第7話 一難去ってまた一難
少女が差し出した手にすがって嬉児が立ち上がると、梨佳と範連も立ち上がった。そして立ち上がろうとしない母親を振り返る。そこには泣いているのか笑っているのか、わからない顔をした萬姜が座り込んだままだ。
「残念なことに、どうやらわたしは足を痛めたようだよ。もう立てないし、歩けないみたいだね。おまえたちだけで、お嬢さんの家に連れて行ってもらいなさい」
梨佳と範連が同時に声をあげた。
「お母さまだけをここに置き去りにするなんて、そんなことできません!」
しかしだからと言ってどうしてよいものか。賢い梨佳も思いつかない。範連だけが言葉を続けた。
「お母さまを、おれが背負います」
「心配しなくていいんだよ、範連。わたしがもう少し痩せていれば、おまえにお願いしたのだろうけれど……」
そう言って、いまさら隠しようのない豊満な胸を両手で抱くようにして、萬姜はその体を小さくした。彼女はその気性もおおらかだが、その体もおおらかに小太りだ。
「この重たい体を運ぶのはもう嫌だって、自分の足がそう言うのだから世話ないね。この一年の苦労でも、わたしの体は一
しかし彼女が望み通り痩せていたとしても、十歳の痩せこけた少年の体では背負うのが無理なことは試して見なくても明らかだ。萬姜がゆっくりと頭を横に振るのを見て、諦めきれない範連は周囲を見渡した。そして彼は見つけた。
「あの露店の荷車を借りましょう!」
皆が引き止める声も聞かずに、範連は駆けだした。
範連が見つけた露店では、飴売りが客の呼び込みの真っ最中だ。
頭のてっぺんに白髪交じりの小さな髷を乗せた飴売りは、薄く伸ばした飴で花や動物の形を作り、竹箸に刺して売っている。客が並んでいない時は、売れ筋を適当に作って板の上に並べ口上を述べて客引きするのだ。そして、彼の後ろには、商売道具を運ぶための荷車が立てかけてあった。
荷車は持ち主の顔に似て、長年の風雨にさらされて黒ずんでいた。木の車輪にいたっては、彼の出ばった歯と同じくあちこちが欠けてぼろぼろだ。しかしながらそんな荷車でも飴売りは貸すことを惜しんだ。声を荒げて彼はことさら大きな声で叫ぶ。
「大事な商売道具だぞ。見も知らぬ他人に貸せるものか!」
「ほんのしばらくの間だけです。歩けなくなった母を乗せて運びたいのです。すぐに返しに戻って来ます。約束します」
「あとで返すだと? 誰がそんな言葉を信じるのか。舐めたことを抜かすな」
それでもと食い下がる範連に、露店商は手をあげた。
「小僧、そんなところに立っていたら、商いの邪魔だろうが!」
範連は突き飛ばされて転がった。めんどうごとに巻き込まれたくないとばかりに、行きかう人たちの流れが飴屋のまわりからさっと遠のく。転がった時に切ったのだろう、口の中に血の味がひろがる。それでも飴売りが根負けするまで何度も頼むのだと、心を決めている範連は立ち上がった。
「お願いです。母の命を助けると思って、荷車を貸してください」
「知ったことかよ。おまえの母ちゃんなど、おれには他人だ。もうちょっと痛い思いをしないと、そんなこともおまえにはわからないようだな」
飴売りはその手に棒切れをかまえた。追いはらっても寄ってくる野良犬や、隙あらば飴をくすめようとする飢えた浮浪児を追いはらうために、いつも手元に隠し持っている棒切れだ。
範連が転がったときにさっと離れた人の流れが再び戻ってきていた。中には「何ごとだ?」と足を止めて見物しようとするものまで現れ始めている。飴売りは焦った。これではほんとうに商売は上がったりではないか。
「顔もみたことのないおまえの母ちゃんより、おれの今夜の飯をどうしてくれる!」
しかし飴売りの振り上げた手は宙で止まった。
「おにいちゃま!」
人混みをかき分けて、嬉児が駆け寄ってきた。その後ろに笠を被った少女も続いている。
「おにいちゃま、ちがでてる! おじちゃん、あたちのおにいちゃまになんてことするの!」
飴売りの腰にしがみついた嬉児が喚いた。
見物人の数が先より増え始めている。飴売りは手を下ろさざるを得なかった。しかし、このまま引っ込むわけにもいかない。
「小汚いガキが揃いやがって! もっと痛い目にあいたいと見える。覚悟しろよ」
子ども相手に棒切れを振り回すのを諦めた飴売りが、今度はしがみついている嬉児に蹴りをいれようとしたとき、破れ笠をかぶった少女がその間に割って入った。
少女は頭陀袋の中に手を入れた。そしてその中から小さい白い石を取りだすと、それを飴売りの目の前につきつけた。
「もしかして、その石ころと、俺さまの大事な荷車とを、取りかえよとでもいうのか。とんでもねえ話だ……」
飴売りの声がだんだんと小さくなった。初めはただの石としか思えなかったものが、一瞬、陽の光を受けて輝いたのを彼は見たからだ。
「うん? ちょっと見せてみな」
少女から取り上げたそれは猫の形に彫られた白い玉石で、その猫は前足を毬にかけている。男は唾をつけた指でその毬をこすり、それから西に傾きはじめた陽にかざした。陽の光を受けて、毬は淡い七色の虹を浮かべて銀色に美しく輝く。
「たまげた。でかい真珠じゃないか……」
男は自分の声の大きさに首をすくめ、慌ててその猫の像を懐にしまった。
「しようがねえなあ、荷車を持っていきな。そんで、その荷車は返さなくてもいいからな。その代り、おれが頂いたものも返さないからな」
そして、「これはおまけだ」と、売り物の飴を一つ手に取ると、少女の手に握らせた。すかさず、さきほどまでの泣き顔をひっこめた嬉児が横から手を出す。
飴売りはその手にも飴をひとつ載せると言った。
「ほんとに、揃いも揃って、なんていう欲深いガキどもだ。ほいよ、くそ生意気なお嬢ちゃん、この飴もおまけだ。その代り、もう戻ってくるなよ」
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