第10話 お婆さんの入院
恵さんのアップルパイをご馳走になった翌々日の火曜日。
健司がテレワークでプログラミングの仕事をしていると携帯電話が鳴った。
発信者の表示は「吉田恵さん」だった。
「はい健司です。この前はご馳走様でした」
「恵です。お仕事中申し訳ありません。
実は昨日、梅子おばあちゃんが緊急入院しちゃって……」
恵さんはかなり困ったような声だ。
「え?! お婆さんがどうしたんですか」
話を聞くと、昨日、お婆さんが胸が痛いと言うので、
恵さんがタクシーで風見が丘総合病院に連れて行ったらしい。
検査の結果、心筋梗塞だということで緊急入院になったという。
恵さんの電話の要件は、自分もずっと桜見台住宅にいることができないので、
しばらくサリーを預かって、貰えないかという相談だった。
突然のことで健司は迷った。
健司は当然、サリーともっと話がしたいし、預かることはできると思うが、
家で飼うならば、幸子にも相談する必要がある。
一度、恵さんとの電話を切り、スーパーで仕事中の
幸子の携帯に電話をかけた。
幸子は驚くほど簡単に二つ返事でOKした。
お婆さんにもサリーにもスーパーで良く会っているし、サリーがとても
お利口な犬なのは良く知っているから、一時預かりならば、問題無いと
いう意見だった。
***
立花家に車で行くと、門の所でサリーが出迎えてくれる。
悲しげで、心配そうな顔をしていた。
隣の上田家のウッドデッキ上から、ビーグルのジョンが話しかけて来た。
健司が怖くないということを、他の犬達からも聞いたのだろう。
<<婆さんはどうしたんだ?>>
「あ、ジョン君、こんにちわ。やっと話ができたね。お婆さんが病気で
入院が必要なんだって。
だから僕がサリーをしばらく預かることになったんだ」
サリーも横から補足した。
<<メグミちゃんは出産が近いから、ずっとはここにいられないの>>
***
恵さんは、お婆さんの着替えなどを取りに、病院から戻って来た所で、
バタバタとしていたが、サリーを飼うのに必要な、寝床用のマットや
トイレシーツなど、様々なものが居間の片隅にまとめてあった。
そして、健司に何度も申し訳ないと謝りながら、餌代など必要経費は、
ここから使って欲しいと、十分過ぎる大金の入った封筒を健司に渡す。
—— え? こんなに ——
その封筒の厚みを見ただけでも、お婆さんの入院が、健司が思っている
よりも長期になると、恵さんが思っていることを示していた。
—— ちょっと深刻なのかも ——
梅子お婆さんは、今は薬で落ち着いているが、カテーテル手術というのを
受けることになったらしい。
高齢なので、手術後もしばらくは入院して様子を見る必要があるという
ことだった。
***
サリーの荷物と、サリーを後部の荷物室に乗せ、恵さんを助手席に
乗せて風見が丘総合病院まで恵さんを送る。
「恵さんも、ご自身の出産が近いのに大変ですね」
「ほんとにね。お婆ちゃんの骨折だけでもどうしようかと思ったのに、
今度は入院なんて」
総合病院の前で恵さんを下ろすと、サリーがやっと話しかけてきた。
健司以外の人がいると「会話」が難しいので、待っていたのだろう。
<<ケンジ。申し訳ないねぇ>>
「サリー。そんなことないよ。僕も幸子もサリーが好きだから嬉しいよ。
うちは立花さんの家みたいに大きくないし、小さい庭しかないから、
窮屈かもしれないけど我慢してね」
<<私は寝床用のマットのスペースだけで十分よ。もう若くないから、
お庭もあんまり走り回らないし>>
***
家に帰ると、サリーにはお庭に居てもらい、家の中の準備をする。
ソファーを少し動かして、リビングの一角にサリーの寝床を準備した。
そして、庭のウッドデッキの一晩端っこに、トイレ用の大きなトレイを
置いてトイレシートをセットする。
このウッドデッキは日曜大工の好きな健司のお手製で、小さなお庭の
1/3を占めるぐらいの、まぁまぁの広さがある。健司の自慢の作品だ。
トイレ用トレイを置いた場所は、いちおうは 軒下になっているが、
雨の日用に、家の中にもトイレの場所を作るしかないなと思った。
玄関のたたきや、ウッドデッキの端っこには、立花家を見習って
濡れた雑巾を置いておく。サリーの足拭き用だ。
まぁまぁの準備ができたので、庭のあちこちに咲いている花の匂いを、
忙しそうに嗅ぎ回っているサリーを呼ぶ。
「サリー。お庭のトイレはここでいいかな」
サニーは ウッドデッキに上がる時に 濡れ雑巾に気がついて、
自分で足をこすりつけて、汚れを落としてから上がってきた。
<<うんとってもいい感じ。このウッドデッキも素敵ね。
ここなら道路を通る仲間もよく見える>>
ちょうど、お向かいの松本さんの奥さんがトイプードルのプリンちゃんを
