観測外領域(4):ニルヴァーナ


     ◆


 カーテンコールのように、緑のローブが目の前から開かれる。

 一番最初に目に飛び込んだのは、淡く漂う赤い光だった。それを目で追いかけていると、霞のようにぼやけた光は浮いているのか泳いでいるのかわからない挙動で白い壁へと吸い込まれていく。緩やかな動きに呆然となりながら壁を注視していると、そこから同じような光がすり抜けるように飛び出してきた。

 白い壁。そう、そこは一面を白い壁に覆われた部屋だった。見た限りでは表面は滑らかで、わずかに光沢がある。金属よりはガラス質のようではあるが、靴裏が叩くこの感触はとても固い。……総じて、今まで見たこともないような素材でできていた。

 ここはどこだ? と、自問しそうになり、私はさっきまでジルバのログハウスにいたことを思い返す。

 ハヌクリア。現在、首都を襲っている結晶爆弾はラガルトラホの技術提供によって作られたと、ジルバは話していた。その手がかりを求めてここへ来たと言うことは、ここはラガルトラホで合っているんだろうか。私はローランの胸元に預けていた頭を離して、彼に振り返ると、ローランもまた私と同じ感想を抱いているのか、辺りを見渡しながら当惑した表情を浮かべていた。

 ラガルトラホ獄界。魔光洞。死霊術士の聖地。

 獄界とは、エル教が国教になる以前の古い伝承に、その名を残す概念だ。死んだ人間の魂が行き着く地として、そこは生前の罪を清算するためにあらゆる苦役を強いる存在を示唆している。生命の環と似たような自然の循環構造ではあるが、死した魂が機能的に分離する生命の環と違い、獄界は生前の因果を魂が引き継いでいるのが特徴的だったのを覚えている。

 魂に個が存在するとして、父の魂は果たしてどんな罰を受けるのだろうか、と。

 四角い小さな窓から外の景色を覗いてみると、下には底の見えない暗い深淵が広がっており、辛うじてここが垂直に掘られた大穴の側面だと言うことがわかる。しかし視線を上げてみると、そこにはこの部屋と同じ材質でできているであろう白い直方体の通路が、円の端同士を結んでおり、目を凝らしてよく見てみると、結晶角を生やした小さな体躯が幾人か通り過ぎているのが確認できる。

 まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた通路の隙間を縫うように、ぼやけた赤い光子が、あらゆる物質を透過しながら回遊している。


「ここが、ラガルトラホ獄界……?」


 語尾の疑問符を取り切れないまま、私は呟いた。それほどまでに、この病的な静謐さを保つ空間と、自分の持っていた獄界のイメージとが、乖離していた。世界は認識で成り立つ。その理論で今、私たちはこの地に立っているが、私たちがイメージとして認識していたラガルトラホは、果たしてこの空間に取り込まれているのか。もしかしたら、空間や建物、地形にも個をたらしめる意識が存在しているのだろうか。それならば、今ここで困惑しているローランと私の持つイメージが表出したラガルトラホのパターンとの違いも説明はつく。

 私の顔の隣で、同じようにローランが窓の外を覗くと「いつ見ても、ここはすごいな」と感慨深く頭上を見やった。


「たしかに、ラガルトラホの魔術研究は現行の魔術の一世代先を行ってるなんて記録を工房で見たことはあるけど、これを見るとあながち的外れじゃないと思うよ」

「ここは死霊術士の聖地だそうですけど、あなたは来たことないんですか?」

「一度だけ、フレイたちと一緒にね。……そうか、ここって」


 意味深に言葉を濁して、ローランは私から視線を逸らす。

 ラガルトラホの鎖国的風土は、クリスタロボの比ではない。来る者を拒み、去る者は決して許さないが追わない。魔王ロードレクが、唯一懐柔することのできなかった亜人族という格付けは伊達ではない。

 ふと、セターニルにいるプランチャのことを思い出す。ドリドの中には、ここから出ていこうとする者もいるらしいが、その者の気持ちはなんとなく理解できる。ここは今まで見てきた魔境や街の中で、一際人間味がない。かくあるべきという、習慣的な息苦しさがこの魔境を支配しているようだった。おそらく、ここで一週間でも過ごせと言われたら、私は三日後にはここを出る算段を組み立てている自信はある。

 ここの景色がつまらない、なんてことはない。ただただ、生きることに窒息してしまいそうだった。

 窓から離れ、部屋を見渡してみる。壁際には実験用であろう装置がいくつも並んでおり、キッチンのように出っ張ったスペースの上にはガラス製の無機質なカップが並んでいる。中央の作業台には、人を模したようなパーツ群が、未完成のまま放置されていた。

