第5話 みんなで力を合わせれば心は一つ
――あのお嬢さんをなんとかして助けてあげなければ。だけど、不用意なことをして怯えさせて、人混みに逃げられたら元も子もない――
ふいに亡き夫を思い出した。
流行り病で、突然、逝ってしまった夫は優しくそして物知りだった。
ある夜、帳簿付けをしていた夫の横で、彼女は憤慨した口調で喋り続けていた。その内容は、理不尽な要求を突き付けてきた客への怒りだったのか。それとも、我が子をいじめる近所の悪たれガキへの怒りだったのか。いまとなっては覚えていないが、事の次第を話し終えて彼女は言った。
「聞いて聞かぬふり、見て見ぬふりをすべきかとは、わたしだって考えたのです。でも、そうすればそのときのその場は収まっても、またそういうことはいつかは繰り返すではありませんか。出しゃばり女と嫌われても、言うべきことは言わないと、問題の解決にはならないと思います」
夫は帳簿を閉じると、書き損じた紙を手元に引き寄せて、その隅に何ごとかをすらすらと書いた。そしてそれを萬姜の前に置く。
「読んでごらん」
「ぎ・を・み・て・せ・ざ・る・は・ゆ・う・な・き・な・り……、旦那さま、これは?」
「義を見てせざるは勇無きなりと、読むんだよ。その昔、人の道を説いた偉いお人の言葉だ。正義の行いだと知りながら、それを実行しないのは勇気がないからだという意味だ」
夫は優しく微笑むと言葉を続けた。
「おまえの正義感にケチをつけようとは思っていない。それどころか、おまえのそういうところを、わたしは好ましくさえ思っている。しかし、正義感というものはやっかいなものだ。例えるなら諸刃の剣だ。後先を考えずに振り回すと、相手だけでなく自分までも傷つけてしまう。そのことだけは忘れてはいけないよ」
頭をぶんぶんと振って、萬姜は夫の思い出を振り払う。
――ここは頭の使いどころだね――
彼女は三人の子どもたちの顔を順番に見やった。子どもたちもまた旺家の特徴でもある二重の丸い目に不安を浮かべて、「お母さまは何を考えているのだろう?」と、見つめ返してくる。
――ええと、そうだわ。ここで活躍してもらうのは、十七歳の梨佳でもなく、男の子の範連でもない。やはり一番幼い嬉児に頑張ってもらいましょう――
そう決めると、姉の梨佳に寄りかかるようにして座っている末子の嬉児を、彼女は手招いた。
「嬉児、ちょっとこちらにおいで。お腹が空いて辛いとは思うけれど、お母ちゃまのこれから言うことをよく聞いてね。あそこに笠をかぶった子がいるでしょう」
「あのおねえちゃま?」
「そうそう、あのお嬢さんのことだよ。おまえにもあの子が女の子だってわかるのだね。それだったら話は早い」
そう言いながら、目の前に立った幼い我が子の上衣の衿の打ち合わせを直し、
最後に二つのお団子に結った
――婚姻が決まったときにあの人が買ってくれた櫛だった。嬉しくて、この十年、わたしはそれだけをずっと髪に挿していた。あの人は違う櫛も買ってあげようと笑って言ったけれど、わたしはこれでいいっていつも言い返していた。でも、新開の町を出る時に、路銀の足しにと売ってしまった――
萬姜の手が止まり、その口からかすかなため息が漏れる。一年半前の不幸が始まってよりいったい何度目のため息だろうか。
「おかあちゃま?」
嬉児の声に自分の手が宙で止まっていたことに気づき、その手をおろしてほつれ毛を掻き上げてやりながら、萬姜は言葉を続けた。
「あの女の子のそばに行って、『おねえちゃま』と呼びかけるんだよ。そして名前を聞いてもいいしお天気の話でもいいから、お話を続けるんだよ。女の子がにっこり笑っておまえの話に応えてくれたら、そのときにすかさず女の子の上衣の裾をしっかり掴みなさい。そのあとは何があっても絶対にその手を離してはいけないよ。あとはお母ちゃまに任せておけばよいからね」
