予防接種
第6話 『拒否芝』発動
4月1日 初めての散歩の翌日。
健司は狂犬病の注射をしてもらうため、サリーを笠原動物病院へ
連れて行くことになっていた。
狂犬病の注射のことは何も知らなかったので、昨晩、ネットで調べておいた。
狂犬病にかかった犬に噛まれると、人にも感染するため、予防注射が義務
だということは知っていたが、4月~6月に注射を受けなければいけない
なんていうことまでは、知らなかった。
また、違反は20万円以下の罰金となるとも書いてあったので驚く。
狂犬病は潜伏期間が長く、一般的には1~3カ月、長いものでは感染して
から1~2年後に発症した事例もあるらしい。
そして、発症するとほぼ100%死亡……大変な病気だと改めて驚いた。
***
予約時間は午後3時だというので、2時半に立花家にお迎えに行った。
庭で出迎えてくれたサリーは、お散歩の時とは打って変わって
乗り気じゃないのが良く分かる。尻尾は垂れたままで下を向いている。
お婆さんから、サリーの診察券やワクチン費用など一式を受け取って、
二人で歩き出した。
「やっぱり、注射は嫌いなの?」
<<痛いから嫌い。でも必要だからしょうがないわね>>
サリーは狂犬病の注射が義務なのは良く分かっているようだった。
トボトボとうつ向いて歩いている。
桜見台住宅地の西端の道路まで出て坂を下る。
笠原動物病院が、この西側の道を下った所にあるのは健司も知っていた。
少し歩くと、遠くに変な物が見えた。
歩道に何やら茶色い物体がへばりついている。
よく見ると、芝犬が地面に這いつくばるように、四本の足で踏ん張って
道路に腹をくっつけるようにペタンコになっているようだ。
その向こう側で、男の子がリードを持って、動かない犬に困っていた。
「ちゃちゃまる~。立ってよ~。予約時間に遅れちゃうよ」
男の子はリードを強く引っ張っているが、
遠目に見ても、その柴犬は梃子でも動かなそうな体制だ。
—— あれが、有名な『拒否芝』か! ——
元気なく歩いていたサリーが、少し笑うように言った。
<<茶々丸のやつ、まぁた、あれやってる。散歩から帰るのも嫌、
病院へ行くのも嫌って、あの子はしょっちゅう、あれなんだ。
いつもハヤト君が困ってる>>
「あの柴犬は、茶々丸君なんだね。あれは動物病院に行く方向だから
嫌がってるのかな。僕は『拒否芝』っていうのを始めて見たよ」
健司とサリーが、茶々丸の近くまで来ると、茶々丸の必死の念話が
聞こえてきた。
<<嫌だ。注射はぜったい、ぜったい嫌だ。一歩も動くもんか>>
「ちゃちゃまる~。病院行ったら、帰りにチュール買ってあげるから
行こうよ」
ハヤト君は、おやつで納得させる作戦のようだ。
<<ダメだ。チュールたった1本で釣られるもんか。嫌だ嫌だ>>
茶々丸のお尻の所まで近づいたサリーが、ハヤト君を援護する。
<<茶々丸。注射はしなきゃいけない決まりなんだ。
ハヤト君が困ってるわよ。
私も注射は嫌だけど行く所なんだ。一緒に行こう>>
<<サリー。てめえは、チュールで釣られたくちか!
