第148話 米豪遮断作戦の完遂

【1943年8月】


 大本営作戦部は一様に胸をなで下ろした。


 ついに米豪遮断作戦が完遂されたのである。


「幣原さんのおかげでオーストラリア政府は日豪休戦協定の妥結に応じました。陸軍と海軍に一定の反発意見がありましたが、これを無理くり押さえつけて、ダーウィンから撤退を開始します」


「万事それでよい。これで米豪遮断作戦は完遂された」


「ソロモン諸島の海戦やニューギニアの航空戦など失った兵力は数え切れません。その犠牲は決して無駄ではない。南太平洋を平定したことで中部太平洋の反攻作戦に絞り込まれる」


「戦力を一点集中して投入してくるが、まぁ、行動を読み易くなったことは歓迎しよう」


 つい先ほどにオーストラリアのジョン・カーティン首相が体調不良を理由に辞職を表明した。それと同時にオーストラリアは大日本帝国と独自に休戦協定を妥結したことを発表する。オーストラリアは連合国側に参加したが、度重なる空襲を受けて疲弊し、ダーウィン強襲上陸を許している。ノーザンテリトリーのキャサリンまで占領された。


 彼は徹底抗戦の構えを見せて米豪の結束を高める。しかし、対日戦から先んじて離脱したイギリスから圧力を加えられた。カーティン首相はオーストラリアのパートナーをイギリスからアメリカに鞍替えした形であるが、イギリスの影響力は排除し切れないどころか、与党の労働党からイギリスとの関係を見直す声が相次いでいる。アメリカは救援を送ってくれたと雖もトラブルが多発した。マッカーサーの尊大な態度も気に入らない。


 もはや、対日戦に意味はなくなった。


 この戦争から離脱して静観を決め込むべきという声に晒される。国内経済の問題や米兵のトラブル、イギリスからの圧力、マッカーサーの反攻作戦失敗、等々がカーティン首相に心労となって襲い掛かった。


「仮装巡洋艦が拿捕した輸送船が毒ガスのマスタードガスを満載しているなんて。これを逆手にとってプロパガンダにすると脅した。あっという間に休戦交渉のテーブルについてきた」


「幣原さんの手腕を褒め称えて毒ガスは屠りましょうよ。これは表の歴史に出してはなりません」


「アンタッチャブルか…」


 日豪休戦協定の内容は多岐に渡るが、重要なところを以下に抜粋する。


1.日本はキャサリンからダーウィンまで完全に撤収する

2.豪軍捕虜を全員解放する

3.日本軍は通商破壊作戦を停止する

4.豪州は米軍の作戦に参加せず支援もしない

5.豪軍が米軍の作戦に参加または支援をした場合は通商破壊作戦を再開する

6.4を著しく破った場合に日本軍は事前予告の上で都市爆撃を行う


 オーストラリアが太平洋戦争(大東亜戦争)から脱落したことにご理解いただきたい。日本軍はオーストラリアから一兵も残らず撤収して通商破壊作戦も停止することを約した。豪軍は米軍の作戦に参加や支援を一切行わないが、参加または支援が少しでも確認されたら、日本軍は事前通告の上で報復の都市爆撃を行うだろう。


 米軍は豪軍から人道支援を除いて受けられなかった。オーストラリアを拠点に活動することは不可能に陥る。陸軍と海軍は漏れなくニューヘブリディーズ諸島、ニューカレドニア、フィジーに後退を余儀なくされた。三拠点は復旧の真っ只中で大規模な反攻作戦は行えない。マッカーサー大将はハワイか本国に帰還することを強いられた。


 再びの「I shall return」を聞けるかもしれない。


「よく仮装巡洋艦が踏み止まりました。欧州戦線のジョン・ハーヴェイ号事件は御免被りたい」


「マスタードガスはいかように?」


「埋没処理するしかない。海洋投棄するわけにもいかない」


「適当な無人の大地に埋める。完全に埋めてしまって、歴史から消し去る」


 日本軍がノーザンテリトリーを制圧し、ソロモン諸島の決戦に勝利し、通商破壊作戦から締め上げたことを重ねてもだ。なぜ、オーストラリア政府が休戦協定の妥結に進んだかわからない。何かしらの決め手が存在するはずだ。


