第40話 寝台に横たわる瀕死の若者



 関景の怒声は脅かしではない。


 彼の右手は彼の左腰当たりで動いた。いつもなら必ずたずさえている剣を、その右手は無意識に探していた。目の前に突然現れた白い髪の少女を、このときの彼は問答無用で斬り殺してもよいと本気で考えた。それほどにいまの彼の胸中では、怒りと絶望が渦巻いている。


 そのような怒れる老人をなだめたのは、医師の永但州だった。


「関さん、そのように短気になってもしかたがない。突然、この場所に現れたということは、この不思議なお嬢ちゃんには医学の心得があるということだ。もう手のほどこしようのない英卓の怪我だ。このさい、お嬢ちゃんに見せるくらいしてもよいと思うが」


 但州の言葉は関景の苛立ちを鎮めた。永医師は言葉を続ける。

「もちろん、そうするかしないかは、親である興次第ではあるが……」


 その言葉に、横たわる我が子を呆然と見つめおろしていた荘興は我に返った。


 彼は強い意思をもって、体から抜け出てしまった魂の手綱を再び手元に引き戻した。寝台の傍らで石像のように立ちつくすしかなかった体をもそりと動かして、白い髪の少女のために場所を譲る。そして燭台をいっそう高く掲げて、寝台に横たわる血にまみれた息子の体を照らした。


 関景もまた少女のために場所を譲った。怒りを爆発させたところでことがよい方向に向かうことはないことを、彼もまた年の功で知ってはいるのだ。




 突然に響きわたった関景の怒声に、萬姜は縮み上がった。


 堂鉄に向かって一歩踏み出していた足を引き戻す。そして老人の怒りに油を注ぐような不用意な言葉が飛び出してこないようにと、自分の口を自分の手で押さえた。


 少しばかり心が落ち着いてきた。

 居並ぶ男たちの異様な光景に飲まれていたが、ここでやっと彼女は目を凝らして奥の部屋の様子を窺った。


 奥の部屋では一つの寝台を囲んで三人の男が立っていた。荘康と医師の永但州と関景の三人だ。荘康と医師はそれぞれの手に手燭を掲げ持っていた。幸いにも剣を携えていなかった関景は、使い道のなくなったその手を胸の前で組んでいる。


 三人の男たちは若くはないが、それぞれに体格に恵まれ日々の鍛錬も怠っていない。そのような彼らに囲まれて、小柄な少女は臆せずに立っていた。きらきらと輝く白い髪に白い肌、そのうえ身に纏っている寝衣までもが白い。ぼんやりとした光を発する白い宝玉のような姿が熾った炭火や手燭の灯りを受けて、時々、暖かい橙色に染まり燃え上がる。


 寝台に上には横たえられた体があった。


 萬姜の場所からでは、揃えられて伸ばされた二つの足の裏しか見えない。たぶん、何日か前まではしっかりと大地を踏みしめていたであろう骨ばった大きな足だ。荘家の血を引く体格のよい若者の足だ。それがぴくりとも動かない様子と、さきほどの医師の言葉で、容態はよくないのだと離れていても察することができた。


――魁さまのお元気な姿を見て、わたしはすっかり失念していたわ。宗主さまのご三男・英卓さまを探しに、魁さまは危険な任務を背負って六鹿山に赴かれていた。ということは、あの新台に横たわっておられるのは、その英卓さま……。お気の毒に、お怪我はよくはないのだわ。まだ、お若いだろうに――


 場所を譲られて寝台に近づいた少女は、横たわった若い男の体に覆いかぶさるようにしてその傷のさまを確かめ始めた。小さな傷の一つ一つでさえ見落とすことなく、そのすべてを知っておきたいようだ。


 英卓の容態を少女に説明する医師の声がぼそぼそと続く。言葉の不自由な少女がそれをどのくらい理解しているのかわからないが、彼は医師として最後まで望みを捨てたくないと思った。いや、これは望みではない。神の御業にすがる奇跡に等しい。


 燭台を片手にした荘興は寝台を離れ、座敷に居並ぶ者たちに対峙した。あとは少女と医師に任せることにしたようだ。瞬時にその心から親の想いを捨て去った彼の声は朗々として、それはいつもの荘本家三千人の頂点に立つ男の声だ。


「いま、ある男の悪だくみによって、荘本家をとりまく状況がよくないことは、おまえたちも知っていることだろう。そのために、健敬の補佐をさせようと英卓を慶央に連れ帰ることにした。しかし、残念ながら、ときはすでに遅かった。悪だくみにたけた男の手はすでに六鹿山にまで伸びていて、英卓はこのように無残な姿となってしまった。だがいまは、英卓がその命をながらえさせて生まれ故郷の慶央まで戻って来たことを、親としてなによりも嬉しく思う。命知らずの堂鉄、そして彼に付き従って雪深い六鹿山におもむいてくれたものたちに、この荘興、心より礼を言う」


 徐平のすすり泣く声が激しさを増した。


 生まれて初めて足を踏み入れた雪山の寒さと厳しさ、そして幾度か経験した戦闘の恐怖と残酷さが、彼の脳裏を走馬灯のように駆けめぐった。そしてその結果がこれだと思えば、十六歳の少年の無作法を咎めるものは誰もいない。ここにいる誰もが涙こそ浮かべてはいないが、心の中の無念は徐平と同じだ。


 言葉を切ってしばらく猛者たちの顔を見渡していた荘興が、再び口を開いた。


「見てのとおり、英卓の怪我の状態はよくない。永医師の見立てによると、その命は持って今夜一晩だろうとのことだ。もう、我々の出来ることはない。静かに見送ってやろうではないか」



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