 セターニルの工房と、クリスタロボにあるローランの研究室を想起させるここは、そういう場所なのだと私に悟らせた。

 ここにある装置も、機械にも、意識があるのだろうか。誰の視点が私たちを、ここへと導いたのだろうか。

 そんなことを思案していると、後頭部から空気の抜けるような音が届いた。

 振り返ると、そこには自分よりやや年上の、少女とも女性ともつかないドリドがいた。

 常に天井のある洞窟内で生活するドリドは、その頭に結晶角を生やして且つ低身長であることが多いが、そんなドリドたちと比較すると、目の前にいる人物の背丈はやや高めだと思われる。ここまで曖昧な表現になってしまうのは、彼女が椅子に座りながらこちらに近づこうとしていたため、正確な全長が計りかねているからだ。

 そう、次に目を引いたのは、椅子の側面に車輪を付けた乗り物だった。肘掛けの部分には半球状の装飾が取り付けられており、彼女がドリド特有の浅黒い手で半球を撫でると、中空に浮かぶ紅の球体が機敏に動いた。球体の中心には透明なレンズの奥にしまわれた円形の装置が、私たちの姿を反射させている。

 そして最後に、彼女の身なりに目がいった。眼帯で両目を塞いでおり、こちらから瞳を見返すことはできない。簡素なワンピースの上から、ローランのローブのようなゆったりした白い上着を羽織っていた。

 明らかに普通のドリドではない。それに部外者である自分たちの姿を見られた。冷や汗が背中に走る。なんとか彼女の口を封じることはできないかと手を翳そうとした瞬間、


「あんたち、なんでこんな所にいるの……?」


 目隠ししたドリドは、しかしそれでも私たちにも察せるほどに、口をポカンと開けて驚いて見せる。まるで舐めるように、二つの球体がこちらを周囲を旋回していた。なんとなく、それで彼女と目が合せているようだった。

 なんで。こんなところに。

 彼女の質問の意図が一瞬読めなかった。彼女からすれば、私たちは不法侵入者で、なら私たちに投げる質問は『誰?』なのが普通のはず。

 何故? と質問するのは、私とローランという二人が、ここに居ることそのものに疑問を持たなければ出てこない。

 つまり――、


「……ネヒン?」


 ほとんど反射的に、私はローランのほうを見やる。彼ならネヒンの姿を見たことがあるはず、と。

 ネヒンと思われるドリドを見たローランの反応は、私の予想のどちらともつかなかった。彼は息を呑んで、目を見開いている。あり得ないものを見ているような……あるいは、彼にとっても予想外のものを見てしまったような、そんな後ろめたい感情が、彼の瞳にはあった。


「……ネヒン、その姿……」

「ちょっと、先にあたしの質問に答えて。どうして首都にいるはずのあんたたちが、あたしの研究室にいるのよ」


 初対面のはずなのに、どこか既視感を覚える。それもそのはずで、彼女の口調こそはっきりしているものの、その明瞭な声音は、間違いなくサゼンのものだ。サゼンの口調のまま、よく見ると彼女をやや大人びさせたような印象のネヒンを前にして、私の頭がやや混乱し始める。

 弾けるような強い調子で質問を投げ掛けられたローランは、口元を押さえてなんとか動揺を抑えようと視線を右往左往させていた。


「えっと、待って……。ちょっと、落ち着いて聞いてほしんだけど……」


 なんとか落ち着きを取り戻したローランは、私に話したように転移魔術の理論をネヒンに聞かせる。前代未聞の魔術理論を聞かされたネヒンは、度々私のほうに顔を向けて唇をへの字に曲げていた。言外に「こいつの頭は大丈夫なのか?」と私に聞いているようで、私は大嫌いなはずの彼女に、不覚にも共感を覚えてしまう。しかし、最後まで聞き終えた彼女の口は真っ直ぐに矯正されていった。


「……観測者の視点を起点に、対象の空間に跳躍する魔術、ねぇ……」

「信じられないだろうけど、実際その理論を使って、こうして君の研究室にいるってことは事実なんだ」

「まぁ、ここに来られちゃあ信じるしかないか……。今のゴルドバのゴタゴタの抜け出して、あんたたちがラガルトラホに来るなんてどう考えたって無理だしね」


 こめかみを当てて、倒れる頭を支えるように肘をついたネヒンは、渋々納得したように頷いた。


「ハヌクリアの自爆テロから、どれくらい時間が経ってるんですか?」

「まだ半日も経ってないよ。ここだと時間がわかりにくいけど、外はまだ深夜だからね。屋敷の軍人たちはみんな出払って、カリグラも現場の指揮に出ちゃってるし、未だに大騒ぎだよ」


