春の嵐
第11話 遠吠え
健司と幸子の家にサリーが来て数日が立っていた。
昨日は東浜スーパーの宅配サービスで、シニア犬用のドッグフード、
トイレシーツ、犬用ボディーソープ、骨ガムなど、いろいろなものが
届いて驚いた。
恵さんが申し込んだ宅配サービスの受取先を、槇村家の住所に
変更して、家のPCから注文してくれたようだった。
—— 沢山お金も預かってるから、大丈夫なんだけど
犬を飼ったことの無い夫婦に、サリーを預けるから
恵さんも心配なんだろうな ——
この日は、朝から春の嵐で、大雨洪水警報が出ている。
宅配のおかげで、サリーのドッグフードなどを買いに出かけ
なくて良くなったのはとても助かった。
健司がテレワークの合間に、LDKにコーヒーを淹れに来ると、
サリーはお庭に出ることもできず、家の前を歩く犬もいないので
窓にたたきつける激しい雨粒の音に、耳を見傾けながら、
ちょっと退屈そうにしている。
「今日は流石に犬の散歩する人いないよねぇ」
健司は雨が滝のように流れ落ちる窓を見ながら言った。
そう言ったとたん、少し遠くからを傘をさして必死に歩く人が
見えて来る。足元には黄色い物体がチョコチョコと動いていた。
黄色のレインコートを着せられた犬のようだ。
「あっ誰か犬の散歩してる。こんな日に凄いな」
気が付くとサリーも窓辺に駆け寄って、健司の横に来ていた。
<<あれはたぶんルフィーだ>>
近づいてくると、黄色のレインコートのフードの中に黒い顔が見える。
あれは、よくここの道を散歩されてる黒柴だろう。
<<ルフィー。こんにちわ。頑張るね>>
<<おっサリーか。お前はウッドデッキに出ないのか?>>
<<出ないわよ。びしょ濡れになったら、サっちゃんに迷惑でしょ。
サっちゃん綺麗好きなのよ。お部屋汚したらいけないもん>>
健司は二頭の会話に感心していた。
犬たちの念話は、こんな大雨の音がする中でも届くらしい。
やはり、『音波』とは関係ないものなのだろう。
近距離しか届かないが、頭に強く入って来る。
—— どういう仕組みなのか、全然理解不能だな ——
ルフィーが通り過ぎた後、サリーに聞いた。
「犬って、こんなに土砂降りでも散歩したいの?」
<<外を歩かないと、ウンチができない犬は多いのよ。
私は家の中だけでも暮らせるようにって、子供の頃に
育てられたから大丈夫だけど>>
「ルフィーなんかは、家の中で歩き回るのじゃぁ。ウンチしたく
ならないの?」
<<ケンジも、トイレじゃなくお部屋でウンチはしにくいでしょ?
習慣ってそういうものよ>>
「うん確かにそうだ。その通りだね」
***
夕方、幸子はずぶ濡れになって東浜スーパーから帰って来た。
家の中に雨が入らないように、ウッドデッキ側から窓のシャッターを
降ろしてから家に入って来る。
「サっちゃんおかえり。大変だったね」
「いやぁ。もうこの雨、凄いわよ。
お客さんが少なくてまだ良かったけど、店の入り口のモップ掛けを
ずっとやってたわ」
「悪いね。僕は家でいつものようにのんびり仕事してたよ」
「テレワーク中心の人は、こういう時いいわね」
***
夕食後、しばらくリビングでテレビを見ていたが、大雨の緊急ニュース
ばかりで、数百年に一度という降水量で、各地が洪水などで大変な騒ぎ
になっている。
夜遅くまで、二人と一頭はニュースに釘付けになっていた。
二人の足元に伏せているサリーも、ニュースの内容をとても良く把握
しているようだった。
—— この桜見台住宅は高台なので、洪水での被害は無いから
洪水被害にはあわないよな ——
その時、サリーがビクッとして顔を上げる。
「サリーどうしたの?」
サリーは返事をせずに、いきなり立ち上がる。
シャッターに吹き付ける雨音がうるさくて、何も聞こえないが、
窓に駆け寄った。
「何か聞こえるのかしら?」幸子がテレビの音を消音にした。
「雨の音しか聞こえないよね」と健司。
<<ケンジ。お願い。シャッター開けて>>
「どうしたのサリー。何か聞こえるの?」
<<遠吠え。誰かこっちにくる。助けを求めてる>>
「何か聞こえるんだね」
健司はリビングの窓を開ける。でもシャッターは開けなかった。
雨が猛烈に吹き込むからだ。
「バォーン。ジャラジャラガラガラ、ガラガラ」
窓を開けたので、シャッターにたたきつける雨音の向こうに
太い犬の鳴き声と、なんだか物が道路を転がる音が健司にも聞こえた。
確かに、『誰か』と、『何か』が一緒に近寄ってくる。
「何か、こっちに来てる」
「シャッターは開けちゃだめよ。びしょ濡れになっちゃう」
シャッターに手をかけた健司を、幸子が大声で止めた。
「じゃぁ、玄関からちょっと見て来る」
健司はリビングの窓をしめて、玄関に向かった。
