第32話 紫陽花

5月末、お庭にサリーが楽しみにしていた紫陽花が咲き始める。


立花家のお庭にも、以前は沢山の紫陽花が咲き、梅子お婆さんが

数本を切って家の中にも飾っていたらしい。


サリーは自分は梅子お婆さんの病室に行けないので、お見舞いに

行くときは、紫陽花を持って行ってあげて欲しいと健司に頼んだ。


「うちの紫陽花は、土質のせいか青しか咲かないけど、お見舞いに

 青でも良いのかな」


<<大丈夫。お婆さんは青い紫陽花が好きだった>>


 ***


6月初め。お見舞いに行く日は、あいにく小雨が降っていた。


サリーは雨の日はあまり外で散歩したがらない犬だが、

病院のお庭でしかお婆さんの顔を見ることができないので、

家の玄関を出る時に、黄色いレインコートを着せてあげた。


以前、金森さんの家のがけ崩れのときは、びしょぬれになって

大変だったので、大型犬用のレインコートを買ってあったのだ。


「これなら、濡れるのは足と尻尾と顔ぐらいだからね」


<<うん。ちょっと慣れないけど大丈夫>>


 ***


短く切った紫陽花を入れた花瓶を持って、お婆さんの病室に入る。

お婆さんはベッドに寝たまま、弱々しく手を挙げて出迎えてくれた。

かなり痩せて来ている。


恵さんからは、梅子お婆さんはもう高齢のため、副作用のきつい

癌の治療はあきらめたので、病状が少しづつ悪くなっているのだろう。


お婆さんのベッドの横には、健司がプレゼントしたサリーの写真を

入れた写真立ての横に、新たに恵さんと赤ちゃんの写真立てが

追加されていた。


恵さんと赤ちゃんは、もうすぐお見舞いに来れるはずだが、

恵さんが先に写真と写真立てを送って来たのだろう。


梅子お婆さんから、ひ孫となる赤ちゃんは、『さつき』という

名前がつけられたと聞いた。五月生まれだからだそうだ。


「これ、うちの庭で咲いた紫陽花なんですけど、サリーがとても

 気に入ってて、毎日のように紫陽花の周りをウロウロするんです。

 沢山花をつけたので少しだけ持ってきました」


「まぁまぁ、あの子は昔からお庭の紫陽花の花が咲く前から、

 ソワソワして、待ち遠しく見てたからねぇ」


写真を隠さない様に、少しずらして紫陽花の花瓶を棚に置いた。


「小雨なので、サリーは今日はレインコート着てるんですよ」


健司はいつものように、お婆さんのベッドを窓のほうに少しだけ

動かして、リクライニング機構で頭のほうを高くした。


以前はお婆さんは、自分でも上半身を起こして身を乗り出すように

外を眺めていたが、もうそこまでの元気はあまりないようだ。


サリーが見えるように、ベッドをもう少し窓に寄せてあげた。


お婆さんが少しだけ首をあげて、ニコニコする。

「黄色いおべべ着させてもらって、良かったわね」

サリーに手を振りながら言った。


「ウォーン」サリーの鳴き声がかすかに聞こえる。

サリーもお婆さんに気が付いたようだ。


いつもなら尻尾を大きく振る所だが、レインコートが邪魔で

尻尾が振りにくいのか、少し小刻みに振っていた。


いつものように健司は庭に降りて行き、スマホをサリーの耳に

あててあげる。

お婆さんがガラケーでしばらくサリーに声をかけていた。


 ***


6月中旬。

恵さんが赤ちゃんの生後1ケ月健診も終わったので、

梅子お婆さんに、さつきちゃんを会わせるためにお見舞いに来た

と言って電話をくれた。帰りには槇村家にも寄るという。


サリーに電話のことを告げると、サリーは久しぶりに恵さんに

会える喜びと、赤ちゃんに会うという楽しみで、ソワソワし始める。


恵さんの旦那さんの運転するトヨタの青いアクアが、家の前に来た

途端に、サリーはウッドデッキから駆け下りて門の所まで走った。


サリーは恵さんの旦那さんの車を、これまでも何回も見たことが

あるらしいので、車を覚えていたのだ。


健司は旦那さんの吉田隼人さんとは、お会いするのは初めてだ。

少し緊張しながら、門の所で挨拶をした。


恵さんが口に指を当てながら、車の座席からベビー用バスケットを

下ろす。その中で、さつきちゃんは、すやすやと眠っていた。


恵さんは口に指を当てたまま、バスケットを低い位置に下げて、

サリーにもさつきちゃんが見えるようにする。


赤ちゃんを起こしてはいけないので、吠えてはいけないシーンだと

サリーは良く分かっているようだが、かすかに感嘆の「クー」という

声が聞こえた。尻尾は猛烈な勢いで振られている。


健司が吉田家の三人を家の中へと案内する。


「幸子はいつも5時に仕事が終わるので、もうそろそろ帰って来る

 と思います。すぐ近くのスーパーのパートタイムなので」


健司はお客様に入れるお茶を準備しながら、対面キッチンから

声をかけた。


サリーはソファーの上に置かれたベビーバスケットから目を離す

ことができず、時々覗き込んでニンマリしている。

<<お人形みたい。お人形みたい>>


大きな声を出してはいけないと、わかってはいても、

まるでパントマイムのように動かす口から、小さく「アゥアゥ」と

聞こえている。


「まぁサリー。赤ちゃんを近くで見るの初めてだから、

 どうすればいいのかわからずに困ってるのね。さつきっていう

 名前なのよ。仲良くしてね」


恵さんがサリーを優しく撫でた。


その時突然、さつきちゃんが目を覚まして、激しく泣き出した。

「オギャァ。オギャァ」


驚いたサリーはどうしていいのか分からず、二歩ほど後退する。

