第28話 彩楽堂の困りごと
着物談義を楽しんでいた彩楽堂が、允陶の言葉に緊張した面持ちとなる。
鼻梁の高い整った顔を少し伏せて、彼は掬うように萬姜を見つめた。いつも浮かべている柔和な笑みがその目から消えている。
「萬姜さん、荘本家のお屋敷では、毎年、梅の花が咲きほころぶ春になると、花見の宴が開かれることをご存じですか?」
そう言えばと、萬姜は思い出した。
『命のやり取りが仕事のここの男たちにとっては、新しい年も旧い年も関係ないのだろうね。でも、その代わりに暖かくなるとね、花見の宴というのがあってね、これがさ、あたしたち下働きの者たちも無礼講に飲めや歌えやで騒げる、年に一度の楽しみだよ』
洗濯女たちがかしましく噂しあっていた。
しかし、奥座敷に閉じ込められるように暮らしている自分たちには関係のないことだと聞き流していた。そのために、その花見の宴というものに自分と彩楽堂がどう結びつくのか、とっさには思いつかない。
反応の薄い萬姜の顔を見て、詰めていた息を吐きだした彩楽堂が言葉を続ける。
「その時に、ご招待された方々に、荘さまは白麗さまのお披露目をなさるそうです」
「まあ!」
そのようなことは聞いていないと彼女は家宰の顔を見たが、我関せずばかりにと、彼は二煎目の茶を飲んでいる。
「そして、先日、その日に白麗さまがお召しになるお着物の注文を、ご本宅の奥さまから彩楽堂がお受けいたしました」
「まあ!」
「誉れなことにございますし、ありがたいことでもございます。この彩楽堂、腕によりをかけて、白麗さまにお似合いの着物を仕立てさせていただく所存にございます」
「まあ!」
――気の利いた言葉を思いつかない自分がつくづく情けないけれど。しかし、なんとよい話ではないか。彩楽堂さまがそうまでいうのだ、さぞ美しい着物が仕立てあがることだろう――
その着物を着た少女を想像する。
満開の咲きほこった梅の花でさえかすんでしまうに違いない。もと呉服屋の看板娘だった萬姜の顔が喜びに輝く。しかし、彩楽堂の顔色はさえないままだった。
「もしかして、彩楽堂さま。そのことで、何か、お困りのことでも?」
「はい、その席に園さまもおられまして」
「園さまとは?」
「奥さまの弟さまでございます」
「弟さま?」
なかなかに要領を得ない萬姜の言葉に業を煮やしたのだろう。茶碗を置いた家宰が口を挟んできた。
「毒蛇とあだ名されている
「それにしても、毒蛇とはあまりにも物騒なあだ名ではございませんか?」
「あれは人の心を持っていない。人をいたぶりその弱っていくさまを眺めて喜ぶ。あいつの毒牙に噛まれて、慶央で無傷でいられた者はいない」
「まあ!」
允陶の言葉を彩楽堂が引き継いだ。
「その園さまが、仰られたのでございます。『彩楽堂、着物のことで、けっして李香さまに恥をかかしてはならぬ』と……。
園さまは、白麗さまが彩楽堂の煌びやかなお着物をお好きでないことをご存じです。このことは、噂好きな慶央の人たちの口端にのぼっておりましたから。そして今では、彩楽堂のお着物を萬姜さんが仕立て直していることも知っているはず。『けっして李香さまに恥をかかしてはならぬ』とは、奥さまが白麗さまにお贈りするお着物に鋏を入れて手を加えるなという意味でございましょう」
「まあ! そのような!」
「奥さまの腹違いの弟さまであっても、園さまは荘さまのお身内。誰も園さまの言葉には逆らえません。そうやって無理難題をおっしゃられる園さまに潰されてしまった大店は、一つや二つではありません。数えれば、十本の指では足りないかと。そしてついに、彩楽堂の順番になりました」
「彩楽堂、そう悲観したものではない。萬姜がなんとかするだろう。この女は何をさせてもどたどたと騒がしいだけだが、なぜか着物のことについてだけは、知恵が回る。大船に乗った気持ちで任せればよい」
允陶が舜老人宅に行こうとしていることに気づいて、優雅な体の動きで彩楽堂も立ち上がった。
「これはこれは、允さま。わたくしごときの悩みごとにお付き合いいただいて、時間をとらせてしまいました。舜ご老人がお待ちかねでございましょう」
そして萬姜に向かい合った。その顔には憂いの色はもうない。彼は深々と頭を下げて言った。
「萬姜さん、どうかよろしくお願いします」
彩楽堂に頭を下げられてうろたえた萬姜は、椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がる。そして豊満な胸を叩いた。
「ええ、わたしにお任せください」
はっきりとした算段はないが、困り顔の彩楽堂を放っておくわけにはいかない。
背中を見せていた允陶が振り返る。
深々と頭を下げた彩楽堂と、任せてください!とばかりに胸を叩く萬姜がいる。彼の耳の奥で、「允さん、すべては天命じゃよ」という舜老人の声がした。
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