第41話 白麗、英卓に不思議な治療を施す



 子を失う心の痛みを隠してここまで語った荘興だったが、皆の視線が自分から外れて後ろに注がれていることに、彼は途中から気づいた。話を切って、何ごとかとおもむろに振り返る。


 英卓の傷を見終わった白い髪の少女が、寝衣の袖をまくった白い左腕を、寝台横の卓の上に置いてあった深皿のうえにかざしていた。高熱で体が燃えるように熱い英卓になんとか水を飲ませたいと用意した深皿だ。だが、固く歯を食いしばった若い男の口は受けつけない。そのために器の底にまだ水は残っている。


 卓の上には、鞘のない小刀も置いてあった。傷を切開して膿を絞り出すためのものだ。


――生と死の境にいる男に、いまさら新たな苦痛を与えてどうなる?――


 永但州はそのように考えた。

 そのために小刀の刃は血にも脂にも汚れることなく、燭台の灯りのもとでその切れ味を誇示するかのように冷たく輝いている。


 それを右手で取り上げた少女は刃を左腕にあててためらうことなく引いた。血がぽたぽたと深皿に落ちていく。


「ひぃぃ……」


 本当は、「お嬢さま、なんてことを!」「誰か、誰か、お嬢さまを止めてください」と、彼女は叫びたかった。しかし、自分の両手で塞いでいたので、萬姜の口から漏れたのは悲鳴だけだった。


 萬姜と同じように驚いて腰を浮かした男たちの向こうに、小刀を卓上に戻した少女が器を手に取って、それを口に含む姿が見える。少女がなにをしようとしているのかを察した永医師の声が、萬姜にも聞こえた。


「お嬢さん、英卓にせめて水だけでも飲ませたいものだと、我々もいろいろとやってはみた。しかし、たとえ口移しであっても、この状態では難しい。彼はあまりにも固く歯を食いしばっている。こじ開けるのもむつかしい」


 しかし少女は聞いていない。自分の血が溶けた水を口に含むと器を卓上に戻し、そして横たわる男の顔に覆いかぶさった。


「おお!」

 荘興と永医師と関景の三人が同時に叫んだ。絶対に動くことはないと思っていた英卓の喉仏が上下するのを、彼らは見たのだ。


 突然、だらりと垂れていた英卓の右手が跳ねるように上がった。


 血と泥で汚れてはいるが、美丈夫な若い男の手は大きくその指は長い。その手が何かを探しもとめるようにしばらく宙をさまよい、その後に自分に覆いかぶさった少女の頭までおりてきた。そして、迷うことなく少女の白い髪をつかんだ。


「おお!」


 もう一度、荘興と永医師と関景は叫び、その声に腰を浮かした者たちの声も重なった。


 すでに三途の川を渡り終えようとしている者に、これほどの力強さが残っていたとは。少女の白い髪をつかんだ若者の手が、この世からあの世に垂れた一本の命綱を握りしめたように皆には見えた。


 あまりに衝撃的な光景に、腰から崩れ落ちるように萬姜はどさりと座り込んだ。しっかりと塞いでいた口から手が離れる。


「ああ……、ああ……」


 だが、動かせるようになった口だが驚きで言葉が出てこない。荘興が振り返る。男たちの後ろにいた彼女に、彼はいまになって気づいた。

「萬姜、そこにいたのか?」


「そ、そ、宗主さま……」


「白麗さまは、英卓の治療中だ。春とはいえ、今夜は冷える。おまえは部屋に戻っておれ。その手の中にあるのは、白麗さまの羽織りものか? こちらであずかろう」


「し、し、しかし……」


 荘興の向こうに少女が見えた。自分の血を混ぜた水を口移しに英卓に与えた少女は、今度は血の溶けた水に布を浸しそれで男の傷を拭っている。


「白麗お嬢さまを、このままここにお残しすることは……」


「あとはおれと永医師に任せよ。英卓の治療が終われば、白麗さまは必ずおまえの元に戻すと約束する」


「いえ、わたしは最後まで……」


 その問いに荘興は答えなかった。

「堂鉄、いるか?」

「はっ!」


「英卓のことが気がかりではあるだろうが、萬姜を部屋にまで連れて行ってやれ。これ以上騒がれては、白麗さまの治療の障りとなるかも知れんからな」

「はっ!」


 居並んで座っている男たちの中から、熊が素早く立ち上がった。


「萬姜は腰が抜けている。あれを背負えるのは、おまえくらいだろう」

「承知!」


 だが、荘興の言葉と萬姜の体形に失笑は起きない。今の状況を笑いにしてはならないという雰囲気が、立ち上がった熊から殺気のように放たれている。


 熊は萬姜の前まで来るとしゃがみ込んで背中を見せた。「萬姜」と名前だけを呼んだ彼の声に冷たさはないが、かといって逆らえる優しさもまたない。ずるずると這った彼女はその背におぶさるしかない。背負われて初めて、自分が寝衣一枚のあられもない恰好でいることに初めて気がついた。


 萬姜が魁堂鉄に背負われるのはこれで二度目だ。


 この屋敷に初めて来たとき、長い放浪生活で足を痛めていた。あの時、もしかしたら母子四人の命はこれでながらえたかも知れないという安堵を、彼の広い背中に感じた。


 その日から、彼の背中に心惹かれた。

 何をしていても、彼の背中を探していたように思う。


 再び背負われて、今度もあのときと同じ安堵感に包まれた。仕える女主人の自分の腕を切るという奇怪な行動も、また太った体に寝衣一枚だという状況も、その背中は忘れた。


 やはり自分のもとめていたものはこの広い背中だと彼女は思った。白麗お嬢さまをお守りせねばという気負いも、三人の子どもたちの将来は自分にかかっているのだという心配も、この背中は忘れさせてくれる……。


 だが、その背中からはかすかだが血の臭いがする。瀕死の若者の血で汚れているのか。それとも若者を助け出すときに、それを阻止しようとした敵の血なのか。


 堂鉄の背中に顔を埋めて萬姜は目を瞑った。

 すぐに血の臭いは消えて、夫とよく似た体臭が鼻孔を満たす。なにもかも忘れたくて、彼女は大きな背中にしがみついた。




「お母さま、大丈夫でございますか?」


 梨佳の声で我に返った。堂鉄の肩越しに、手燭を持って部屋の前に立つ梨佳の姿が見えた。嬉児が走り寄ろうとして、堂鉄の姿にたじろぎ姉の後ろに隠れたのも見えた。


 腰の抜けた萬姜のために、家宰の允陶が手配したにちがいない。さすが、抜かりのない男だ。萬姜は背負われたまま、二人に声をかける。


「梨佳、白麗お嬢さまのこともわたしのことも、なにも案じることはありませんよ」


「でも、お母さま、そのようなお姿で」


 梨佳の言葉をさえぎって堂鉄が言う。

「萬姜、ここでよいな。梨佳、おまえの母は腰が抜けて立つことができない。あとは頼む」


「あっ、はい……」


 梨佳にささえられて、萬姜は堂鉄の広い背中を見送った。星明りの下、遠ざかる後ろ姿の男のまとう着物に見覚えがある。


――あのお着物、わたしが繕ってさしあげたものだわ――


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