そしてバスケットの横でオロオロしていたが、恵さんがバスケット

ごと持ち上げて、少し揺らしながら、トントンすると、

さつきちゃんはすぐに泣き止んで、機嫌が良くなった。


泣き止んださつきちゃんの顔を、サリーがおそるおそる覗き込むと、

さつきちゃんは、怖がることは無く、ニコニコして笑っている。


目の前で動くモフモフのお顔が気に入ったようだ。

サリーのほうも、その反応に嬉しそうな顔をしてニンマリした。


少しして、幸子が帰宅する。

吉田さんご夫婦との挨拶が終わると、バスケットのさつきちゃんを

紹介してもらう。


幸子も子供を育てたことが無いので、どう挨拶すればいいか

わからず、さつきちゃんの前で手を振った。

「はじめまして~さつきちゃん。サっちゃんでしゅよぉー」


健司は恵さんにはしばらくお会いできていなかったので、

報告することが沢山あった。


犬泥棒の件の詳細、悪徳ブリーダーからの犬達の救出劇。

そして霞台ドッグパーク、金森家ミニドッグラン、などなど。


「サリー。良かったわね。幸子さんや健司さんがホントにいい人で、

 他のワンちゃんたちともそんなに会えてるなら、嬉しいでしょ」


サリーは恵さんに撫でられながら、嬉しそうにしていたが、

何か異変を感じたのか、さつきちゃんのバスケットのほうを、

気にして覗き込んだ。


その途端、サリーが何とも言えない表情で顔を上げた。


「クゥーン」 <<くっさーい>>


そのサリーの表情に恵さんも気が付いた。

「あー、さつきちゃんウンチ出たねぇ。おむつえ替えようか」


「サリーちゃん。いま凄く困った表情だったねぇ」

幸子が大笑いする。


サリーはちょっと恥ずかしかったのか、首をうなだれながらも、

さつきちゃんが、おむつを替えてもらってる様子に興味津々だった。


その後、吉田さんご夫妻とさつきちゃんが帰っても、サリーは興奮

したままだったが、初めての赤ちゃんとの対面で、どう対応すれば

よいのか、オロオロしまくりだったので、疲れていたようだ。


いつもより早く、リビングの隅の寝床に入っていた。


 ***


恵さんたちが来て4日後。

朝早くから健司がテレワークをしていると、恵さんから電話が有った。


その電話は、

梅子お婆さんが、昨晩、永眠したという悲しい知らせだった。


—— やっぱり、相当具合が悪くなってたんだな ——


恵さんは、これから旦那さんと一緒に、風見が丘病院に向かうが、

サリーにも、このことを自分の口から伝えたいという。


少し涙声だった。


健司が電話がつながったまま、スマホを持ってリビングの窓を開けて、

ウッドデッキにいるサリーを呼んだ。


スマホをサリーの耳に当てる。


恵さんの声が聞こえて、最初は喜んでブンブン振っていた尻尾が、

恵さんが話をするうちに、いきなり止まって下に垂れた。


「クーーン」

サリーはこれまで見たことが無い表情で、健司を見上げた。


3月末の桜吹雪の中、初めて梅子お婆さんと出会ってから、

まだ3ケ月弱しか経っていないが、もう他人とは呼べない関係に

なっていたので、健司も少し涙があふれてきた。


—— サリーはもっと悲しいだろう ——


恵さんは、お葬式などの詳しいことがわかったら、また連絡をします

といって電話を切った。

—— 恵さんも赤ちゃんを抱えているのに大変だな ——


サリーは、トボトボと歩いてウッドデッキの端っこまで行き、

お座りの姿勢で、空を見上げた。


健司もその横に行って、ウッドデッキの端っこに腰をおろす。


<<梅子お婆さんも、あの白い雲の上にいったの?>>

「そうだね。ずっとサリーを見てくれているよ」


<<この前、お婆さんに紫陽花を持って行って良かった>>

「そうだね。とても喜んでたよ」


<<あの白い雲の上のテンゴクって所にも紫陽花は有るの?>>

「たぶん有るんじゃないかな。綺麗な所だと思うよ。

 いろんなお花が咲いてるんじゃないかな」


<<良かった。それなら、お婆さんが喜ぶわ>>

「そうだね」


6月にしては珍しく晴れていて、もう夏のような雲が青空に浮かん

でいる。あと1時間もしたら、気温が上がって暑くなるだろう。

早くも梅雨明けの発表がされるかもしれない。



庭の紫陽花もそろそろ終わりが近く、色がだいぶ濃くなっている。



—— 桜吹雪の中での出会いから紫陽花が終わるまでの

 この3ケ月弱。梅子お婆さんやサリーと出会って、

 いろんなことが有った。

   

 3ケ月弱とは思えないぐらい濃い経験をした。


 サリーを通じて、桜見台住宅のいろんなワンコ達と出会い、

 その飼い主達との交流も増えた。

 そして何よりも、我が家にはサリーという家族が増えた。


 桜吹雪の日、梅子お婆さん達と出会っていなかったら

 きっと、こんな経験はしなかったと思う。


 そして、梅子お婆さんや、恵さんが、

 僕やサっちゃんを信頼してサリーを預けてくれたことで、


 子供のできなかった我が家に、初めて家族が増えた。

 梅子お婆さん。本当にありがとう —— 




サリーと健司が見上げる青空の中で、

          真っ白な雲がゆっくりと流れて行った。




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ワンネット [シーズン1]     ~ 完 ~ 

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