 他人事のように、ネヒンは言う。

 私の心が、よくない揺れをし始める。

 ああ、これだ。私が、彼女を嫌う理由が明確にわかった。このラガルトラホの景色と同じように、彼女には人間味がない。事実を事実として吐き出し、人の首を真綿で締めることに、何も感じていないような人間性が、私には受け付けられない。

 同じ世界に生きているはずなのに、彼女の心はどこか遠くにあるようだった。あるいは、彼女の心の行く先が、今これを見ている観測者の居場所なのかも知れない。


「サゼンを操作しながら、こっちに意識を向けられるのかい?」

「最低限の魔力光はあっちに転写させてるから、そこは大丈夫。じゃなきゃ見張りにバレちゃうからね」

「見張り?」

「言ったでしょ? ここから出られないの、あたし」


 自身の境遇を皮肉るように、ネヒンは口の端を持ち上げて肩を竦める。

 眼帯で隠れた目元から、白んだ傷跡が窺えた。

 まるで沸騰したような、粟立った傷。その傷と似たものを、私はセターニルで見た。あの夜、王の葉たちのテロによる火災で、やけどを負った腕がそれによく似ていた。


「目は瞼ごと眼窩を焼き潰されて、足の腱は切られて歩けないまま、でも頭脳は欲しいからこうして居住区の最下層で研究室に悠々自適に幽閉されてるのが、今のあたし。……ちょっとは同情した?」

「ひどい……」

「でしょ? ほんっとーに人非人だよね、ここの酋長はさ」


 お約束通りに同情すると、ネヒンはクスクスと喉を鳴らす。振りに応えたような無味乾燥とした対応だが、口に出た言葉は紛れもなく本心だ。

 どうして彼女は、こんなひどい仕打ちの後で、こうも笑っていられるのだろう。私は、彼女がしてやられたことを脳裏でイメージする。

 赤熱した鉄が、お前の見る最後の光だと、眼前へと広がる。皮膚を焼きながら、頭の内側の抜けて後頭部を貫くような激痛と不快感が襲う。一方で足には、鋭い鉄の冷たさが、触れてはいけない肉にまで潜り込む。

 ローランとサゼンが見ているのも憚らず、私は口元を押さえて目を閉じる。ああ、やっぱり、彼女はどこかおかしい。こんな、想像するだけで鳥肌が立ち、泣き叫びたくなるような罰を、どうやって受け入れたというんだ。


「ネヒンは、ハヌクリアのことを知っているのかい?」

「限界まで収縮させた魔素の中で術式を連鎖的に反応させて、最小のエネルギーから効率よくを破壊力を生み出す。

 ……ラガルトラホの理論ではあるけど、まさかそれが首都で使われてるわけ? 冗談でしょ?」


 おどけたような口調とは裏腹に、ネヒンの口元が固く結ばれた。


「ここを出て行ったドリドが、王の葉にその技術を提供したんだと、俺は思っている」

「あたしを疑ってるの?」

「そうじゃないと、信じたいね」

「あー、そういうこと言う? ほんと、あんたは相変わらずね。上っ面が優しいくせに、相手の心の機微がなんもわかってない」


 ふて腐れたようにネヒンは顔を背けると、両手を開いて指を大きく広げる。手の甲をこちらに見せるように腕を上げ、指の一本一本が尺取り虫のように動かすと、周りの赤光が集積してそれぞれの指先に着地する。赤光が糸のように真っ直ぐ伸び始めると、私とローランの前に長方形の編み出した。

 長方形から浮かび上がる文字を見つめる。何かの契約書のようで、右下には二人のサインが書かれてた。


「なんですか、これ?」

「ラガルトラホと帝国の間に結ばれた、不可侵条約の要項。ここは帝国の立ち入りを禁止する条件として、技術をある程度提供してるのよ。技術力だけなら、たしかにラガルトラホは帝国と戦うだけの余裕はあるけど、まず地形が不利だしまともに外敵と戦ったことのない連中だから、ちょっと脅かしたらこんなもんよ」


 球体がこちらをのぞき込みながら、ネヒンはあっけなく話す。魔王もこうすれば、ラガルトラホの協力を少しは受けられただろうに、と見せつけられているようで、お腹の底に暗いものが溜まっていくのを感じる。


「じゃあ、元々は帝国が持ち出した技術が、王の葉に流れていったってことかい?」

「爆弾一個作るのだってタダじゃないんだよ? ハヌクリアはその点、作り方さえわかれば材料を揃えるのは簡単だし、テロリスタにはおあつらえ向きだけど、それにしたって専用の工房は必要でしょ?

