空の上に

第8話 吉田恵さん

狂犬病の注射のために、笠原動物病院へ行った翌日、

健司が家でテレワークをしていると、玄関の呼び鈴が鳴る。


玄関を開けると、お腹の大きい若い女性とサリーが門の所に立っていた。

—— 恵さんかな? —— 


<<ケンジ。こんにちわ>> サリーは大きく尻尾を振っている。


「こんにちわ。初めまして、吉田恵といいます。今よろしいですか?」


「あ、こんにちわ。初めまして」

—— そうか、結婚して姓が立花じゃなく、吉田さんになったのか ——


「槇村健司です。どうぞ、どうぞ」


健司は門を開けて、家に招き入れようとしたが、

恵さんは大きく手を振って、散歩の途中だからと言って断った。


そして、恵さんは、お世話になったお礼だからと言って

菓子折りのようなものを、健司に差し出す。


「いぁや、そんな申し訳ない。僕の方こそサリーちゃんとお散歩

 させてもらえて嬉しかったんです。いつかは犬を飼いたかったので」


健司は、申し訳ないと思いつつ、すでに菓子折りを渡されてしまっていた。


「恵さん。お腹大きいのに、サリーちゃんの散歩は大変じゃないですか?」


「サリーがゆっくり歩いてくれるから大丈夫ですよ。軽いウォーキングは

 したほうがいいって、お医者さんにも言われているし」


サリーが恵さんを見上げて嬉しそうに尻尾を振る。

自分を育ててくれた恵さんとの散歩が好きなのだろう。


「サリー。恵さんと散歩できて良かったね。恵さんが転ばないように

 気を付けてあげてね」


健司はサリーの頭を撫でる。

<<うん。ゆっくり歩くわ>>


「サリーちゃんは本当に頭が良くて、大人しいですよね」


「そうなの。

 お婆ちゃんが、いつもサリーに気を付けてもらってるって言ってる。

 どっちが、お世話しているのか分からないねって笑ったわ」


「あ、そういえば僕もお婆さんに頼まれて、保険証を取りに行ったとき、

 お婆さんに言われた場所には無くって、サリーがエコバックに

 入ってるって教えてくれたんです」


「そうなの? それはサリー偉かったわねぇ」

恵さんがサリーを撫でると、サリーはまたドヤ顔をして嬉しそうに

していた。


「お婆さんも、サリーがいるから心強いんでしょうね。

 骨折でしばらく大変だけど、僕ができることならお手伝いしますから」


「ほんとに助かります。

 私も産婦人科に行く日なんかは来ることできないし、

 流石に出産前後は桜見台に来れないので。

 『健司さんのような方がいて良かったって』お婆ちゃんも喜んでました」


その後、少しだけ恵さんと話をして、携帯番号や、メールアドレスの

交換をしておいた。


勤めていた会社は、昨日までに引継ぎを終えて、産休に入ったし、

旦那さんが海外出張でいないので、今日から、4泊5日……

つまり来週の火曜までは、桜見台にいると言う。


骨折したお婆さんが心配なのと、流石に臨月に入ったら、なかなか

泊りがけでは来れなくなるので、今回はゆっくりすることにしたらしい。


出産予定日は6週間後ぐらいとのことだ。


恵さんは、もしも健司が仕事じゃなかったら、明日の土曜か、明後日の

日曜に家に遊びに来て欲しいと言った。

お婆さんのためにパイを焼きたいから、健司にも御馳走をしたいというのだ。


明日の土曜日は、買ったばかりの新車の1ケ月点検の予定が入っていたので、

日曜の午後にお伺いすると約束をした。


話が終わると、恵さんとサリーが、ゆっくりと東の方へ歩いて行くのを

見送った。方向からすると、このまま東浜スーパーに行くのかもしれない。


  ***


夜、幸子と話をしていたら、東浜スーパーに行った恵さんと、

いろいろ話をしたとのことだった。


恵さんは、幸子の受け持ちのサービスカウンターで、お婆さんのために

東浜スーパー系列の、宅配サービスの申し込みをしたのだという。


自分が臨月を迎えようというときに、サリーと二人暮らしのお婆さんが

骨折するという事態になって、どうしようかと困っていたが、

宅配サービスのことを知り、申し込みをしに来たということらしい。


骨折したお婆さんが重たい荷物を買って帰らなくていいように、

お米や牛乳などの食品と、サリーのドッグフードが、定期便で届くように

したいと言う希望だったという。


幸子がサービスカウンターで利用者登録をしたので、あとは家のPCから

ネットで注文を予約したり、追加したりできることをレクチャーしたら、

安心して帰ったとのことだった。


「なるほど。便利なサービスだね。それ」


「でもね。お客さんの中には、東浜スーパー桜見台店から配達が来る

 ものと勘違いしている人がいて、うちに直接電話してきて、

 『今日はキャンセルしたい』なんていう人がいて、結構トラブるのよ。

 系列の配送センターからの配送だから、桜見台店に言われても

 困るのにね。そもそも当日キャンセルはできないし」


「そうか。配送センターがやってんだもんな。いろんな人がいて

 サっちゃんのサービスカウンター業務も大変だな。

 お花コーナーの面倒も見ないといけないしね」


「お花コーナー? あれは好きだし、楽しいからいいのよ。

 毎日、綺麗なお花を見れるんだから。外に出るから日焼けが嫌なだけ」


—— そう言えば、サリーが、サっちゃんは、お花の香りの

   日焼けスプレーの匂いがするって言ってたな —— 


「そうだ。サっちゃん。

 サリーの散歩をさせてもらうとき、お花コーナーの水道で、サリーに

 水を飲ませちゃだめかな? それに、お花の鉢の下の受け皿も貸して

 もらえると、飲ませやすいんだけど」


「そうね。ワンちゃん達、結構長い時間繋がれてるもんね。

 店長に聞いてみようかな。たぶん、お皿もお水も提供できるし、

 そのぐらいの顧客サービスは、許してくれると思う。

 桜見台店は、犬のお散歩客がとても多いから、お得意様だもんね。

 でも、お皿洗ったりするのは、セルフサービスになるわよ」


「そんなに『お散歩客』が多いの?」


「前に、東浜スーパーのマーケティング部の人が来てね。

 この桜見台店は、ペット用品コーナーの売り上げが、他の店舗より

 ダントツで多いって言ってたわ。

 その人が、少し歩きまわって調査したら、

 この住宅地、犬を飼っている比率がものすごく多いんだって」


「確かに、犬を散歩させてる人が多いよね」


健司は、もしも多くの犬と友達になれたら、『ワンネット』での

情報収集量が増えて、凄いことになるだろうなと想像して

なんだか嬉しくなった。


—— でも、まだほんの一部としか、お友達になれてない ——





次のエピソード>「第9話 白い雲」へ続く


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