第35話 宴は粛々と進行する



 その姿を隠すように朱塗りの柱の陰に身を寄せて、允陶は花見の宴の始まった座敷の様子を窺っていた。


 三つの広間の仕切りを取り払った大広間の正面に荘興が座し、その横に、彼の長年の馴染みである紅天楼の妓女・春仙が酌婦として控えている。


 その左右に、荘家の血筋に連なる者たちと賓客たち。

 彼らもまたあでやかな妓女たちを挟んで二列に並んでいる。


 荘興の右隣の列には嫡男の健敬。


 二十代半ばの彼はすでに妻帯して、子もいる。何ごとにも中庸を好む穏やかな気質だ。それは家業の血なまぐさを嫌う母親・李香に似ていた。しかし、その気質を荘家を引き継ぐものとして好ましいかどうか。荘本家三千人の中で、評価は真っ二つに割れていた。荘興が家督を譲る問題を先延ばしにしているのも、自分がまだ老いてはいないという自信とともに、健敬の気質に思い悩んでいるところもある。


 そして荘興が頼りにしている荘本家の知恵袋の関景と、盟友である医師の永但州。


 左隣の列の先頭には、十六歳となった三男の康記と、李香の腹違いの弟でありその残忍な性格から毒蛇とあだ名されている園剋。彼ら二人の間には、このような席に呼ばれるにはまだ経験不足である若い妓女・春兎。


 昨年、成年の義を迎えた康記に、質実剛健を尊ぶようにと、父の荘興は一振りの剣だけを祝いとして与えた。だが園剋は甥に、みごとな黒毛の牡馬一頭と若い妓女一人を与えた。


 大人の男でも乗りこなすのが難しい堂々とした体格の牡馬・黒輝と、可愛らしいが世間知らずで男に媚びることしか知らない春兎。


 どちらも荘興の目から見れば腹立たしいかぎりだ。そのうえに最近の康記は、悪友たちと慶央の街を我が物顔に練り歩き、荘家の威光を笠に着て乱暴を働いているらしい。いずれ兄の健敬を補佐する立場となる康記には文武両道で心身ともに逞しく育って欲しいと荘興は思う。だが、李香の病には自分にも咎があると思えば、いまだに強く正せない。


 その行く末に心を悩ませる康記と、康記の後ろから糸を引いて荘本家の乗っ取りをたくらんでいる園剋。しかしながら、この二人が揃って荘本家屋敷に姿を見せるのは珍しい。


 園剋がこちらを見た気がして、允陶は柱の奥に身を隠した。


――白麗さまをまじかで見たいという思いに、彼らも打ち勝てなかったようだ。彩楽堂の着物に口を挟んできた始まりからして、すべては宗主の思惑どおりにことは運んでいる。いま園剋の目は六鹿山にないことだけは確かだ――


 すべての予定調和に満足して、口角の片方を上げようとした允陶だったが思い止まった。一つだけ気になることがある。


――あちらの支度はどうなっている? 「お任せください」と、大きな胸を叩いて萬姜は言ったが。やはりこの目で確かめる必要があるな――


 下がりかけていた彼の口角が再び持ち上がった。少女の美しさと愛らしさに想いを馳せると、氷のように冷たい心の持ち主であっても微笑まずにはいられない。




 ※ ※ ※


「萬姜、白麗さまの支度は終わったのか? 支度が終わり次第、白麗さまを座敷にお連れせよとの宗主のお言葉だ」


 允陶の言葉に、部屋の真ん中で後ろ姿を見せて立っていた少女が振り返った。


 自ら短く切ってしまった白い髪だが、いまは肩に触れるほどに伸びた。それを器用な梨佳がふんわりとした小さな髷に結い上げて、その根元を隠すように舜老人から届いた大きな簪を数本、左右から挿している。


 顔に施した化粧は、目尻に刷いた紅と唇に差した紅のみ。

 

 梅の花が散ればやがて芽吹くであろう若葉と同じ黄緑色の袖も裾も長い着物を、少女はまとっていた。


――まるで、燃えさかる炎の中に、涼やかに立っておられるようだ――


 少女の美しさに彼は息を呑み、胸の中に湧いた想いを隠すために萬姜へと目を逸らした。再び目を少女に戻せば、もう二度と目を逸らすことは出来ない……。彼はつとめて軽口に聞こえるように、少女の横に座り込んでいる萬姜に言う。


「萬姜、おまえがそのような不安顔でどうする? あの時に、『わたしにお任せください』と言った自信はどこへ行った? 今ごろになって怖気づくとは、情けない」


 家宰の言葉に、体を縮こまらせて顔色も青い萬姜が答える。


「さきほど、表座敷のご様子を覗いて来ましたら、あまりにも多くの方々が居並ばれていて。その光景に、足の震えが止まらなくなりました。家宰さま、言葉の不自由な白麗お嬢さまに、満座の席での挨拶の意味がわかっておられるのでしょうか? 人に頭を下げる作法すら、ご存じではないというのに」


「そのようなことか。心配するに及ばぬ。だからこそ、白麗さまを美しく着飾らせるために、宗主を始めとして彩楽堂や舜ご老人が心を砕いたのだ」


 その言葉に、窮地を逃れる方法があるのかと期待して萬姜の頬に赤みが差した。

「……と、申されますと」

 

「このようにお美しいお姿を目にすれば、その眼福に、誰もが白麗さまの少々の無作法など許そうと思うものだ。そのうえににこりとでも笑ってくだされば、言うことはない」


「さようでございます、さようでございますとも。このようにお可愛らしいお嬢さまの少々の無作法を、誰が咎めたり出来るものでしょうか」


「……、そうではあるのだが、ただ、一人だけそうとは言えない者がいる」


「そ、そ、それは、どなたさまにございますか?」

 そう訊ねる萬姜の顔が再び青くなった。


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