第四章(最終章)

第39話 萬姜、魁堂鉄と再会する



 花見の宴が終わった数日後の真夜中、隣の部屋で寝ている若い女主人が起きた気配で、萬姜は目が覚めた。


 毎日、嬉児と遊ぶのがよほど楽しいのか、一度寝つけば朝まで起きることのない少女だ。白い寝衣のまま萬姜の枕元を通り過ぎようとする少女に、慌てて起き上がった萬姜は声をかけた。


「お嬢さま、このような真夜中、どちらへ?」


 だが、少女は答えることなく、戸を開けて外に出て行く。


――そうだったわ。言葉の不自由なお嬢さまに、『どちらへ?』とお訪ねしても、しかたのないこと――


 少女に羽織らせるものを適当につかんで、彼女もまた少女のあとを追った。


 花見の宴の天上界の神々に祝福されたような快晴のあと、外気はまた冬に逆戻りした。しかし、底冷えしているにしても、頬を撫る風は春の気配を含んでいる。


 季節の変り目についていけない体は、まるで氷室から取り出した夏の氷のようだ。芯は冷たく凍っているのに表面は解けて水となり、きらきらと嬉しそうに輝いて滴り始める。


 この時期になると彼女はいつも思う。

――浮かれて、何かしでかしそう――


 この時期にしでかしてしまった過去の愚かなあれやこれやが頭に浮かぶ。恥ずかしさにわっと叫んで駆けだしたいこと、「おまえらしいねえ」と笑っている亡き父母と夫の顔……。


――まあ、わたしったら。懐かしく思い出している場合ではなかったわ――


 頭をぶんぶんと振って浮かんできたあれやこれやを振り払うと、彼女はその体の大きさにふさわしくどたどたと女主人のあとを追いかけた。




 少女は急がず、しかしためらうこともない足取りで進んでいく。


 屋根つき渡り廊下を右に左にと曲がり進んでいく先は、広い荘本家屋敷内にあって、萬姜がまだ足を踏み入れたことのない場所だった。落ち着いた佇まいの部屋が並んでいる雰囲気からすると、荘家の人々が私的に使っているのか。それとも客人の寝所となっているのか。


 近づくにつれて、渡り廊下にそってパチパチと爆ぜて火の粉を飛び散らせている篝火の数が増え、それでもまだ明るさが足りないと、何人もの下僕が松明を持って立っている。


 その中を、多くのものたちが早足で忙しそうに動き回っていた。しかし、静かなのは、誰も声を発するものがいないからだ。声を立てることと音を立てることを、誰もが怖れているようだ。それで、真夜中に寝衣姿でありながら咎められることなく、少女と萬姜はここまで来ることができたのだろう。


 昼間と見まがう篝火と松明の灯りは、小さな戸を全開した一つの部屋を指し示していた。少女がその前に立つと、入り口を取り囲んで立っていたものたちがさっと分かれて道を作る。吸い込まれるように入っていく白い頭を追って、萬姜も部屋の中へ入って行った。


 荘本家屋敷の私室の造りがすべてそうであるように、部屋は手前の座敷と奥の寝室の二つに分かれていた。


 少女のあとを追って部屋の中に一歩を踏み入れた萬姜だったが、彼女の足はそこでぴたりと止まった。


 燭台を灯していない部屋の中は、外の明るさに慣れた目にはあまりにも薄暗い。何人もの人の気配はたしかに感じるのに、この暗さはなぜに?と不思議に思い彼女の足は止まったのだ。


 座敷の真ん中には大火鉢が置かれている。闇は夏のような暑さだ。炭火が赤く燃え上がるたびに、部屋にいる者たちの影を浮かびあがらせていた。


 手前の座敷には左右の壁を背に、顔だけを奥の寝室に向け正座した男たちが微動だにせず居並んでいる。


 いや一人だけ、薄暗闇の中でもぞもぞと動いているものがいる。まだ子どものように見える若いその男は俯いてはいるが、肩が大きく揺れていた。ぐすんぐすんと鼻をすすり上げている。泣いているのだ。ときおり拳で目をこするが、若者の涙はあとからあとから湧いてくるようだった。


――まあ、徐平さん!――


 いつも大男・魁堂鉄に腰巾着のようにくっついて一人前の男となるべく修行している黄徐平だ。彼もまた危険な任務のために六鹿山に行ったと、洗濯女たちが言っていた。


――ああ、よかった……。無事に、徐平さんが六鹿山から戻ってきている。ということは、魁さまも?――


 その時、萬姜の高鳴った鼓動に呼応したかのように、大火鉢の炭が大きな音をたてて爆ぜた。積まれた炭の山が崩れて炎が高くあがり部屋の中を照らした。


 同時に、徐平の横にいて闇に溶け込んでいた男が振り返った。髷は崩れていてぼさぼさとした髪がざんばらに広がっている。顔の下半分を隠した伸ばし放題の無精髭と相まって、まさしく黒い熊だ。


 六鹿山での辛苦のせいで、まったく熊に同化してしまっているその姿だが、この時の萬姜は怖いとは思わなかった。


 朝夕に毎日、六鹿山のある西の方向に向かって手を合わせて、その無事を祈っていた姿が目の前にある。自分の立場と自分の置かれている状況、そして寝衣だけという自分の姿までも、あまりにも嬉しい再会に彼女の頭から消し飛んだ。


「ご、ご、無事で……」


 喜びにもつれそうになる足を半歩前に進めた。しかし、彼女の高鳴った胸の鼓動も踏み出した足も、奥の部屋で響きわたった関景の不機嫌なだみ声で、一瞬のうちに凍りついた。


「髪の白いおなご、なんの用事があって参った? 我らが集まって、なんぞ面白い遊びでもしているとでも思ったのか?」

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