第42話 白麗の不思議な治療は続いて、その七日目の夜
瀕死の荘英卓が六鹿山より戻ってきてから、七日が過ぎた。
朝に一度昼に二度、そして真夜中にも一度、白い髪の少女の治療は続いている。英卓はまだ眠り続けたままだが、呼びかければ目を開けるかと思われるほどに顔色はよくなった。
治療のたびにおろおろと少女の後ろについてくる萬姜に、この七日間、永医師は言い続けた。
「お嬢ちゃんの不思議な治療で、英卓は死の淵から呼び戻されたことだけは確かだ。しかし、いつになったら目覚めるのかは、医師のおれにもわからぬ。こうなったら気長に待つしかない」
そして、白い髪の少女だけを病室に招き入れ、萬姜を追い返そうとする。
「萬姜、おまえの心配はわからぬでもないが。おまえがいてはお嬢ちゃんも治療に気が散ることだろう。自分の部屋で待っておれ」
少女のことを何よりも心配する萬姜のことだ。そしてあのように自分を傷つける不思議な治療だ。初めての夜のときのように、悲鳴をあげられたり騒がれたりしては困ると、彼もまた荘康と同じ考えのようだ。
「しかし、永先生……。お嬢さまの……、お嬢さまは……」
それでもと、萬姜は食い下がる。
しかし「必ずや英卓は目覚めてくれると、興もおれも信じている。でなければ、お嬢ちゃんの今までの治療が水泡に帰すではないか」と言われると、すごすごと一人で自室に戻るしかなかった。
――宗主さまも永先生も、気づかれているはず。英卓さまはお元気になられているのかも知れないけれど、お嬢さまの体が日に日に弱っていらっしゃる。あの夜から、お食事もほとんど召し上がっておられない。ここまで歩いて来ることすら、おぼつかなくなっていらっしゃる。あの変わった治療のせいにちがいないわ――
だが、彼女も人の子の親だ。
荘興とその意を汲んだ永但州の気持ちは痛いほどにわかる。
我が子に助かる望みがあるとすれば、出来る限りのことは試してみたいはずだ。そしてまた昨年の夏の終わりに、自分たち母子も少女に助けられたのだと思い出せば、彼女にそれ以上言いつのることはできなかった。
七日目の夜もまた、真夜中に少女の起きる気配で萬姜は目が覚めた。
「お嬢さま、どちらへ?」
聞いたところで、言葉の不自由な少女から答えが返ってくるわけでもなく。しかし、七晩続けば慣れてしまったところもある。
寝床から立ち上がった彼女は昼間の着物のままだ。そして少女の羽織りものをすばやく手にして、おぼつかない足取りの少女のあとを追った。まだ七日しか過ぎていないと思うべきか、それとももう七日は過ぎたと思うべきか……。それでも夜毎に春の気配は濃厚さを増し、それだけは嬉しい。
荘英卓の病室となっている部屋の前には、永医師と魁堂鉄が立っていた。
永医師は少女の治療を手伝うため、そして魁堂鉄は寝ずの番の交代の時間だったようだ。
永医師は少女の手を取って言う。
「お嬢ちゃんよく来てくれた。英卓の血色は元気な者そのものだ。あとは目覚めるのを待つのみ。お嬢ちゃんの治療でその日が明日であることを、皆は祈っている」
最後の言葉は、当然ながらこの治療に不安顔の萬姜に聞かせるためだ。
そして言葉を続けた。
「堂鉄、寝ずの番の交代の時間であったな。自室に戻るついでに萬姜を部屋まで送ってやってくれ」
「承知!」
短く答えた大きな男は、萬姜に声をかけることなく背中を見せて歩きはじめた。体の大きな男はその歩幅も広い。あっというまに置いて行かれた。永医師に少女の羽織り物を押しつけるように渡して、萬姜はその背中を追いかけた。
屋根つき渡り廊下を歩きながら、萬姜は男の背中に話しかけた。
「魁さま、英卓さまのご容態が快方にむかっておられるとのこと、喜ばしいことにございます」
返事が戻ってくることは期待していない。
彼は男にしても珍しいほどに無口だ。だがその無口は無関心からくるものではない。きっと、人並外れた忠誠心と義侠心に言葉は必要がないと信じているのだろう。
「でも、あの夜より何もお口にしないお嬢さまのことが、わたしは心配なのです」
誰にも言えず、そのためにこの七日間で膨らみに膨らんだ不安を、萬姜はその背中にぶつけた。
「お嬢さまのお命を縮めかねないあのような治療が、果たして必要なものでしょうか?」
返事がないとわかっていることが、彼女の気持ちと口を軽くする。
ついつい、胸に秘めていた愚痴も出た。
「宗主さまも永先生も、お嬢さまを止めようとしてくださらない。なぜでございましょう?」
そのとき屋根つき渡り廊下の屋根が途絶えて、春のかすんだ月が、前をいく堂鉄の背中を明るく照らした。先日の魁堂鉄は髷も崩れ髭も伸び放題だった。背負われたときには、汚れた着物から垢と汗と血の臭いがした。しかし今夜の彼は髪も結い髭も剃っている。こざっぱりとした着物に着替えてもいた。
その着物に、萬姜は見覚えがあった。
――あっ、私の縫った着物をお召しになってくださっている。約束通り、洗濯場の人が渡してくれたのだわ。よかった、わたしの目寸法に狂いはないわ。よく似合っていらっしゃる――
好きな縫い物のこととなると、一瞬、彼女は仕える白い髪の少女のことも目覚めない若い男のことも忘れた。ひと幅ふた幅と、指が無意識に前を歩く男の着物の寸法を測っていた。
魁堂鉄たちの六鹿山からの無事の帰還を願って、朝に夕に西の方角に向かって手を合わせていた日々が萬姜の脳裏に蘇る。
――あの背中の縫い目、あの袖のつけかた……。激しく体を動かす武人であることを考えて、彩楽堂さまに教えていただきながら縫ったのだけど、これでよかったのかしら? 着心地を魁さまにお聞きしたいけれど。お聞きしたところで、答えてくれそうにはないし――
では、自分で触れて確かめるしかない。
萬姜の手が大きな男の広い背中へと伸びる。
だが、魁堂鉄には後ろにも目があることを彼女は忘れていた。前を歩く男が立ち止まり振り返る。突然、背中に変わって男の厚い胸板が萬姜の目の前にせまり、着物のことばかり考えて歩いていた彼女は彼にぶつかった。
――あっ!――
萬姜の豊満な体が、すっぽりと男の胸の中におさまった。男の体のぬくもりと心地よさが彼女を包む。いまの苦しい状況を受け止めてくれる場所がここにあるのだと思った。伸ばしていた手で男の着物の衿元を握りしめ、その中に彼女は顔を埋めた。
男の両手が肩に触れた。しかし大きく力強い手は彼女の肩に置かれると同時に、彼女を突き放した。頭上より降ってきた言葉は短い。
「ここでよいな」
「え?」
去っていく男の後ろ姿を見送り、部屋の前までどうやって辿りついたのかおぼえていない。
だが、誰もいない部屋に入る気にはなれなかった。
萬姜の膝はへなへなと崩れ、部屋の戸へと続く階に座り込んでしまう。いまの彼女にできることは、両手の中に顔をうずめて溢れる涙をごまかすことだけだ。
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