 最初から、王の葉には貴族の後ろ盾があったんだよ」


 すらすらと、事件の全容を語る彼女に、どこか全能的であると思えるのは、私の偏見だろうか。いや、違う。世界が視点で成り立っているというローランの理論を前提とするなら、今のネヒンは世界を見下す観測者の視点で物事を類推している。


「で? 聞きたいんだけど、あんたたちまだこの問題に首突っ込む気なの?」


 ふと、ネヒンは腕を振って、目の前の赤光を霧散させて、尋ねた。2つの球体が、車椅子のドリドの前に横並びに整列して、真っ直ぐ見つめていた。


「当たり前じゃないか。ロードレクの遺志を、こんな形で悪用しているのを、見過ごすわけにはいかない」


 お膳立てされたような回答をローランは言い放つと、ネヒンは頭を落としてわざとらしく大きく溜息をついた。


「無駄だよ。まだわかんないの?

 アル。あたし、あんたには言ったよね? 王の葉なんてものは、考えの違いから生まれた必然だって。

 もし、あんたたちが今、首都で暴れてる事件の首謀者を潰して回ったとしても、同じような思想の連中はうじゃうじゃ湧いてくるよ? 王の葉だけじゃない。差別主義の貴族や教団……それらと、あんたたち、死ぬまで戦う気?

 それともあんたたち、魔王の代わりにでもなるつもりなの?」


 鐘を突くような言葉が、脳裏を揺らす。

 魔王。魔王になるつもりなんてない。でも、その理由を忘れてしまっていた。左胸にしまった藍の円環を、ジャケットごと握りしめる。


「そのうちあんた、魔王になって世界を滅ぼすよ。

 ……そんなことするんなら、あたしだって考えがある」


 人形遣いの腕が、メリハリを付けて振われる。細くしなやかに撓む指先から伸びた細い赤光が、研究所の壁面を透過すると、壁が切り込みを入れて音もなく開かれる。

 そこには、人型の人形の1体が格納されていた。太く大きく設計されたそれは、内部の機構を蠕動させながら、ゆっくりと起き上がる。頭はトカゲを模したように縦長で、ドリドの象徴らしい湾曲した角を持っている。

 鉱石人形。鉱石を主食とするドリドは、死ぬと全身が鉱石化すると言われている。彼らはその遺体を加工し、人形にすることで死者を弔うのだという。

 恐らく戦闘用に改造されたそれはサゼンよりは人形らしく、しかしそのせいで無機質な冷酷さが滲ませながら飛び立ち、重い着地音と共にネヒンの後ろへと傅く。車椅子に座る彼女の2倍はある巨躯が、私とローランを睥睨していた。

 ズシンと、着地の衝撃で研究室が揺れる。

 頭部の側面が、赤く鋭く瞬いた。

 ある種の死霊術が、ローランの私に対峙する。


「どうなの? ローラン、アル」


 無機質な目が、こちらを見やる。内部の機構が収束するような回転音を鳴らすレンズは、私のことしか写さない。この球体は彼女にとっての瞳だが、そこから彼女の意思を垣間見ることはできない。

 それでも私は初めて、目の前のドリドの人間らしい様を、見出した気がした。

 戦争になんて興味はないと言った。ただ外の世界を見てみたかったと。

 しかし、こうして人形を構える彼女は、たしかに世界を守った勇者の一行なのだと思い知らされる。


「……最初に見たのは、北に連なる山々でした。川の緩やかなせせらぎがあって、風に乗って草木のさわやかな匂いを感じて……。

 気付いたんです。魔王の最初の願いが、ようやく理解できたんです」


 円環を握り締めたまま、目の前の球体と……ネヒンの目と、視線を交わらせる。


「私は、この世界の美しい景色を、人の営みを守りたい。

 それが魔王になると言うことなら、私は構いません」


 遺志は正しく伝わらない。その通りだ。長い時間をかけて、解釈されて、誤解されて、きっと一番最初の願いなんてあってもなくてもどうでもよくなる。

 それを悟ってしまった彼女は、分け身を作ってこの世界を静観することを選んだ。


 私のように。


「私は、この世界を、自然を、人の愛を守るために魔王になります」


 腕を上げたネヒンの指が、止まる。


「……なにそれ。お馬鹿らしい」


 ふっ、と吹き出したように、吐息を漏らすと、ネヒンの腕が下ろして、球体をローランのほうへと向けた。


「ねぇローラン。あんた何やったの? 数時間もしないうちに、なんでこの子こんなに立派になったの?」

「……別に、俺は何もしてないよ」


 どこか寂しそうに、やりきれないように、ローランは答える。

 魔王に執心しているはずの彼が、どうしてそんな顔するんだろうか、少しだけ気になった。しかし、頭を振っていつもの調子に戻すと、ローランはネヒンに私とネヒンを交互に見やった。