俺は騙されないぞ。チュール1本じゃ割に合わねぇ>>
リードを付けた首輪に、ギュッと締め付けられて、
茶々丸の顔は見事に変形しているが、それでも四本の足で踏ん張って
微動だにしない体制だ。
健司はその顔を見て思わず笑ってしまった。
ハヤト君に手を挙げて合図し、茶々丸の横にしゃがんで話しかけた。
「茶々丸君。はじめまして槇村健司といいます。
狂犬病ってね。とても怖い病気なんだ。感染したら死んじゃうんだよ。
注射は痛くて嫌だろうけど、病気になったらもっと辛いぞ。
頑張って病院へ行こうよ」
<<なんだ。てめぇは。あぁ、サリーとつるんでる『怪しい奴』って
お前の事か! 俺はお前の事なんか、信用してねぇ。
俺は生まれてから病気にかかったことなんか一度も無いんだ。
だから注射はしなくていい>>
「でもね。茶々丸君。予防注射しないと、ハヤト君が20万円の罰金を
払わないといけなくなるかもしれないんだよ」
「え? そうなの? 罰金があるの?」
驚いたのはハヤト君のほうだった。
<<なんだ? 20万円って大きいのか? 俺には関係ない>>
茶々丸は、健司向かって牙をむいて、踏ん張っている。
「茶々丸君。20万円はすごく大きな額だよ……」
—— といっても、金銭感覚は無いか ——
「そうだ。20万円っていうのは、チュールなら5000本は買える金額だよ。
毎日1本食べても……えーっと、13年以上もの量だ。
だから、逆に言えば、つまり、君が今日注射を受けないと、
ハヤト君が20万円払わなきゃいけなくなって、
茶々丸くんは、これから死ぬまでずっと、チュールを食べられないぞ」
<<何だって! 死ぬまでずっとチュールを食べられない?!>>
茶々丸が驚いて、いきなり立ち上がったので、リードを引っ張り続けて
いたハヤト君のほうがふらついた。
「そうだよ。死ぬまでずっとチュールを食べられない。いいの?」
<<嫌だ。チュールは食いてぇ>>
<<茶々丸。だから私と一緒に笠原先生のとこに行こう>>
立ち上がった茶々丸のお尻を、サリーが鼻でグイっと押したので、
茶々丸は前によろけた。
<<おい! サリー。何しやがる>>
<<ちゅーる。ちゅーる。
私が茶々丸の分ももらって食べちゃおうかなぁ>>
サリーは、茶々丸を置いてスタスタと歩き出した。
<<おい! サリー。まてぇ>>
茶々丸がサリーの後を追って、坂を下り始めた。
健司はハヤト君とグータッチをして、二頭を追う。
「おじさん。ありがとう」
「おじさんは無いだろ。お兄さんって言ってよ」
笠原動物病院に着くまで、ハヤト君と話をした。
5番地の石塚さんの家の子…石塚隼人君だった。
***
茶々丸は病院の入り口で、また少し渋っていたが、サリーに押される
ように中に入る。
健司は、初めて笠原動物病院に入ったが、中はかなり清潔できれいな
感じで、待合室は予想以上に広かった。
茶々丸の予約時間のほうが先なので、隼人君に先に受付してもらい、
そのあと、健司は受付に診察券を出して、受付のお姉さんに、
梅子お婆さんが骨折し自分が代わりにサリーを連れてきたと説明した。
「石塚茶々丸さーん。どうぞ」
笠原先生が、診察室のドアを開けて呼んだ。とても優しそうな先生だ。
隼人君が、嫌がる茶々丸を無理やり引っ張って、診察室に入って行った。
<<私も注射は嫌なんだけどねぇ>>
サリーも大人しくしているが、やはり気は乗らないようだ。
診察室の中では、茶々丸が少し騒いでいたが、すぐに終わって出てきた。
<<おい! 痛くない注射っていうのは、創れないのか!>>
ちょっと不機嫌だが、注射が終わったので震えていたのは止まっている。
「つぎ、立花サリーさーん。どうぞ」
健司は長椅子から立ち上がる。サリーも自ら診察室に向かった。
「こんにちわ。サリー。君はいつも自分で入って来るから偉いねぇ」
笠原先生が優しくサリーを撫でた。
「えーっと、君は?」
「あ、槇原健司といいます。立花さんのお婆さんが足を骨折したので
僕が代わりに来たんです」
「え?お婆ちゃん骨折したの? 大変だぁ」
先生は診察台を低く下げて、サリーが自分で乗れる高さにした。
サリーは嫌々そうにではあるが、自分から診察台に乗る。
先生は電動の診察台をゆっくりと上にあげながら言った。
「サリーちゃんは、いつもお利口だからね。助かるよ。
健司さん、いちおうサリーちゃんを押さえておいてね」
「あ、はい」
健司がサリーを抱きかかえるように押さえると、先生は手早く予防注射を
打った。
笠原先生は、健司に名刺を渡し、自分はこの病院の二階にある家に
住んでいるから、サリーに何か有ったら夜でも電話していいよと告げた。
サリーの態度を見ても、笠原先生のことをとても信頼しているようだ。
—— かなり、いい先生だな ——
***
診察室を出ると、隼人君と茶々丸が病院のドアを出て帰ろうとしていた。
「おじさん。またねぇ」隼人君が手を振った。
「おじさんは止めて欲しいなぁ」
少しして会計に呼ばれたので、お金を支払って、サリーと病院を出た。
次のエピソード>「第7話 寄り道」へ続く
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