 これは表の歴史には出せないことである。


 オーストラリア近海で通商破壊作戦にあたる仮装巡洋艦が輸送船を拿捕した。輸送船が無抵抗で捕縛されることは非常に珍しい。おそらく、戦時標準船(規格型輸送船)ことリバティ船のため、仮装巡洋艦から逃げきれないと判断した。船長は積荷よりも乗組員の命を優先した。


 しかし、積み荷を確認すると震え上がる。船内には大量のマスタードガスのタンクが積み上げられた。乗組員が切羽詰まった声で危険を訴えることを理解する。マスタードガスは毒ガスの一種であり、第一次世界大戦から猛威を振るうと、国際法で毒ガスは一括して使用を禁じられる禁忌の兵器だ。


「オーストラリアで使用されていたら…」


「毒ガスはどこへ飛んで行くかわからない。特にマスタードガスは残留するから土壌汚染の危険が呈された。これを使わせずに済んだことは僥倖である」


「絶対に毒ガスを使わせてはなりません。勝たねばならぬ戦いも限度がある」


「特に陸軍にはきつく指導せねばなるまい」


 作戦部まで震え上がっている。マスタードガスは最悪の悲劇をもたらした。史実の1943年12月にドイツ空軍がイタリアのバーリ港空襲を行う。連合国軍の海上輸送に痛撃を与えるが、リバティ船の『ジョン・ハーヴェイ号』があり、ドイツ空軍Ju-88から爆撃を受けて撃沈された。積荷として秘密輸送中のM47爆弾2000発はマスタードガスをたっぷりと含んでいる。


 M47爆弾からマスタードガスが漏れ出した。油混じりの海水に溶け込んで脱出した船員を蝕む。大気にも混じりバーリ港付近の市街地に及ぶと爆撃に怯える市民に襲い掛かった。当時は爆撃による火災や煙のせいでマスタードガスを感知できない。本来は名前の由来である匂いをかぎ分けられた。戦場特有の匂いがかき消している。軍人から船員、市民の全員が毒ガスの存在に気付かなかった。最終的に確認できるだけで約630名が中毒症状を訴えて83名が死亡する。


 マスタードガスを満載した輸送船を攻撃せずに拿捕したことは僥倖と言えた。敵輸送船がマスタードガスを理解していたことも幸運だろう。この時だけは日米が連携して最悪の事態を回避した稀有な例に該当した。


「毒ガスの件は置いておきましょう。い号作戦が発令されて海軍は中部太平洋の守りを強化しています。陸軍の今村大将は同意して陸海連携を約束しました。アリューシャンの防衛も成功しており…」


「KX-3の米本土西海岸爆撃作戦を一歩進めるか」


「中島が3機だけを限定製造して、T部隊の精鋭をかき集め、空技廠の最新機器が与えられます。排気タービン式過給機と与圧装置が実戦に耐え得るかをぶっつけ本番で確かめる」


「機体本体に始まりエンジン、排気タービン過給機、与圧装置、機上用電探などの改善と改良を図り、大本命のZ機か予備策のTDに反映させる。皇国の総力を結集させる挙国一致に相応しい作戦だな」


 毒ガス騒ぎをプロパガンダに使用されては堪らない。オーストラリア政府はアメリカ政府を責めながら日豪休戦交渉に重い腰を上げた。米国に振り回されることに飽きて一刻も早く国内の立て直しに尽力しなければならない。


 日本側も毒ガスに触発される軍人が出ると困り果てた。オーストラリア政府の申し入れを了承して毒ガスの一件は歴史の闇に屠ることで合意する。秘密交渉の特使である幣原喜重郎元外相の手腕をべた褒めすることで覆い被せて隠蔽した。


 何はともあれ、日豪休戦協定の妥結により、米豪遮断作戦は完遂される。


「我々は遂に日米決戦の始発駅に着いただけに過ぎない」


「その通り」


「えぇ」


「なんせ、米海軍はエセックス級、インディペンデンス級、護衛空母、その他の艦船を大量に揃えて来る。米陸軍は兵士にM1ガーランドかM1カービンを浸透させ、M4中戦車とM5軽戦車、自走砲を用意した」


 この米豪遮断作戦の完遂は喜ばしいが、最後の日米決戦に至る道の駅だった。


 次からは日米最終決戦の始発駅である。


続く

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