第4話 不幸が人を強くする?
母子四人とも、一昨日より水以外は口にしていない。
懐の巾着の中にあったわずかな小銭は、先ほど、鬼子母神の祠への賽銭として使い果たした。その銭で食べものを買ったところで、それを誰が食べるというのか。子どもたちはそれぞれに遠慮しあうことだろう。
その姿を見るのかと思うと、母親としてあまりにも不甲斐なく切なかった。きれいさっぱり賽銭箱に放り込んで、のちのち誰かの役に立つと思うほうが後悔はないというものだ。
旺萬姜の家は新開の町で三代続いた呉服屋だった。老舗とか大店とかいう言葉には無縁ではあったが、使用人も数人抱えていた。
店先に吊るした古着で人目を引き、寄ってきた客を店内に招き入れて、「お誂えもいたします」と新品の反物を見せる。棚には見立てのよい帯や簪や履物まで並べてあって、それなりに手堅く商っていた。生活に困ることはなかった。
姉の亡きあとに年頃となった萬姜は入り婿を迎えたが、夫となった男も勤勉で優しい人だった。二人の子どもに恵まれ両親も健在で、あとは梨佳の嫁入り先の心配だけ……。
悲劇は、昨年の春に突然に起きた。
両親と夫が流行り病で寝込む間もなくあっというまに死んでしまったのだ。
父母と夫を失い悲しみに暮れる家に、叔父夫婦が乗り込んできた。姪の窮状を見かねてというのが彼らの口実だった。しかし、商売よりも自分たちの贅沢な生活に重きをおいた彼らの手で、小さな店が傾くのに一年もかからなかった。
すべてを売り払って叔父夫婦は夜逃げし、一夜にして萬姜母子は住む家を含めて何もかも失ったのだ。
叔父夫婦に取り上げられていなかった身につけていたものを売って、萬姜はわずかな銭を作った。そして、遠い親戚をあてにしていくつかの村や町をさまよい、慶央の街にまで流れ着いた。
だが、やはりどうあがいても世間は甘くない。
頼りとした親戚の家ではしばらくの食事と寝る場所を与えられただけで、どこも体よく追い出された。彼らが新開の町に遊びにやってきた時、どれほどの銭を使って歓待したことか。それが真面目に働いていた父母の唯一の楽しみでもあったのに。しかし、いまさらそれを口にしたところで詮ないことだ。
昨夜は、空きっ腹を抱えて、無人の納屋の軒下で野宿をした。
季節は秋の始まりで、昼間は汗ばむ陽気だが夜になると冷える。澄み切った夜空に瞬く星を見て、この星々は新開の町の父母と夫の墓の上でも瞬いているのかと想像して、涙した。頼るべき者の顔も名前も浮かばない。もう、これ以上生きていくのは無理だ。
明け方、やっとうとうとし始めた時に、納屋の持ち主に見つかって追いはらわれた。ここに四人で居座られて野垂れ死にされたら困ると、彼は思ったのだろう。
しかたなく通りに出てみると、ぞろぞろと歩く人たちに出会った。そして考えることもなくその人の流れに身を任せて歩き、鬼子母神の祠に来てしまった。
そのような事情で、今夜の自分の死に方を考え、三人の子どもたちの行く末に想いを馳せている萬姜だった。
その日が月に一度の鬼子母神の市が立つ日であったことや、自分たちが飢えた身を持たせかけていた山門が≪再会門≫と呼ばれていたことは、それよりずっとあとになって知ったことだ。
そんな彼女だが、自分の身の始末と同じく、先ほどよりもう一つ気になってしかたのないことがある。
破れ笠を目深にかぶったほっそりとした人のことだ。
その人は、山門の影に座り込んでいる萬姜たちの前を行きつ戻りつしては、先ほどから、露店を熱心に覗き込んでいた。このような賑わいがよほど珍しいのだろうか。立ち止まっては破れ笠の隙間から一つ一つの露店を眺めるさまは、傍目に見ていて微笑ましい。しかし、その小さな人の傍らには、親兄弟らしきものはいない。
――笠で顔は見えなくて着ているものも男物だけど、あれはどう見たって、少女。このわたしの目はだませない――
小さな人の細くしなやかな体つきを見て、萬姜は思う。
三人の子どもを育てた経験もあるが、彼女は着物を商う家に生まれ育った。着物を誂えてはそれを身に纏う多くの老若男女を見てきた。『馬子にも衣裳』という言葉も言い当てた言葉だ。だが、人の本質は着るものでは誤魔化せないということも、長年の経験で知っている。
――背格好からすると、十二、三歳くらい。まだ大人になりきれていない少女だわ――
着ているものは麻糸で荒く織って木の皮で茶色に染めた揃いの上下。
短い丈の上衣は筒袖で、大きすぎるそれを深く前で打ち合わせて共の細い紐で縛っている。下衣は白い脹脛がのぞくこれも丈の短い
お屋敷で水汲みや庭掃除にたずさわっている下男や、あるいは農民たちの作業着だ。両肩にツギを当てた着古したものではあるが、洗濯はなされているようで垢じみてはいない。
粗末な着物を優雅な立ち姿で着こなした少女は、まるで掃き溜めに舞い降りた鶴のように萬姜には見えた。
あの少女はいったいどういう暮らしをしていて、そしてここに一人でいることになったのか? そして、胸の前で紐を縛っている、背中に背負っている細長い袋の中にはなにが入っているのか?
想像し始めると、萬姜は自分が死ぬ方法を考えていたことを忘れてしまった。そしてまた、その少女の後ろをつかず離れずについて歩いている、男のことも気になった。あの様子は、どう見ても少女の連れではないだろう。
――あのうさん臭い男は、どうにもいただけない――
男は、少女との距離をはかったように立っている。近づきもせずかといって離れて行く訳でもない。
――声をかけて、かどわかす機会を狙っているのは、ここからでも見え見えだわ。だけど、いまのわたしに何が出来る? 何も出来やしない――
ぼんやりと萬姜が見つめる先で、少女は破れ笠に手をかけた。少し笠を持ち上げて、露店の藁に串刺しされた色鮮やかな張りぼての縁起物を見上げる。笠に置かれた白く細い手を見た時、萬姜の心の内より激しく噴きあがる熱い感情があった。久しく忘れていた怒りの感情だ。
夫と両親を同時に失くしてより、萬姜の心に穴が空いた。
喜びや悲しみや怒りが芽生えても、大きく育つ前に全部、その穴から感情という感情が抜けていった。生きているという実感がなく、ただ、時だけが過ぎていく。叔父夫婦の理不尽な店の乗っ取りに言いなりになってしまったのも、そのせいだ。
――ああ、今となっては、この一年半の自分の不甲斐なさも含めて、世の中の何もかもに腹が立つ。少女のあとをつけ回しているあの男にも腹が立つ。あの男のすべてが気に入らない―――
あの崩した髷の形の髪型はみっともない。
あの派手でぴらぴらした着物など見たくもない。
何よりも、あの顔つきは最低だ。浅ましい心根が、物欲しそうな表情となって出ている。
沸き上がった怒りは萬姜の迷いを吹っ切れさせた。萬姜さんと皆から親しみを込めて呼ばれ頼りにされていた本来の彼女に、その心は戻っていた。
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