第2話 念話

梅子お婆さんは、『サリーはいつも整形外科の入口で賢く待てる』

と言ったので、サリーを後部扉から乗せた。


「風見が丘整形外科でいいんですよね」

「ああ。本当に申し訳ないですねぇ」と梅子婆さんが頭を下げた。


車を発進させる。

『風見が丘』は桜見台の隣の町で、すぐ近くだ。


風見が丘整形外科は、東浜電鉄とうひんでんてつの風見が丘駅から延びる大通り沿い

にある。以前、健司も腕を骨折し診療してもらったことがある。


整形外科の駐車場に車を止め、受付で事情を話すと、

看護師さんが、すぐに車椅子を持って来てくれた。


車椅子で院内に連れて行かれる途中で、お婆さんが慌てたように

健司に携帯電話を渡す。


「申し訳ないけど、孫のメグミに電話をして、明日こちらに来れないかを

 聞いてもらえると助かるんですけど」


「あ、はい、え、お孫さんの電話番号は……」


お婆さんから受け取ったガラケーは、すでに電話帳が開いていて

トップに『恵ちゃん』という登録が有るのが見えた。 


「ああ、電話帳のこれですね」


健司は、お孫さんに何をどう言えば良いのかを、聞こうと思ったが、

すでに看護師さんが車椅子を押して、待合室の奥に行ってしまった。


—— 見ず知らずの恵さんに、何て言えばいいんだ? ——


待合室では電話はかけられないので、とりあえず外に出る。

車の後部の窓からサリーが心配そうにこちらを見ていた。


「あ、出してあげなくてゴメン」

車の後部扉を開けて、サリーを外に出す。


病院の入り口横に、長椅子が置いてあったので、

背もたれのバーにリードを巻いて、横にサリーを座らせ

ようとしたが、サリーは座らなかった。


お婆さんの姿を探しているのだろう、

ガラス張りの病院の壁から懸命に中を覗き込んでいる。


「お婆さんはこれから検査に行くはずだよ」とサリーを撫でた。


サリーはお婆さんが車椅子に乗せられて、レントゲン室のある奥の

スペースに入って行くのを見届けると、大人しく長椅子の横に座った。


健司は長椅子に座ってガラケーを操作する。

お孫さんの恵さんという人が、どういう人なのかも知らない。


少し緊張した。


—— あ、自動音声だ ——

ガラケーからは、『電源が切られている』という自動音声が流れた。


「なんだ。恵さんの携帯の電源が切られてるって」と思わず独り言。


その時、頭の中で声が大きく響いた。


<<メグミちゃんは、今日はお腹の赤ちゃんの検査で病院よ>>


その声は頭の中に響いたが、なんとなく左横からだとわかった。

左を向くと、サリーがお座りをしたまま、舌を出して機嫌良さそうに

こちらを向いている。


「もしかして、サリー。今、お前がしゃべった?」


サリーがビクっとして、口を閉じ、いきなり四つ足で立ち上がった。


目が真ん丸に見開かれ、両側の大きなたれ耳の付け根が、

体の後ろ側に引かれて少し動いた。明らかに驚いたような顔だ。


<<やっぱり。 ケンジ。これ聞こえるの?>>


その言葉に驚いて、ガラケーを落としそうになった。

「えっ…まっ、まさか…犬が…」


サリーの方も驚いた顔のままだ。

<<これ本当に聞こえるの?>>


「うそだろ? よく聞こえる。犬がしゃべるなんて…信じられない」

<<私達の言葉が聞こえる人がいるなんて…信じられない>>


健司とサリーはお互いに驚いた表情のまましばらく見つめ合った。


「サリーはなぜ喋れるの? この頭に直接聞こえるのはなぜ?」

<<犬は、普通、みんなこの念話で話ができる。

  それよりケンジはなぜ、私たちの念話が聞こえるの?>>


「わからない。昨日飛行機を降りてから耳がずっとキーンとしてて。

 え? いま君、って言った?」

<<そうよ。みんな、だいたいできる。ほら、モモが来る>>


風見が丘整形外科の前の歩道を、小太りのウェルシュ・コーギーが、

リードを強烈に引っ張りながら歩いてくる。


その後ろの女性の飼い主は、スマホを見ながら、ゆっくりと歩き、

全然周りを見ていない


