ワンネット

星空 駆

シーズン1 ワンネット誕生

話す犬

第1話 桜吹雪の中で

3月末、桜見台住宅は一年で一番美しい時期になっていた。

住宅内を横切る二本の道路の街路樹の桜は、満開から一週間が経って、

そよ風が吹くたびに道路の両側から桜吹雪が舞っている。


 健司はゆっくりとカーブに沿ってホンダ シャトルのハンドルを切った。

フロントウィンドーにも、薄いピンク色の花びらが降り積もって来る。

昨日、出張からの帰りに乗った飛行機の着陸時から、耳の違和感が続いて

いたが、そんなことも忘れてしまうぐらいの絶好の花見日和だった。


—— ん? あれは? ——


 桜見台第一公園の前、左側の歩道の桜の木の下で、一人のお婆さんが

地面に座り込んで、痛そうに足をさすっている。

その周りを、金色に輝く毛並みが美しいゴールデンレトリバーがオロオロ

としている。犬はどうもお婆さんを心配しているようだ。


車を止めた。


「どうかされましたか? 大丈夫ですか?」

「いぇ、何かにつまずいて転んでしまってねぇ」とお婆さん。


痛そうに顔をしかめている。どうも立てないようだ。

—— 放ってはおけないか ——


健司は車を降りて歩道側に向かう。

「お婆さん。怪我したんですか?」

「ちょっと足をひねってしまって……あっ…イタタタ」


その時、頭の中で別の声が聞こえた。

<<桜ばかり見て、歩くから転んだのよ>>


健司は周りに誰かいるのかと振り向いたが、ゴールデンレトリバーが、

周りをウロウロしているだけで、他には誰もいない。

—— え? 空耳か? —— 


「お婆さん。お怪我をされてるなら、お家まで車で送りましょうか?」

「ああ。ご親切にありがとう。病院に行ったほうがいいかもしれないけど

 診察券も保険証も家に置いて来てしまったので……」


「お婆さんのお家はどちらですか? お家まで行って、保険証を取って

 から病院でも大丈夫ですよ。ご家族の方はいるんですか?」

「ああ。家はすぐそこの桜見台1番地で、同居家族はこのサリーだけなの」


—— 1番地? もと地主さんの家か ——

桜見台1番地は緩やかな南向き斜面の住宅地の一番上。

もともと、この辺の山を持っていた地主ん達の大きな家が数件並んでいる。


お婆さんは、横にいる美しい毛並みのゴールデンレトリバーを撫でた。

サリーという名前らしいその犬は、ふさふさの尻尾をゆっくりと振って

歩道に座り込んでいるお婆さんに、心配そうに寄り添っている。


お婆さんに手を貸しながら立ち上がらせ、車の助手席に座わらせた。

「ご親切ににどうもすみませんねぇ。ああ、私は立花梅子と言います」

「ああ、僕は槇村健司って言います。すぐそこに住んでます」


健司は家の有る方向を指さした。

健司の家は、この道路の南側の桜見台4番地にあり、目と鼻の先だ。


「ええっと。ワンちゃんは後ろに乗せますね」


後部座席を前に倒し、フラットにして、広い荷室にする。

ラゲッジマットを縦向きに直して、大型犬が座りやすいようにした。


お婆さんからサリーのリードを預かる。


犬は飼ったことは無いが、とても好きだ。

サリーは大人しそうだが、怖がられるといけないので、手の甲を顔の下

から差し出して、匂いをかがせてから、ゆっくり頭を撫でた。

首輪には赤いリボンが付いていた。


サリーは健司の匂いを嗅ぐと、健司の顔を見上げ、健司の目をじっと見た。

軽く尻尾を振っている。


車の後ろに連れて行くと、サリーは自分からさっと荷室に飛び乗って、

前に進み、助手席のお婆さんが振り向いた所に鼻を近づけた。

ふさふさの尻尾を嬉しそうに大きく振っている。


—— 状況を理解してる。かなり、頭がいいな ——


サリーはキョロキョロしながら、運転席や助手席、そして荷室の匂いを

クンクン嗅いでいる。

—— あれが犬の情報収集なんだよな ——


健司は運転席に戻りながら話しかけた。

「サリーちゃんは大人しくて賢いですね」

「もう9歳だからねぇ。小さい時は、かなりのオテンバ娘だったのよ」

お婆さんは、後部から鼻を出しているサリーをポンポンと優しく触った。


サリーが驚くといけないので車をゆっくりと発車させる。

「1番地って、すぐそこの山側ですよね」

「ええ、登って、そこの突き当りを右です」


お婆さんと少し話をしただけで、立花家の前に着いた。

ここなら健司の家から歩いても、すぐの場所だ。


やはり、大きな庭の奥に、おおきな平屋の家がある。それに

駐車スペースは、余裕で車が三台は止められるぐらい広い。


「槇村さん。すまないけど、足が痛いので、家から保険証と診察券を

 取って来てもらえないかねぇ」

「え? 僕がですか」


初対面の方の家に、一人で入るのはどうかなと思ったが、お婆さんが

サリーが保険証などを置いている居間まで連れて行ってくれるという。

半信半疑でサリーも車から降ろした。


隣の『上田』という表札の有る隣の家のウッドデッキで

激しく犬が吠えている。


—— あ、ビーグルだ —— 


<<? 見たことない車だな>>

その上田さんの家のほうから男の声がした。


でも人の姿はない。


隣家は窓が半開きで網戸が閉まっているので中は見えないが、

部屋の中に人がいるのかもしれない。


健司は猛烈に吠えているビーグルの向こう側、

窓の中の、見えない隣人に向かって頭をペコリと下げた。


白、茶、黒の三色模様の、吠えているビーグルは、

