第34話 花見の宴が始まった
夜は格別に冷え込んだ。
朝になって、慶央の街を取り囲む城壁越しに西の方角を見れば、春の雪に覆われた六鹿山の頂きが白く輝いている。だが、雪を降らせた雲はすでに北へ北へと流れて、今日一日の晴天を約束していた。
夜のうちに真白く降りた霜は、東の空に昇り始めた陽に撫でられてきらきらと輝きながら解けていく。空の色は、天上界の神々の祝福を受けたかのように、雲一つなく薄青い。荘本家表座敷の中庭に植えられた梅の木の花は満開だ。
朝早くから、荘本家屋敷内は蜂の巣をつついたような騒がしさだ。花見の宴の準備の総仕上げのために、大勢の下働きの者たちが総出で忙しく動き回っている。
「おい、手順を抜かるなよ」
「万が一、粗相があれば、屋敷から放り出されるぞ」
「そんな……。冷酷な家宰さまでも、それはなかろう」
「いや、今回の花見の宴は特別だ。宗主さまの大切なお客人である白麗さまのお披露目を兼ねている」
男たちの間に、大きな鍋を抱えた女たちが割り込む。
「おまえさんたち、そこに立っていられたら邪魔だよ」
「箒を持って、いつまで四角い座敷を丸く掃いているんだい。こちらは猫の手も借りたいほど忙しいというのに」
「おい、おい、言ってくれるじゃないか」
「おまえたちと違って、おれたちはな、昨夜は寝ていないんだぞ」
動き回る人と人、そして重なり合う大きな声と声。話の内容は忙しいことへの愚痴だが、その口調は明るい。宴が終われば、残った料理と酒は彼らに下げられる。客人たちが帰ってしまえば、彼らは腹が裂けるまで肉を食い美味い酒を吐くまで呑む。
その頃の屋敷の外では、物見高い見物人たちが、荘本家正面の大門を十重二十重と取り囲んでいた。
「宗主さまの道楽が本当のことになるとは」
「宗主さまは、いずれ、白麗さまを娶られるのだろうか?」
「白麗さまの笛の音がここまで流れて来れば、ここに立っている待っている甲斐があるというものだが」
口々にそう囁く彼らが見守る中、馬車が停まり始めた。
初めの馬車には楽師と踊り子たち。その次は、慶央中の妓楼から選りすぐられて集められた酌婦としての妓女たち。
そして花見の宴の開催時刻に近くになると、客人たちを乗せた豪奢な馬車が続く。
馬車から降りる彼らは、荘本家に招かれた優越感と、噂の美しい少女をまじかに見る機会を得た期待を隠そうとはしない。皆が皆、この日のために誂えた真新しい着物を身にまとい、その顔には満面の笑みを浮かべている。
門前で出迎える家宰の慇懃かつ丁寧な挨拶を受け、背筋を反らすだけ反らした彼らは屋敷の中へと入って行った。
※ ※ ※
「ご客人の皆々がた、そして我が荘家本家の者たち。よくぞ、集まってくれた」
立ち上がった荘興はゆっくりと宴席を見回して、おもむろに口を開いた。聞くものが自然と頭を垂れたくなるような朗々とした声が響きわたる。彼の声量は若者のそれにまだ負けてはいない。
遅まきながらに新年を寿ぎ、旧年中の謝意と新年の変わらぬ交流を、彼は客人たちへの挨拶の言葉の中で希った。そして、荘本家の者たちには、今までの働きをねぎらいこれからの息災を願う。
彼の挨拶はいつも短い。
宴席の皆はいちおうに殊勝な顔をしているが、その内心は、横にはべる美しい妓女と彼女たちが持つ酒甕の中身にしかないことを、彼は知っている。
だが、今日はその後に特別な言葉が続いた。
「わたくし事ではあるが、昨年の夏の終わりに、我が屋敷に女人の客人をお迎えした。皆々がたもすでに承知のこととは思うが、その名を白麗さまと言われる。その美しい姿形ゆえに、天女だという噂があることは承知だ。またこのおれが、西の国から来た姉弟の女衒に騙されて、髪の白い女人を屋敷に住まわせているという噂も承知だ。それらの噂の何が真実であり何が嘘であるのか、本日、皆々がたのその目でしかと確かめてくれ」
そこで言葉を切り、再び、彼は満座を見渡した。期待に満ちた多くの目が彼を見つめている。声と同じく、顔もまた年齢を感じさせることなく浅黒く精悍だ。その顔に人を魅了する笑みを浮かべて、彼は言葉を続けた。
「ただ、その真実が天女であれ普通の女人であれ、その身支度には、男が思う以上の時間がいるらしい。白麗さまがそのお姿を現すのを、しばし待って欲しい」
その言葉に、女に待たされてじれたおぼえのある男たちがどっと笑う。横にはべっていた妓女たちも黄色い嬌声をあげる。
「白麗さまがその姿を現せば、咲きほこった庭の梅の花も、恥ずかしさでたちまち色あせてしまうことだろう。それまでのあいだ、梅の花を愛でつつ美酒を楽しんでくれ」
乾杯の音頭とともに、楽師たちの奏でる妙なる音曲が始まった。庭に敷かれていた緋毛氈の上に平伏していた踊り子たちがいっせいに立ち上がり、舞い始める。
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