<<はーい。モモ>> サリーの念話。


<<あら、サリーこんな所で何を>> 少し高い声のモモの念話らしい。

<<梅子お婆さんが転んで怪我したのよ>> サリーが答える。


その時、前を見ずに歩いていたモモの飼い主が、立ち止まっていたモモの

横っ腹につまずいた。


「キャン」

「もう! モモ危ないじゃないの! 突然立ち止まらないの!」と飼い主。


<<何よ、あんた! そのスマホとやらばかリ見て、

  前を見て無いあんたのほうがよっぽど危ないじゃないの>> とモモ。


当然、飼い主には、モモの念話は聞こえていない。


「モモ。行くよ」と飼い主は、サリーと話を続けようとしている

モモを無理やり引っ張って、前を向かせた。


<<サリー。お婆さんお大事に>>

モモが引っ張られながら挨拶をした。


健司はモモの反論を聞いて可笑しくなった。

「『スマホ見ながら、歩くほうが危ない』って、あの犬の言うほうが

 正論じゃないか!」


サリーが横から話しかけてきた。

<<ケンジ。他の人間に私達の念話が聞こえるのを話すのは、

  たぶん良くないと思う>>


「なんで? まぁ多分、最初は信じてもらえないかもしれないけど。

 意思疎通ができるのを見せたら、皆も信じるんじゃないかな」


<<いや、そうじゃない。困る犬が多いんだ>>

「犬が困るって?」


<<私達は、人の言葉をかなり理解できるけど、

  わざと、分からない振りをしてる犬も沢山いるんだ>>


をしてる? なぜ?」


<<勝手なことばかり言う飼い主が多いからよ。

  さっきの坂本さんっていうモモの飼い主もそう。

  自分はいいかげんな生活態度なのに、飼い犬には厳しくて、

  飼い主の言うことを守れと命令したりね。

  そういう理不尽な命令をする飼い主が多いのよ>>


「うん。そういう飼い主も多いのかも」


<<私達は、人が思っているよりも沢山の人の言葉を理解できる。

  だけど、人の言葉が理解できない馬鹿だと思わせておいたたほうが、

  理不尽な命令を無視しやすいのよ>>


「え? そうなのか?」


<<そうよ。梅子お婆さんのように、いい飼い主ばかりじゃないのよ。

  言葉が分かるのに、命令を無視していると思われたら、

  よけいに怒られて、危害を加えられる犬もいる。

  お願いだから、他の人間には私達の念話のことは言わないで

  くれると助かるの>>


「そうか……」健司はサリーの言うことを少し考えた。


確かに人間と犬は、完全にフェアな関係とは言えない。


多くの飼い主は、犬を家族のように可愛がってる。

しかし、違うケースもある。


乱暴な飼い主は、自分の言うことに従わせるために、

犬に体罰をすることもできるし、餌を与えないこともできる。


それとは逆に、犬のほうが人を噛んで傷つけたりしたら、

処分されることもある。


サリーの言うように、飼い主の言葉が分かっていても、

『分からない振り』をするというのは、

犬にとっての自衛手段として大事なのかもしれない。


「わかった。サリー。他の人間には、君たちの念話が聞こえることは

 話をしないし、秘密にする」

<<ケンジ。ありがとう。私達、良いお友達になれそうね>>


サリーは安心したようにモフモフの尻尾を大きく振った。


「ああ、まだ犬と会話ができるなんて信じられない気分だけど……

 あっ、ちょっとごめん」


腕時計を見た。もう夕方の五時過ぎになっている。

ちょっとだけドライブのつもりだったが、長い外出になってしまった。


そろそろ、近くの東浜スーパーで働いている妻の幸子が帰る時間だ。


「あっ。ちょっと遅くなるって電話しないと」

自分のスマホを出して、幸子に電話をしようとする。


<<サっちゃんに電話するの?>>


「えっ! なんで僕の嫁さんが『サっちゃん』なのを

 サリーが知ってるんだ?」




次のエピソード>「第3話 情報網」へ続く

 


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