第29話 地獄耳と千里眼を持つ舜老人



 彩楽堂を後にして白麗たち一行が向かったのは、いつもと同じく古物商を営む舜老人の屋敷だ。


 冷たく吹きすさぶ北風に小雪がちらちらと混じり始めていた。屋敷前に立ち一行を待つ老人の頭巾や着膨れた着物の肩に、舞い落ちた小雪が薄く積もっている。


 その様子を見た允陶が慌てて馬から飛び降りる。

 慇懃無礼が着物を着て歩いている彼だ。走るなど普段の行動の中には絶対にない。その彼が老人のもとに駆けよる。そして、手が濡れるのもかまうことなく、老人の頭巾や着物に積もった雪を払い落とし始めた。


「ご老人、外に立って待たれておられたとは。お風邪を召されましては大変です」

「ふぉ、ふぉ。心配しなくともよいぞ、允さん。近頃のわしはな、元気がありあまっとるのじゃ。このくらいで風邪などひくものか」


 寄る年波で腰が曲がり縮んでしまった老人の背丈は、允陶の胸のあたり。二人が向かい合った姿は、まるで仲のよい祖父と孫。だが、允陶の気が済むまで雪を払わせていてはきりがないと思ったのか、何度も自分の肩を撫でる手を老人は振り払った。そして、馬車から降りた白麗に近づいた。


 数か月前には、椅子から立ち上がるのでさえ人の手を借りていたとは思えない、しっかりとした足取りだ。少女の手を取ると、彼は感に堪えないという面持ちで言った。


「白麗さま、寒い中、よくぞ来てくださいました。さあさあ、どうぞ、屋敷の中へ。我が家の犬が仔を五匹産みましてな。ぜひ、可愛いあれらをご覧になって、祝福を与えてやってくだされ」


 最近の舜庭生は誰の目から見ても若返って元気になっていた。そして時おり不思議なことを言う。


――祝福とは……?――


 この時も允陶は喉元までのぼってきた疑問を口にしようとした。しかし、それをあえて飲みこんだ。謎に満ちた言葉を彼が問いただしても、「ふぉ、ふぉ。すべては天の計らいじゃぞよ」と、きっと煙に巻かれるだけだろう。




※ ※ ※


 萬姜は目を瞑って、口に含んだ茶を舌の上で転がして味わっていた。

 彩楽堂で味わった茶は若松の香りと味だと思ったが、いま目の前で家宰の允陶が淹れた茶の味は、なんに例えればよいのか。


――甘いといえば甘いけれど、渋みの中に隠れたもどかしい甘さだわ。まるで、雪に埋もれてしまった小さく固い梅の蕾のような――


 しかし彼女の瞑想を家宰の冷たい声が容赦なく破った。


「萬姜、おまえがいま雌鶏ほどの小さな頭の中で考えていることは、ではなくてだ。ここは彩楽堂の座敷ではない。何も考えずに飲め」


「ふぉ、ふぉ。允さん、そこまで言わなくとも。『三日会わざれば刮目かつもくして見よ』と、昔の人も言ったではないか。わしには見えるぞよ」


「ご老人、このぼうっとした萬姜の顔に何が見えると?」


「萬姜さん、最近、おまえさんはあるお方と出会ったじゃろう?」


 その言葉に、萬姜は目を白黒させる。

「あるお方とは……? 出会ったとは……?」


 ほとんどを荘本家屋敷内で暮らしている。外に出るといえば、こうして家宰に連れられて彩楽堂と舜老人の屋敷を訪ねるくらいだ。銀狼と青龍の夢を見たが、それは出会ったとは言わないはず。


「ふぉ、ふぉ。わからなければ、それはそれでよいのじゃ。すべては天の計らいであるからな」


 そして、茶をずずずと飲み干した舜老人は允陶に向かい合った。


「彩楽堂さんの悩みは無事に解決したようじゃな。允さんと萬姜さんのお二人の顔を見て、わしはすぐにわかったぞ」


「なんと、花見の宴にて白麗さまがお召しになるお着物のこと、すでに、ご老人がご存じとは! いつもの地獄耳、おそれいります」


「ふぉ、ふぉ。そのように驚くようなことでもない。じゃがな、あの毒蛇・園剋に一泡吹かす話なら、わしも協力せねば。蔵の中から、白麗さまに挿していただけそうな由緒あるかんざしを探してみようぞ」


