花見の宴
第31話 花見の宴のために用意された美しい着物
たおやかな春の足音は一雨ごとにしめやかに近づいてくる。
朝から冷たい雨が降っていた。
しかし、窓を開けて吸い込んだ外気には、日を追って色濃くなる大地に芽吹こうとしている草の匂いがする。そして、匂いの中に浮足立っている使用人たちの喜びが混じっていると感じるのは、想像力たくましい萬姜だからだろう。
荘本家恒例の花見の宴の日が、両手の指を折って数えられるまでに迫っていた。
そのためだろうか。今まであれほど歓待してくれていた洗濯女たちの対応が、今日は素っ気ない。何人かが花見の宴の準備に駆り出されていると聞かされた。洗濯の仕事がますます忙しくなっているのは、しかたがないことではある。
「すまないね、その菓子。置いといてもらえるかい。あとでいただくよ。ああ、その萬姜さんが縫った魁さまの着物とやらもさ。魁さまが帰って来られたら、他の洗濯ものといっしょに、必ず渡すからね。安心しな」
降っている雨のせいで屋根付きの小屋の中で、洗濯物を干す手を休めることなく女は言う。だが、体は忙しそうだが声は弾んでいる。花見の宴のあとにあるという使用人たちの無礼講を、彼女たちがどれほど楽しみにしているかがわかる。
邪魔にならないようにと、菓子の入った竹籠と縫いあがったばかりの魁堂鉄の着物を小屋の隅に並べて置くと、萬姜は洗濯場をあとにした。
昨夜、奥座敷の侍女としての仕事の合間に縫っていた魁堂鉄の着物が縫いあがった。そのこともあって、もしかしたら物知りな洗濯女たちから、魁堂鉄の噂話が聞けるかもしれないと期待していたが、諦めた。
あのお方の、いや、危険だという仕事で六鹿山にいる荘本家の男たち全員の無事を、心の中で手を合わせてただただ祈るしかない。
洗濯場から戻ってきて窓の外を眺めていた萬姜の背中に、娘の梨佳が声をかけてきた。
「お母さま、寒いですわ。それに、外は雨も降っています」
口調は柔らかくそれでも咎める梨佳の声だ。萬姜は慌てて窓を閉めて振り返る。ここからでは見えない六鹿山の方向が気になってとは、たとえ娘であっても言えることではない。
「この雨で、梅の花の蕾が縮こまってしまわないだろうかと気になってね」
母の言葉にうふふと賢い梨佳は笑う。
「大丈夫ですわ、お母さま。花見の宴の日は間違いなく必ず晴れて、そして大広間の庭の梅は満開にほころぶのだそうですよ。花見の宴が始まった時から、ずっとそうなんですって」
二人の視線は同時に、部屋の奥の衣桁に広げてかけられた美しい着物へといく。
昨日、白麗が花見の宴で着る着物が、彩楽堂より届けられた。目にもあざやかな薄水色の地の一面に、金糸銀糸の糸で、複雑な水の流れを模した刺繍がほどこされている。衣桁から垂れた袖は長く床についている。綿を入れてふっくらとさせた裾もまた山の裾野のごとく広げられている。
花見の宴で白麗が着る着物について、何度も、彩楽堂より相談を受けた。
「お美しいお嬢さまをあえて着物の色や柄で引き立てることはないと、わたくしは思うのですが。萬姜さんのご意見を聞かせてください」
「ええ、わたしもそう思います。それに、あでやかさで梅の花とお着物を競わせるのは無粋です」
「萬姜さんもそう思ってくださいますか。鬼に金棒とはまことにこのことです。彩楽堂は大船に乗ったような気持ちです」
男ぶりのよい若い男の世辞は耳に心地よい。低い鼻がどこまでも高くなりそうだ。みっともない顔になったら大変と、聞こえなかったことにする。
「そして、下に重ねる
いつもの彼女の癖で、目を閉じた瞼の裏に、自分が見立てた着物をまとった少女の姿を夢想する。
――きっと、これで完璧!――
そう思った時、膝の上にかさねて載せていた手が暖かく包まれた。
――しまった、また油断してしまったわ――
目を開けると、ふくよかに盛り上がった彼女の手の甲と芋虫のように丸く太い指を、彩楽堂の両の手が包みこんでいる。萬姜はさっと男の手の下から自分の手を引き抜いた。そして、子猫の首をつまんで持ち上げるように、男の手をもとあるべき彼の膝の上に戻した。
二人きりになったときの彩楽堂の馴れ馴れしい振る舞いに、初めのころは驚き慌てたものだ。
顔は火を噴いたように真っ赤になり、滝のような冷や汗が全身を流れた。しかしいまでは、彼女に触れようとする彩楽堂をやんわりといなせるようになった。慶央一の老舗の若主人・彩楽堂だが、親しくなるほどに甘え上手な弟に思えてくる。
そして彩楽堂も彩楽堂だ。手をふりほどかれたというのに、まるで何もなかったかのような涼しい顔で、もう一枚の小さな着物を広げる。それは薄桃色の地に、艶やかな色とりどりの絹糸で小花が刺繍されていた。
「まあ、嬉児にまでこのようなお着物を!」
荘興の妻・李香から白麗に贈られる着物はあまりにももったいなくて、触るのも畏れ多い気がした。しかし、可愛いわが子が着る着物には触れたいという気持ちを抑えることは出来ない。滑らかな絹の感触と手の込んだ刺繍の見事さを、彼女はそっと撫でてしばらく楽しむ。
絹の着物の触り心地を萬姜が満足するまで待ってから、若い男は言った。
「花見の宴の当日には、嬉児ちゃんには裾持ちという大役をこなしてもらわなければなりませんから。それにしても、嬉児ちゃんに白麗お嬢さまの着物の長い裾を持たせるという萬姜さんのお考えには、この彩楽堂、感服しました」
「ええ、お嬢さまは傍から見ると我がままなお方のように見えますが。それはお言葉が不自由なことと、記憶が長く保てないためです。本当は、すごくお優しく慈悲深いお方です。お嬢さまは着飾ることも動きにくいお着物もお好きではありませんが、嬉児を困らせることは絶対になさりません。嬉児が着物の裾を持って従うとおわかりになれば、お気に召さないお着物でもきっと着てくださることでしょう」
その言葉に感激して、再び萬姜の手を握ろうとして伸ばした手だったが、彩楽堂は引っ込めた。そのかわりに相手に与える影響を十分に知っている柔和な笑みを、髭のないつるりと整った顔に浮かべた。甘え上手な弟のようだと自分に言い聞かせても、三十路の寡婦の豊満な胸の奥にある小さな心の臓が跳ね上がる。
「あとは、舜ご老人から届けられる
彩楽堂が満足げに言った。
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