牙をむき出して、今にも飛び掛かりそうなぐらいだ。


あのスヌーピーのモデルになったというイメージからは、

想像できない。


—— うわぁ。こんな怖い顔するんだ ——


リードには繋がれていないが、ウッドデッキの柵からは飛び出し

ては来れ無さそうなので、噛みつかれはしないだろう。


立花家の黒い門を開けて広い敷地に入る。


サリーが先導するようにスタスタとアプローチを進み、

玄関の前で立ち止まった。

健司はお婆さんから預かったカギで玄関の扉を開ける。


玄関たたきには、濡れた雑巾が広げて有った。

サリーは自分でその雑巾の上に足をこすりつけ、汚れを落とすと、

さっさと玄関フロアーに上がった


「へぇ。サリーちゃん。自分で足を拭くんだぁ。お利口だねぇ」


サリーは、靴を脱ぐ健司を待てないようで、赤いリードを引きづったまま

奥の廊下にさっさと進む。「あ、待って」慌てて靴を脱ぎサリーを追う。


大きな家だったが、サリーが居間らしい部屋に入る。


お婆さんは、『部屋の隅に引き出しの沢山ある縦型の家具がある』と言った。

その一番上の引き出しに保険証も診察券も有るらしい。


全く知らない家の、家具の引き出しを勝手に開いて物探しをするなんて

まるで、泥棒のような行為だなと思ったが、行くしかない。


健司は引き出しを開いた。


幾つかの封筒や、写真などが入っているが、保険証らしきものは無い。

また整形外科の診察券は無く、眼科と皮膚科の診察券しか無かった。


—— 困ったなぁ。お婆さんがどこか別の場所に置いたのかな ——


右足の後ろを、何かにつつっかれて、驚いて振り向く。サリーだ。


サリーが何やら柔らかいエコバックを口にくわえている。

激しく尻尾を振って、訴えるような目で健司を見上げていた。


「え? サリー。このエコバックに入っているの?」


健司が手を出すと、サリーはエコバックを口から離して健司に渡した。

半信半疑で中を除くと、保険証、整形外科の診察券、それ以外にも

ハンカチやメガネなどが入っていた。


「お前賢いねぇ。お婆さんがこのエコバックに入れたままなのを

 知ってたんだね」


健司は思わず、ゴールデンレトリバーの頭を撫でる。


サリーは誇らしげに目を細め、大きな舌を出しながら口元をゆるませた。

—— へぇ~ 犬もこんなをするんだね ——


お婆さんが車で待っているので、急いで玄関を出る。

サリーも一緒について来た。

病院に行くのだから、サリーは家に置いて行ったほうが良いのかも

しれないが、サリーは一緒に行く気満々のようだ。


いずれにしてもお婆さんに、どうするのか聞いたほうが良いだろう。

とりあえず玄関のカギをかけ、アプローチを駐車場の方へ向かう。


サリーは、リードがピンと張らない距離で、後ろからトコトコついて来た。


立花家から出てきた健司に気が付いて、隣家のビーグルが、

再び激しく吠え出した。


ウッドデッキの床の高さが、人間の腰ぐらいなので、牙をむいたビーグル

の顔が間近に見える。今にもウッドデッキの柵を飛び越えそうな勢いだ。


<<ジョン。うるさいよ。吠えるのはお止め!>>

後ろから、女性の声が聞こえた。


「へぇ~。このビーグル君はジョンっていう名前なんですね」

と健司が言いながら、後ろを振り向いた。

—— あれ? 誰もいない? ——


誰か立花さんの知り合いが、近くにいるのかと思ったが、

その方向は、立花家の庭だし、尻尾を振っているサリーしかいない。


「え? いま誰が、しゃべった?」と思わず声に出る。


サリーは驚いたような顔をして、その場で立ち止まった。

ふさふさの尻尾もぴたりと止まっている。


もう一度、ウッドデッキの方を向いた。

耳の調子がおかしいから、後ろから聞こえたと思ったけど、

もしかしたら、ウッドデッキに誰かがいるのか?

しかし、そこにはビーグルがいるだけだ。


そのビーグルも、なぜか吠えるのをピタッと止めて、目を見開いて

サリーと同じように固まっている。


試しに「お前、ジョンっていう名前なの?」と聞いてみた。


その途端。

ビーグルが思いっきり斜め後ろに飛び上がった。


「うわぁ!」健司はびっくり仰天して、少し後ずさりした。


犬がその場ジャンプで、そんなに高く飛び上がったのを初めて見たのだ。


ビーグルは着地するなり、くるりと向きを変え、ウッドデッキの向こう側の、

クーラーの室外機の陰に、すごすごと逃げ込むように隠れてしまった。


そこから、顔を半分だけ出して、こちらの様子を伺っている。

—— あいつ、何に怯えてる? ——


再びサリーの方を振り向いた。

「ねぇ。あのビーグルの名前は、ジョンっていうのかなぁ。

 さっきさぁ、誰か『ジョン。うるさいよ。吠えるのはお止め!』って

 言ったよねぇ。その辺に誰かいた?」


なぜか、サリーは、まだ目を見開いたままその場で固まっていたが、

突然、頭を下げてスタスタと黒い門の方に行ってしまった。


—— また空耳なのか? それにしては、はっきり聞こえた—— 


健司は首を傾げながらサリーを追いかけて、車に向かった。






次のエピソード>「第2話 念話」へ続く


























 








 












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