第38話 白麗の笛と春仙の琵琶の音が重なる
園剋の怒声に荘興は落ち着いた声で答えた。
「義弟よ、荘本家本宅で、我が病弱な妻とともに康記を我が子のように慈しみ育てていること、いつもありがたく思っている」
皆の目が康記に集まる。
ぽかんと口を開けたまま、十六歳の若者は目の前の美しい少女に見とれていた。最近、彼は妓楼遊びを覚えた。荘本家の威光と金銭で、美しい女と言われる女は見てきたつもりでいた。だが、荘本家屋敷にこのように美しい少女が匿われていたとは。自分の名が父と叔父の会話に出ていることも、自分のことで二人が目に見えない火花を散らしていることにも、彼は気づいていない。
荘興の声に苦さが混じる。
「どこの親も子を一人前にするには苦労がある。忙しいおれに代わって父親として康記を一人前にしてくれたおまえだ。子を育てる苦労がわかっているおまえだからこそ、嬉児を許せるのではないか。この嬉児にも親がいる」
腹違いとはいえ姉の李香との不義で生まれたと噂されている康記は、毒蛇と怖れられている彼の唯一の弱点だ。いまここでその問題には触れられたくはない。長く細い尻尾をずるずると引きずって、彼は巣穴に戻らざるをえなくなった。白麗の着物の裾を掴んでいた手を彼は引っ込めた。
少女の足元で広がった着物の裾を、皺の一つもないようにと、嬉児は小さな手で撫でつけて奮闘している。幼い子どもの労を荘興はねぎらった。
「嬉児、本日の大役、ご苦労であったな。もう下がってよいぞ。あとで褒美を取らそう」
「はい、そうしゅちゃま。ごほうび、ありがとうございまちゅ」
満面の笑みを浮かべて嬉児はぺこりと頭を下げた。
そして、今までのおしとやかさは捨てて、不安げな顔をした母と姉の待つところへとぱたぱたと走っていく。一つの危機は去ったのだと、満座の者たちからも安堵のため息が漏れた。
泣き崩れた萬姜と梨佳が嬉児を抱きしめる姿を見とどけると、荘興が再び口を開いた。
「言葉の不自由な白麗さまの皆への挨拶も、これで終わったようなものだが。さて、いかようにして、白麗さまに笛を吹いていただくか、これが難問ではある……」
振り返って彼は言葉を続けた。
「春仙、どうだ、頼まれてはくれないだろうか?」
荘興の足元で平伏していた春仙は顔を伏せたままで答えた。
「宗主さま、わたくしに出来ることでございますれば」
「白麗さまの笛の音に、おまえの琵琶を合わせて欲しい」
驚きで春仙は顔を上げた。
「お嬢さまの笛に卑賎なあたしの琵琶を弾き合わせよとおっしゃられるのですか? どうか、それだけは、平にご容赦くださいませ」
「おまえの琵琶の音は慶央一、いや、青陵国一といわれている。おまえが琵琶を奏でれば、白麗さまも必ずやそれに応えて、笛を吹かれるに違いない」
春仙はもう一度「ご容赦を」と言ったが、「おまえの助けがどうしても必要だ」と荘興に重ねて請われた。妓女という立場上これ以上断ることはできない。
琵琶を手にした春仙は少女を広縁へと誘う。緋毛氈の上に少女は立つと愛笛を構え、片膝立てて座った春仙は琵琶を抱く。
春仙は少女を見上げて言った。
「お嬢さまの吹く笛は即興と、宗主さまよりお伺いしております。先に何節か吹いてくださいますれば、私も琵琶で弾き合わせてまいります」
少女が頷いた。言葉が不自由な少女だが、琵琶の弦を合わせ音色を確かめる春仙を見てこれから起きることを理解できたようだ。
初めはあたりの空気をかすかに震わして、ゆったりと流れ始めた白麗の笛の音だった。それに合わせて、春仙の琵琶がベンベンと鳴り響く。
しかしながら、白麗も春仙もその道の名手。笛の音が速く激しくなると、春仙の撥さばきも激しさを増す。笛の音を琵琶の音は追い、そして琵琶の音を笛の音が追う。二人の心の臓の鼓動が重なるように、異なる二つの楽器の音が重なりあう。
その激しさは、岩場に繰り返し押し寄せては砕け散る波頭。
その優しさは、愛し合う男女の押して引く情愛。
その懐かしさは、戯れる幼い子らの嬌声。
少女の笛の音を聴くものたちの頬を涙が伝う。
笛を吹く白い髪の少女を、春兎は睨み続けていた。憎しみに凝り固まった彼女の心には、美しく重なりあう笛の音も琵琶の音も届かなかった。
隣に座っている康記が腑抜けたように白い髪の少女に見入っている。肩を揺すろうがその手をひっぱろうが、彼の視線は彼女には戻らない。
これが初めて知る男の心変りというものなのか。康記のことで物知り顔に忠告ばかりする最近の春仙があれほどに疎ましかったのに。いまの彼女の心は白い髪の少女憎しの想いで凝り固まってしまった。
もう一人、笛を吹く白い髪の少女を睨みつけている者がいた。
園剋だ。
小川のせせらぎ・虫の音・風の音といったものに、物心ついたころから彼は心を揺さぶられたことがない。自分には喜怒哀楽の感情がないと知ったのは、幾つの時だったか。「おまえは、人の心を持たない蛇だ」と、誰かが言った。すぐさま陰惨な手を使って仕返しをしてやった。その者は命はとりとめたが、一生、口が利けない体になった。
人の心を持たない彼の関心ごとは、興味をそそられるものだけに向けられる。興味をそそられたものを追いつめる執念深さは、まさに毒蛇だ。追い詰めたら巻きついて締め上げて、噛みついて毒を注ぎ込む。苦しみ悶え命を落とすまで、その姿をゆっくりと眺めていたい。
それは荘興なのか、それともあの生意気な白い髪の少女なのか。いまはまだ定まってはいないが、それはどちらを先に襲うかの順番の問題だ。
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