「さっきの後ろ盾の話だけど、心当たりがある。ただ……彼の消息がわからない」

「誰ですか?」

「フェリーペ工房っていう魔術工房……今はカリグラの家が監督してるんだけど、その前任者が、当時の魔術士と一緒に行方を眩ましてるんだ」


 そう言って、ローランは自分がずっと調べ物のために入り浸っていた工房について語る。そこは以前まで亜人を使った人体実験を行っていたらしいが、ロシュー家の介入によって中止となり、前任者の貴族も失脚している。

 勇者を信奉する、貴族の令嬢と元勇者一行によって没落した貴族と、お抱えの魔術士たち。

 魔術士は長年、教団の弾圧に抵抗していた歴史もある。その魔術士が、勇者や聖騎士に良い感情を持たないのは想像に難くない……目の前のお人好しを除いて。


「消息なんて必要ないでしょう?」そう言って、ネヒンは手のひらのパタパタと振っていた。

「観測しているやつがいるなら、そいつに向かって飛べばいいんだから」

「さすがに、会ったこともないし聞いたこともない人を捉える視点を、探すことはできないよ。名前も消されてるんだから」

「えぇー、融通利かないわねぇ」


 明るい調子で口を尖らせたネヒンは、作業台へと車椅子を歩かせると、その上にあったものをこちらへと投げて寄越す。そんなことを言われても……、と反論しようとするローランに代わって、私がそれを抱えるようにキャッチすると、腕の間に仄かな温度を感じる。

 胸元に視線を下ろすと、そこには浅黒い小さな細腕があった。

 左腕だった。

 思わず、声を上げて放り投げそうになった。


「サゼンのスペア。あっちの子に渡しといて」


 あっけらかんとしながら、ネヒンはニヤリと確信犯の笑みを浮かべた。

 ああ、やっぱり、この女は嫌いだ。大嫌いだ。


「あ、あなたが渡せば良いでしょう! ローランに頼んで、ここを出て行けば良いじゃないですか!!」

「ごめん、それは無理」

「どうしてですか!」

「あたしが出てったらさ、またラガルトラホが混乱に巻き込まれるでしょ?」


 片腕で魔力の赤糸の伸ばして、自身の呼び出した戦闘用人形を歩かせるネヒン。


「ほんとは帝国との不可侵条約だって、結ぶ必要はなかったんだよ。でも、あたしがフレイの旅についていって、帝国がラガルトラホの技術力を知る機会ができた。

 アラド皇帝が、あそこまでがっつくなんて思わなかったよ。……わかっていれば、フレイについていこうとなんてしなかったのに」


 後悔なんて、いくらでもしたことがある。そうサゼンの体で、ネヒンは言っていた。


「結果的には、ここの鎖国を強めた原因にもなって……それなら、最初から出て行かなければよかったなんて、思っちゃうんだよね」

「……でも、あなたはサゼンを作った。この幽閉された状況でも」

「出て行くのはダメだけど、外から遊びに来るのは大丈夫なんだ、ここ。最近は来なくなったけど、男の子がよく遊びに来てたんだよね。それで色々教えてたら、サゼンを運ぶのを手伝ってくれてね。そのお礼に外の抜け道を教えたんだけど……」


 ネヒンは膝をついて格納される人形に顔を向けながら、しかし球体のレンズは窓に向ける。球体の中で、キュルキュルと回転音が鳴っているのが聞こえる。

 彼女があの球体を通してみる世界を、実感することはできない。でもきっと、今は遠くを見ているのだろう。


「さっきはひどいなんて言ったけど、ラガルトラホも、自分の世界を犯されたくないだけなんだよ。

 それを破って、あたしは外へ出た。だから、今の罰には納得してる」

「……どこかで、誰かが、人の業を背負う必要がある」


 今まで黙っていたローランが、ふいに呟くと、ネヒンはそれに合わせて呟いた。


「なら、それをするのが世界を守った俺たちの責任だ。……あんたが、言ったことだよ」


 全てを悟っていたようなドリドは、ここで初めて、少女のような笑顔を向けた。

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