬の慶央の流行りとなることでしょう。しかし、白テンの毛皮は高価ですから、庶民はウサギで代用するしかなく。ウサギには気の毒な冬となりそうです」


「まあ、彩楽堂さまったら!」


 ふんと、允陶が再び鼻を鳴らした。

「彩楽堂、そのような話はもういいだろう。前置きは端折って、言いたいことをはやく言ってしまえ」


 その言葉に、彩楽堂の背筋が伸びて顔からは笑みが消えた。


「允さまのおっしゃる通りでございました」

 そして、萬姜を正面から見据えると彩楽堂は言った。

「実を申しますと、萬姜さんに、あらためて少々やっかいな頼み事がございます」


「えっ、わたしに頼み事とは?」

 驚いた萬姜はその丸い目をよりいっそう大きく見開いた。

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