連れて、散歩を始めようと出てきた所だった。
ウッドデッキの上のサリーと 健司に気がついて、道路の向こう側から
松本さんの奥さんとプリンが同時に声を上げた。
「あら、こんにちは。そのワンちゃんはどうしたの?」
<<サリーちゃん サリーちゃん 。なぜケンちゃんの家にいるの>>
健司とサリーがそれぞれに答える。
「1番地の立花さんのおばあさんが、入院されちゃったので、
一時的に、ワンちゃんを預かることになったんです」
<<お婆さんが入院したから、しばらくここで暮らすことになったのよ>>
健司は両方の会話が聞こえるのでかなり ややこしいと思ったが。
それはワンコたちも同じはずだが、彼女たちはこれに慣れているようだ。
松本さんとプリンが散歩に行くのを見送って、尻尾を ゆっくりと降って
いるサリーがつぶやいた。
<<ここの道は、立花家の前よりも 散歩する仲間が多いから、
お話 相手がいっぱいいていいわ>>
「道路の匂いで分かるんだね」
<<ええ、強く残ってる匂いだけでも、モカ、チョコ、ベル、キナコ、
小春、ハナ、ソラ、あとルフィーが通っている>>
「そんなにいっぱい? いろんな犬が沢山お散歩されてるなぁとは
思ってたけど、数えて無かったよ。それに僕の部屋は、二階で
第一公園側に向いてるから、仕事中はこっち側見えないし」
<<さっき、家の裏側見て来たけど、第一公園も見えるから
もっと沢山の仲間とお話が出来そう。退屈しないと思う>>
「気に入ってくれて良かったよ。 リビングの中も見てくれる?」
サリーはウッドデッキからリビングに入ると、一角にセットされた
自分の寝床を確認して、嬉しそうに言った。
<<とってもいい感じ>>
***
夕方、家に帰って来た幸子は、サリーをひとしきり撫でて可愛がっていた。
幸子がここまで犬を好きなのは知らなかった。
確か以前は、犬を少し恐がっていた記憶が有るが、東浜スーパーで働く
うちに、店の前に沢山の犬が来るから、だいぶ慣れたのだろう。
それに、健司が驚いたのは、幸子はまるでサリーの言葉が聞こえているの
かと思うぐらい、サリーとうまくコミュニケーションできている。
幸子がサリーに向かって言う。
「サリーちゃん。喉乾いてないかな」
サリーは幸子に向かって、舌を出しながら、お水欲しいという顔を見せる。
「そうよね。喉乾いたよね。
はい。これお家の中用の、サリーちゃんのお水入れにするね」
幸子は古い食器の器に水を入れて、サリーの近くに置いた。
—— 幸子すごいな。表情見るだけで会話してる ——
幸子はサリーの体に少し顔を近づけて、匂いを嗅いだ。
「サリーちゃん。ちょっと臭いな。長くお風呂入って無いのかな?」
サリーは人間に『臭い』と言われて、ちょっと恥ずかしそうな顔を
幸子に向けていた。
健司がフォローする。
「サリー。お風呂でシャワーしてあげようか」
<<シャワー? 嬉しい>>
サリーが嬉しそうな顔をしたので、幸子もサリーが喜んだのが分かった
ようだ。
「あっ、お風呂で洗濯物乾燥してたんだ。
健司、ちょっと洗濯物を出すまでは待ってね」
***
健司はTシャツと短パン姿になって、お風呂でシャワーの温度を確認する。
「サリー。こっちおいで」
サリーがトコトコ入って来たが、健司の家の狭いお風呂の洗い場は、
二人にはかなり狭かった。まだ湯船にはお湯を張っていなかったので、
健司は湯船の中に入ってサリーにシャワーをあてる。
「熱く過ぎないかな。大丈夫かな」
<<気持ちいい>>
「えーっと、ワンちゃん用のボディーソープが無いから、
僕が使ってるこれでいい??」
健司が自分用のボディーソープの匂いをサリーに嗅がせる。
<<いい匂い。これでいいわ>>
サリーの全身を洗うのは、健司が思っていた倍以上の時間がかかった。
ゴールデンレトリバーは相当な毛の量が有る。
—— 結構これ重労働だね ——
でも、サリーのモフモフの体が、濡れてぺったんこになると、
二回りぐらい小さくなった感じで、それはそれで新鮮な姿で面白い。
サリーはシャワーがとても好きそうで、顔に向かってシャワーを当てても
目をつぶって、健司が洗い終わるまで我慢できている。
健司とサリーがお風呂から出ると、幸子が何処から出してきたのか、
古いバスタオルを沢山出してきて、脱衣場で待ち構えていた。
サリーを乾かすのは、幸子に任せて、健司は自分もシャワーを浴びた。
健司はサリーを洗う重労働で、だいぶ汗をかいていたのだ。
こうして、子供ができなかった健司と幸子は、
新しい家族を迎えるという、初めてのイベントを楽しんでいた。
次のエピソード>「わんこメモ 4」へ続く
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