サリーも付いてくる。
「レインコート!」幸子が後ろで叫んでいる。
健司はレインコートの上着だけを着て、玄関の扉をそっと開けようと
したが、強風にあおられて、扉が持って行かれそうになる。
「おっと危ない」
両手で持たないと扉が全開になりそうだった。
ちょっとだけ開けたすき間から斜めに雨が吹き込んだ。
「バォーン。ジャリジャリガラガラ、ジャリジャリガラガラ」
今度ははっきり、かなり近くで聞こえた。
<<ボスだ!>>
「ワォーン」サリーが遠吠えで応えた。
「え? ボスって、あの巨大な犬が来てるの?」
健司は扉のすき間から、外を見ようとしたが、真っ暗な道に
叩きつける雨のスジしか見えない。
その時、太い声の念話が頭に鳴り響いた。
<<助けてくれ。サリー。助けてくれ。何処だ!何処の家だ>>
「ワォーン」サリーが再び遠吠えで応えた。
<<ボス。ここよ。何が有ったの?>>
少しだけ開いた扉のすき間からも、道路をボスの巨体の影が動いて
走って来るのが見えた。
「ジャリジャリガラガラ。ジャリジャリガラガラ」
その騒音は、ボスが繋がれていた太い鎖のようだ。
「あっ!あれ!」
ボスが鎖で引っ張っているのは、金森家の庭に突き刺してあった
太い杭だ。ボスの首輪に繋がっている鎖を繋いであった杭だ。
ボスは、なんと太い杭を引き抜いて、ここまで走って来ていたのだ。
「どうしたの? いったい何事?」
玄関で遠吠えをするサリーに驚いて、幸子も玄関まで来ている。
<<山が崩れた!助けてくれ、ケンジとやら、俺の声が聞こえるんだろ、
爺さんを助けてくれ、おれじゃぁどうにもできねぇんだ。
家が山の下敷きになった>>
ボスの必死に訴える声で、健司は何が起きたのかわかった。
金森家の後ろには山が有る。がけ崩れで、お爺さんが大変なのだろう。
独り住まいのお爺さんが、がけ崩れの被害に遭い、飼い犬のボスは、
自分ではどうすることもできずに、犬の念話の聞こえる健司に助けを
求めに来たのだ。
—— 行くしかない! でも幸子に何て言う? ——
「さっちゃん。金森さんの家の犬が、ここに逃げてきている。
捕まえてあげなきゃ」
「こんな土砂降りの中、無理よ! 無茶なことやめて」
犬の念話の聞こえない幸子が、そういうのは無理もない。
「でも、捕まえないと」
健司はレインコートのズボンを急いで履き、コートのフードを
深くかぶると、セカンドバックを持って玄関扉を開けた。
猛烈に吹き込む雨。
健司が少し怯むと、開けたすき間からサリーが勢いよく飛び出した。
「あっ!サリー! サリーは家にいて!」
<<ケンジ。私も金森さんのお爺さん助けに行く!>>
健司も飛び出して、サリーの後を追う。
後ろでは、幸子が玄関のすき間からサリーを叫ぶように呼んでいた。
サリーは黒い門の所で、ボスと話をしている。
<<あぁケンジ。頼む。爺さんを助けてくれ!>>
巨体の犬が、黒い門の向こうで頭を下げていた。
「ボス先に戻ってて、車で見に行く!」
黒い門を開けると、ボスとサリーは土砂降りの中を
すでに走り出していた。
健司も車の運転席に乗り、エンジンをかけ急いで発進した。
1番地はすぐ近くだが、トランクにはツールボックスが有る。
中には懐中電灯や、ぞうきんも入っている。
何かの役に立つかもしれないと思ったのだ。
それに、少なくとも土砂降りの雨を遮る屋根は有る。
***
真っ暗な道の中、土砂降りでワイパーも追いつかないので、
健司はゆっくりと走行した。
もう二頭の姿は見えない。
1番地と2番地の間の道路に入ると、異変に気が付いた。
ヘッドライトに照らされた道路は、茶色の泥水の川になっている。
左手の横目に立花家を見ると、無人の家に異常は無さそうだ。
もう少し進むと、金森家の前だ。
健司は目を疑った。
ヘッドライトが照らす道路に、大きな岩がある。
50cmか 60cmぐらいの大きさがある岩だ。
横を見る。岩は金森さん敷地の周囲に張り巡らされた柵を突き破って、
道路まで転がって出てきたようだ。
金森家の敷地は広いので、庭の向こう側は暗くて良く見えない。
家のあった場所には、大きな山が近くに有るように見えた。
車をバックさせながら、車を斜めに向けてヘッドライトを、できるだけ
家の方向に向けようとした。
「わ、ひどい」
金森家は土砂と一緒に落ちてきた大きな木の下になり、屋根の一部だけ
しか見えていない。
ヘッドライトの照らす光の中に、
イングリッシュ・マスティフとゴールデンレトリバーが、為す術もなく
立ちすくんでいるのが見えた。
次のエピソード>「第12話 災害現場」へ続く
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