「それはありがたいことにございます。ご老人のお気遣い、宗主も喜ばれることでしょう」


「そうそう、荘さんといえば。今日の一行の中に魁さんの姿がないということは、荘さんの重い腰もついにあがったようじゃな」


「そこまでお見通しとは。しかし、萬姜がおりますれば、その話は日を改めて……」


 そう言いながら、允陶は萬姜を見やった。

 その萬姜は二口目の茶を含んで目を瞑り、またあれやこれやと考えている様子。


「いや、案ずることはない。この話には、いずれ、萬姜さんにも深くかかわることになるはずじゃからな。それで、英卓さんは、六鹿山におるのだな」


「はい、間違いありません。六鹿山の銅採掘場で、傭兵として雇われているとか。ただ、六鹿山に採掘場は無数にあります。そしてまた、あの毒蛇が手をこまねいているわけもなく。必ずや、堂鉄たちの行く手を邪魔するはず」


「それで、花見の宴に白麗さまを登場させて、あれの目を六鹿山から逸らすおつもりか。その荘さんの企みに載せられて、彩楽堂が仕立てる着物にやつは口を挟んできおったということか」


「ご明察にございます」


「お着物?」

 ごくりと茶を飲み下して萬姜は目を開く。英卓という名前にも六鹿山という地名にも興味はないが、着物という言葉に体も頭も反応してしまう。


「萬姜さん。允さんがな、老いぼれたわしを地獄耳だと褒めそやしていたのじゃ」


「ええ、ご老人さまはなんでもご存じだと、わたしもいつも驚いています」


 意味もわからずそれでも言葉を返した彼女に、抜けた歯の間から息を漏らして、舜庭生は楽しそうにひとしきり笑った。


「ふぉ、ふぉ。そうであろうとも、そうであろうとも。萬姜さん、わしはな、地獄耳も持っているが千里眼というのも持っておるぞ。それゆえに、なんでもお見通しじゃ。荘本家の奥座敷のあの夜の出来事もな」


「えっ?」

「それは!」


 萬姜と允陶が同時に声をあげた。


「ふぉ、ふぉ。萬姜さん。深夜、白麗さまの部屋に忍び込んだ荘さんを追い払ったそうではないか。おまえさんの荘さんを相手の武勇伝は、しっかりとこの老人の耳に入っておるぞ」


「いえ、あれは……。そういう話ではなくて! 宗主さまはそのようなお方ではありません!」


 驚いた萬姜は立ち上がり、顔を真っ赤にして舜老人の言葉を否定した。


「雷を怖がられたお嬢さまを、宗主さまはお嬢さまのお部屋で慰められたまでのこと。しばらくして雷も止み、お嬢さまも落ち着かれましたので、宗主さまはすぐにご自分の部屋へと戻られました」


 允陶もまた彼にしては珍しくうろたえて、どもりながら否定する。


「な、な、なんと。そのような噂話がご老人の耳に! しかし、あの夜に起きましたことは、いま萬姜が申しました通りでございます。決して、宗主に下卑た下心があったなどとは!」


「まあ、お二人とも、そのようにムキにならんでもよかろうぞ。白麗さまはお美しいお方だ。男であれば、そのような気になって当然のこと。それにな、荘さんにとって白麗さまは三十年かけて探し求めたお方でもある。允さん、わしももう少し若ければと思わんでもないぞ」


「白麗さまは荘本家の大切なお客人。ご老人といえども、そのような憶測はおやめください」


「允さん、そう怒らんでもよかろう。まあ、それほどに白麗さまは皆に可愛がられ大切に守られていると知って、わしも嬉しいぞ」


 その言葉に、立ち上がっていた萬姜は自分の無作法に気づいて座り直し、允陶もいつもの慇懃な顔に戻った。その様子に自分の思惑があたったとばかりに、舜庭生は「ふぉ、ふぉ」と笑う。しかし、笑い終わるとまじめな声と顔になった。


「白麗さまはそれほどに、夜の雷鳴がお嫌いなのか。それはなぜであろうな? この中華大陸をさまよっておられることと関係があられるのか? そもそもなぜに中華大陸をさまよっておられるのか? わしはいま蔵の中に溜め込んだ書物を引っ張りだして、あれこれと読み漁っているところじゃ。その謎に少しでもせまって、白麗さまをお助け申し上げたいと思ってな」


 舜老人の言葉に、萬姜と允陶は大きく頷いた。同時に、部屋にしばしの静寂が満ちた。遠くから犬の吠え声と嬉児の甲高い楽しそうな声が聞こえてくる。舜老人が「おお、そうじゃ、允さん」と言い、ぽんと手を打った。


「仔犬を一匹さしあげようぞ。あれらの親犬の性質はよい。白麗さまと嬉児ちゃんのよい遊び相手となり、成犬となればよい番犬となるに違いない」


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