母の言葉にすなおにこくりと頷くと、嬉児は人の流れにぶつかりながらも少女の元へと歩いていき、そしてたどり着いた。
嬉児の『おねえちゃま!』という呼びかけに少女は振り向く。
手振り身振りを交えて話す嬉児。
それに応えて上下に動く少女の被る破れ笠。
それまでつかず離れずの距離を保っていた男が、突然、慌て始めた。背伸びして周囲をきょろきょろと見回している。嬉児がどこから現れたのか、確かめようとしているのだろう。そのとき、少女の信頼を得た嬉児がその上衣の裾をしっかりと握りしめたのが、途切れた人の流れの向こうに見えた。
さて、仕上げにあと一押し……と、萬姜が口を開くよりも先に、母が何を考え妹の嬉児が何をしているか、理解した梨佳と範連が立ち上がった。
しっかりものの梨佳が言う。
「お母さま、わたしが行きます」
「いえ、梨佳、あなたよりも範連のほうがよいと思う。ああいう男は相手が女だと見くびると何をするかわからない。万が一、手を振り上げることだって考えられる。範連はまだ十歳だけど背が高いし、物言いもおじるところがない。きっと男もためらうと思う。範連、こちらにおいで」
嬉児にしてやったように、目の前に立った範連の着ているものを整えてやり、ぼさぼさと艶のない髪を団子の形に結い上げた髷の乱れを直してやる。
「範連、おまえにお願いするわね。嬉児とあの女の子に、『どこに行ってしまったかと思ったよ。お父さまとお母さまが心配しているじゃないか』って、周囲にも聞こえるような大きな声で言いなさい。そして二人をここに連れて戻っておいで。でも、絶対に、あの女の子を怖がらせてはいけないよ」
「まかせてください。必ず、二人を連れて戻ってきます」
そう言って後ろ姿を見せた少年の背中は、この一年の苦労で肩がとがるほどに痩せていた。萬姜の口からまたため息が漏れる。
――自分と三人の子どもの身でさえ、その処し方を思いつかないというのに。このうえに迷子の女の子を一人増やそうだなんて。わたしって、何をしているのだか――
少女の後をつけていた男は、嬉児だけでなく範連まで現れて驚いたようだ。それでも狙った獲物を逃すのが惜しいのか、居丈高になって範連に何か言っている。たぶん、この子は自分の連れだとかなんとか。
しかし範連はそのような脅しには一歩も引かない。睨みつけてくる男の目を正面から見つめたまま、大声で言い返す。
その光景に、三々五々連れだって歩いていた人たちの足が止まった。
そのことに気づいた男は、注目を集めると自分の顔が知られると思った。それは彼のこれからも続く仕事にとって得策でない。捨て台詞を吐くと、ぴらぴらした着物の肩を揺らしながら人混みの中に消えて行った。
範連は嬉児の手を引き、嬉児は母に言われた通りに少女の上衣の裾をしっかり掴んだまま、三人は無事に萬姜たちのところへ戻ってきた。自分たちが力を合わせて悪人を追いはらったことに、幼いながらも範連は胸を張り、嬉児は小鼻を膨らませ、そして二人とも顔を上気させていた。
いままでの成り行きをはらはらしながら見守っていた梨佳は弟と妹を迎え抱き寄せた。そして座り込んでいた萬姜は少女を見上げる形になった。
少女が目深にかぶった破れ笠の中は陽の光をさえぎってほの暗い。
しかしその奥で少女の顔は乳白色の宝玉のように淡く輝いていた。抜けるように色白な肌をしているのだろう。その中で色があるのは、薄紅く形のよい唇と、萬姜を見下ろすガラス玉のように透き通って輝く金茶色の瞳だけだ。
「なんとまあ、可愛らしいお嬢さんだこと……」
疲れも空腹も足の痛みも忘れて、萬姜は思わずつぶやいた。
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