第6話 お腹の鳴る音は止められない
「こんなところを一人で歩いてはいけないよ。世間には、悪いことを考えている者がいっぱいいるのだからね。気をつけなくては。まずは、お嬢さんの名前を教えてもらおうかねえ」
しかし少女は萬姜を見下ろしたまま答えようとはしない。
「ああ、そうだったね。お嬢さんの名前を聞く前に、まずはわたしから名乗らなくちゃね。わたしは
そのとき、さきほどまでの武勇伝を姉の梨佳に熱く語っていた嬉児が振り返って、口を挟んできた。
「おねえちゃまは、はなせないんだよ」
その言葉に、破れ笠を上下に揺らして少女が頷く。
「でも、あたちのいうことはわかるんだよね、おねえちゃま」
もう一度大きく破れ笠が上下に動いた。
「おや、言葉が不自由だったのかい? それは気づかなくて悪いことをしてしまったね」
今度は激しく数度、破れ笠が左右に振られた。
「それじゃあ、なおさらのこと、親御さんたちは心配しているだろうにねえ。すぐにでも、探してあげたいのだけど。見ての通り、わたしたちも役に立てる状態ではなくてね。さて、どうしたものか……」
そのとき、肉汁のよい匂いが萬姜の鼻孔をくすぐった。その匂いだけで、刻んだ野菜を混ぜてじっくりと煮込んだ挽肉の味が、口の中に広がる。
ぎゅるるる……。
丸二日、何も食べていない彼女の胃の腑が大きな音を立てて縮んだ。こんな状態にあっても体は正直だ。
「まあ、わたしってなんてことを」
あまりの恥ずかしさに独り言のつもりが声に出た。そして三人の子どもたちを見ると、彼らの目がいちおうに少女が肩からかけた頭陀袋に釘付けとなっている。それでこのよい匂いはその頭陀袋の中から漂ってきているのだと、萬姜は気がついた。
――あらま、嬉児がこのお嬢さんの上衣の裾を握って離さなかったのは、この匂いのせいもあるんだねえ。困った子たちだこと。でも、そういうわたしだって、この匂いにお腹まで鳴らしたのだから。叱るわけにもいかない――
母子四人の視線が自分の頭陀袋に注がれていることに、少女は気づいたようだ。おもむろに袋の蓋を開けて中から布包みを取り出すと、萬姜の手の上にそれを乗せた。
それは柔らかく、しかしずっしりと重い。
布包みを開けると想像通り、大きな肉入り饅頭が二つ入っていた。
「冷めてはいるけれど、これはまあ、なんと大きくて美味しそうな饅頭だこと。お嬢さんのお弁当かい? もしかして、これをわたしたちにくれるとでも? でも、それはいけないよ。お嬢さんの大切なお弁当がなくなってしまうだろうに」
萬姜のその言葉に、少女はその布包みをさらに強く萬姜に押しつけてくる。
「そうだね、どうしてもわたしたちにくれると言うのだったら。どうだろう、皆で分けて食べることにしてもいいかい?」
破れ笠の奥でにこりと笑った少女が頷く。
「じゃあ、みんなで丸くなって座ろうかね。お嬢さんも嬉児と梨佳の間に座って。饅頭は二つあるから、まずは一つを半分にして、これはお嬢さんと嬉児のぶんだよ。そしてもう一つも半分にして、これは範連と梨佳のぶんだね」
土と垢で汚れた嬉児と範連の手が、耐えかねた空腹と焦りでぶるぶると震えている。二人の目は饅頭しか見えていない。しかし、梨佳にはまだ考える余裕があった。
「これでは、お母さまの饅頭がないではありませんか?」
手の上に乗せられた半分に割られた饅頭を見て彼女は言う。
「いいんだよ。わたしの心配はしなくても。わたしはお腹は空いていないからね」
「だって、さっきの……、あれは……」
「あっ、あれは、その……。いったいなんの話でしょうね」
空腹のために鳴った腹の音への母のしどろもどろな言い訳に、梨佳が笑った。それは箸が転げても可笑しいと笑う十七歳の彼女が見せた、久しぶりの笑顔だ。そしてひとしきり笑ったのち、自分の手の中にあった半分の饅頭をまた半分に割って、梨佳は母の手の上に乗せた。
「お母さまが召し上がってくださらないと、嬉児も範連もそしてこちらのお嬢さまも食べられないじゃないですか。どのようなものでも、みんなで分かち合って食べるから美味しいのです」
梨佳の言葉はいつも賢い。七つ年上だった姉も賢い人だった。そして背が低く太った萬姜とちがって、その容姿も美しい人だった。学者だった若者と相思相愛となり、婚姻の日取りも決まっていた。それが突然、若者は政変の噂がある都・安陽の様子を見てくると旅立ち、そのまま帰って来なかった。そして、旅立ちの前にたった一度だけ情を交わした姉は、梨佳を産んで失意のうちに死んだのだ。
その姉にそっっくりな目で見つめられては、萬姜もこれ以上逆らうことは出来ない。
「みんな、喉に詰まらせたら大変だから、ゆっくりと食べるんだよ」
その言葉を合図に、萬姜母子と少女の五人は饅頭にかぶりついた。
肉のたっぷり詰まった大きな饅頭だったせいか、それともみんなで力を合わせて悪人を退散させた高揚感からか。腹の中に収まったのは饅頭の小さな欠片でしかなかったが、不思議なことに満腹を感じさせた。最後に竹筒の水をみんなで回し飲みして、そこでまた萬姜は我に返り、いまの状況を思い出してため息をついた。
「この迷子のお嬢さんの親御さん探しは、ほんとどうしたものかね。せめてお家の場所でもわかれば、なんとかしてあげられるのかもしれないのだけどねえ。でも言葉が話せないとなると……」
その萬姜の言葉に、突然、少女が立ちあがった。そして手を上げると参道を下った方向を指さす。その様子を見あげて、座ったままの嬉児が言う。
「あっちにおねえちゃまのおうちがあるんだって。みんなでいこうって、おねえちゃまがいっているよ」
「嬉児、おまえはお嬢さんの言いたいことがわかるのかい?」
母の問いに答えることなく、嬉児は少女に向かって言葉を続けた。
「おねえちゃま、おねえちゃまのおうちには、まだおまんじゅうがいっぱいある?」
破れ笠が揺れて少女が頷く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます