第3話 情報網
「えっ! なんで僕の嫁さんが『サっちゃん』なのを
サリーが知ってるんだ?」
<<さっき、ケンジの車の中にサっちゃんの匂いがあった。
サっちゃんは、東浜スーパーで働いてるでしょ?
いつも店先のワゴンのお花に水をやってる>>
「あっ。東浜スーパーでサっちゃんに会ったことがあるんだね。
匂いでわかったのか……」
<<そう。サっちゃんのことは、良く知ってる。
店の前につながれて、飼い主を待ってる私たちにも優しくて、
カンカン照りの日は、お花のワゴンを少し動かして、
私たちがワゴンの屋根の日陰に入れるようにしてくれるのよ。
東浜スーパーに集まる犬達はみんな、サッちゃんが好きだ>>
そう言えば、幸子が、
『犬の散歩ついでに東浜スーパーに来る人がとても多い』
と言っていた。
でも、幸子がそんな風に犬達と接していたとは知らなかった。
それに自分の妻が、多くの犬達に好かれているというのは、
何だか嬉しい。
「そうか……でも何で、幸子の名前を知ってるの?」
<<プリンから聞いた。サっちゃんは、プリンの家のお向かいさんで、
ケンちゃんという旦那さんと二人暮らしだって。
ケンちゃんっていうのが、ケンジのことなんでしょ?>>
「えっ、えっ、プリンって、お向かいの松本さんの家のトイプードル?」
<<そうよ、周りの人がよく『トイプードル』って言ってる。
私たちは、人間がつけた犬の種類の名前はよく理解できないけど。
松本さんの家の小さい子よ>>
「そんなにワンちゃんたちは、いろいろ情報交換してるわけ?」
<<もちろんよ。
桜見台住宅の中の人は、皆、だいたい匂いで分かる。
プリンは、『サっちゃんと暮らしてるケンちゃんは、
最近、新しく車を買い替えてご機嫌』だって言ってたわ。
さっきの白い車のことでしょ?>>
「えっ! 僕が車を買い替えたことまで知ってるのか?」
<<ええ、東浜スーパーの店先で、長く待たされている私たちは、
そんなことぐらいしか、おしゃべりのネタがないもの>>
「犬同士って、そんなにいろんな事を、雑談してるの?」
<<おしゃべりは私たちには普通の事よ。
松本さんのお父さんは、夜遅くに他の女性の匂いをぷんぷんさせて
帰って来たのに、奥さんには『今日は仕事が長引いた』なんていう
嘘を言ってるとか……>>
—— え?! ——
「サリー! ちょっとまったストップ!」
健司は慌てて、サリーの言葉を遮った。
それ以上、お向かいの家の、松本さん旦那さんの浮気話まで聞いては
まずいと思ったのだ。
「君たちは、そんな人の家の中のことまで、いろいろ話しするのか?」
<<かなりのことを話すわよ。他にあまりしゃべるネタがないから>>
「そりゃぁ参った!犬達のそんな、おしゃべりネットワークが有るのか!
それは凄いな。名付けて『ワンネット』だな」
<<わんねっと?>>
「ワンコたちの、情報交換のネットワーク網だから、ワンネット。
いいネーミングだろ?」
犬が念話で話すというのにもずいぶんと驚いたが、
健司はそれ以上に、自分が何か凄い情報網に接していることに気が付いた。
—— 確かにそうだ ——
飼われている犬達は、飼い主の家の中のありとあらゆることを見聞きする。
しかも、『匂い』という人間には感知できない情報までもある。
桜見台住宅の犬達は、その情報をお互いに伝えあっているというのだ。
—— 飼い主の家の物凄いプライベートな情報が、
毎日、犬達の井戸端会議で囁かれている? ——
ただ健司は、そんな各家庭の『秘密』を知り過ぎることは、
何か危険だと感じた。
正直に言えば、他人の秘密に、少しは興味は有る。
でも少なくとも、お向かいの松本さんの旦那さんと会うたびに、
浮気がばれていないかどうかが、いつも気になってしまうじゃないか。
「サリー。やっぱり他の人の家の内情を、僕がいろいろ聴き過ぎるのは、
ちょっと、まずい気もする。
僕が聞いたことだけ教えてくれるのでいいよ」
<<そうなの? 面白い話がいろいろ有るのよ。残念ね>>
「いや正直、人の秘密を知りたい気持ちも有るけど、なんかその……
そんな秘密を聞いちゃうと、その人と普通に話ができなくなりそうで。
それに、ポロっとそんな話を出しちゃったら、
『なんで知ってる?』って言われた時に説明に困っちゃうだろ?
犬から聞いたとは言えないし、それを言ったら君たちも困るんだろ?」
<<そ、それは、そうね>>
サリーは首を傾げて考えているようだった。
サリーと話をしながら動作を見ると、人間と同じような表情や仕草を
するのだと良く分かる。
犬を飼ったことの無い健司には、そんなサリーの表情の変化も新鮮な驚きだ。
何か、新しい友人……いや友犬……ができたようで嬉しかった。
「あっ! 忘れてた。サっちゃんに電話するんだった」
***
妻の幸子には、歩道で転んで怪我したお婆さんを、病院に乗せてきたと
話し、帰るのが遅くなると伝えた。
犬と話せることについては、当然、何も言わ無かった。
その後、お婆さんの診察が済むまでは、サリーから立花家の家族のことや、
いろんなことを教えてもらった。
サリーが立花家に迎えられた時は、梅子お婆さんの夫、恵さんの母親、
そして、孫の恵さんが同居していて4人+1匹の家族だったらしい。
その時点で恵さんは16歳だった。
恵さんの両親は、恵さんが小さいころに離婚したので、
サリーは恵さんの父親に会ったことが無いと言った。
サリーが1歳のときに、三郎お爺さんが亡くなり、
サリーが5歳の時に、恵さんの母親の加奈子さんが交通事故で、
突然、亡くなったという。
だがら、その後は、お婆さんと恵さんとサリーの三人暮らし
だったらしい。
しかし、昨年、恵さんが結婚をして家を出たということだった。
恵さんは、東京に近いマンションに住んでいるが、
お婆さんのことを心配して、頻繁に桜見台に来るそうだ。
ただ、もうすぐ第一子の出産なので、子供が生まれたらしばらくは来る
のが難しいのではと、サリーは心配していた。
***
「サリー。君たちは猫とも念話で話をするの?」
<<猫は念話はできない>>
「そうなの? 猫たちは会話してないの?」
<<いや、どんな生き物も、自分たちの言葉のようなものを
持っている。猫も、ネズミも、鳥も、虫も>>
「猫はどんな言葉を使うの?」
<<『言葉』というより、喉のゴロゴロ音や、目の瞳孔の動きや、
体の動きなどの総合的なもので、意思疎通をしてる。
猫は私たちより目がとてもいいから、視覚も重要なんだ>>
「じゃぁ、犬と猫は会話はできないの?」
<<『会話』とは言えないが意思疎通はかなりできる。
鳴き声や動作で。でもそれは、私たちが人間とかなり
意思疎通しているのと同じ>>
—— 確かに。念話を聞けない飼い主たちも、犬の表情や動作を見て、
犬が何を言いたいのかは、かなり分かるらしい ——
***
しばらくして、梅子お婆さんは右足の足首にギブスをはめて、
松葉杖をついて病院から出てきた。
梅子お婆さんが出て来ると、サリーはもう念話で健司に話しかけようと
しなかった。健司のほうは念話ができるわけでは無いので、
お婆さんに気づかれずに、会話をするのは難しいと思ったのだろう。
でも健司は、もっとサリーと話がしたかった。
犬達の社会の事をもっともっと聞いてみたい気がしていた。
「ああ、お婆さん。恵さんの携帯はスイッチが入って無いらしくて、
連絡できていないんです」
「そうなのかい。おかしいねぇ。いつもはスグに出る子なのにねぇ」
健司は危なく『恵さんはお腹の赤ちゃんの検査で病院だ』と言おうと
して、喉まで出たが、そこで思いとどまった。
それはサリーから聞いた情報で、梅子お婆さんから聞いたわけじゃない。
—— 危ない。いきなりサリーとの約束を守れないとこだった ——
お婆さんに提案してみる。
「お婆さん。明日から僕がサリーのお散歩をお手伝いしましょうか?
僕は基本的に自宅でテレワークなので、仕事の納期さえ守れば、
休憩時間も自由な時間に取れますから」
「いえ、それは、申し訳ないわ。
それにサリーはお庭で排泄できるし、庭で走り回れるから、
そんなに遠くまで散歩にいかなくても大丈夫だと思うけど…」
「でも、お婆さんはその足じゃぁ、お買い物にも行けないでしょ?
東浜スーパーぐらいまでなら、僕がお散歩がてらに行きますよ。
僕、ワンちゃん飼ったことないから、サリーと散歩がしたいんです」
「そうだねぇ。じゃぁ……申し訳ないけど、お願いしようかねぇ」
***
立花家まで、梅子おばぁさんとサリーを送り届ける。
駐車場に車を入れた時には、もう薄暗くなっていたが、隣の上田家の
ウッドデッキで、ビーグルのジョンが慌てて逃げていくのが見えた。
—— そんなに怖がらなくてもいいのに ——
お婆さんが慣れない松葉杖で、アプローチを歩くのをサポートして
玄関まで送り届けて、そこでお別れの挨拶をする。
お婆さんはとても丁重にお礼を言っていた。
サリーも、ふらつくお婆さんを心配そうに見守りながら、家に上がり、
振り向いて、念話で健司に言った。
<<ケンジ。明日また来てくれるのかい>>
「サリーちゃん。また明日ね。明日は散歩に行こうねぇ」
健司はお婆さんに聞かれても大丈夫な返事をして、サリーに手を振った。
サリーのほうは嬉しそうに尻尾を大きく振って応えた。
—— 明日のお散歩&買い物が楽しみだ ——
***
家に帰ると幸子が心配そうに出迎えてくれた。
梅子お婆さんは、東浜スーパーに買い物に行くたびに、
サービスコーナーでひとしきり雑談をしていくらしく
幸子はお婆さんのことを良く知っていた。
「お孫さんが結婚してからは、ワンちゃんと二人暮らしで、
寂しそうなのよ」
「そうなんだ。僕は初対面だったけど… サっちゃんとお婆さんは
よく話をしてたんだね。お婆さん、しばらくは松葉杖生活だって」
「えー。それは大変ね」
「大変そうだから明日は、
『僕がお買い物とワンちゃんの散歩をする』って言って来ちゃった」
「そうなの? それは良いわね。お婆さんの飼っているサリーちゃんは
とっても大人しいから、健司でも大丈夫よね」
「ああ今日、だいぶ仲良くなったよ」
健司はサリーと話したことを幸子に話したかったが、ぐっと我慢をした。
幸子が知ったら、きっと腰を抜かすだろう。
次のエピソード> 「わんこメモ その1」へ続く
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