英雄問答


     ◆


 帝国首都ゴルドバの東通りは、様々な商店が建ち並ぶ商業区となっている。

 生誕祭もあと三日と迫った現在、依然教団による入京者の制限はある中でも、観光者にとって一番人気の通りであり人口密度は都市中一位となるのが商業区である。そんな客足を引き込むために、よろい戸を上げた通り沿いの露店の脇には店員たちが声を上げて終始祭り囃子のような活気を起こさせていた。

 そんな東通りの北東、逸れた小さな道に、隠遁されたようにフェリーペ魔術工房はあった。昼間でも影を落とす前面の壁には防護用に書き連なれた魔術式がびっしりと描かれており、教団のそれとはまた違った――この世界の基準で言うなれば、ひどく邪教的な――カルトさをにじみ出している。

 魔術工房とは、帝国議会がアラド皇帝の意向で設置した、魔術士教育機関を兼ねた研究施設である。即位直後の首都の学業的施設は教団の管理下にあり、そこを卒業する者もまた教団信徒となって書記官や司祭の補佐などに着くのが通例であった。当時の魔術士は表社会に居場所はなく、特に教団の教義に反する研究の行った者――代表的なものとして、生命の理を疑うもの。そして神の存在を曝こうとするもの――は激しく糾弾され魔術士の界隈からもトカゲの尻尾切りのように追放されることもままあった。そんな圧力の中で魔術士は独自のコミュニティによって情報交換をし、お互いの研究分野をについて議論することで理解を深め合っていた。しかし現帝王が教団の反対を押し切って魔術士を重用するようになると、帝国内の魔術士の立場は急進し、この十年間で工房に属する魔術士はゴルドバに於いて軍属と同じ二等級民としての権限を獲得するに至っている。

 工房入り口の教室を左へ抜け、通路を進んでいくと工房の資料室へと辿り着く。そこにはフェリーペ工房が立ち上げてから今までの魔術研究の記録がグリモアのように本状で封印された書棚が部屋ごとに並んでいた。

 その一室……ローランは机にいくつかの資料を広げ、向かい合っていた。


「……観測者・グレッグ。時刻・四つ鐘半。発光パターン・緑。同時刻、観測者・イーガン。発光パターン・紫。同時刻同位置による発光の類似性は確認できず……」


 隈を作った目元から規則的に流れる視線が資料を撫で、それを出力したように平坦なトーンで言葉が発せられている。インクが指からにじみ出しているような黒いシミを付けた右手にはペンが握られており、これもまた紡いだ言葉を機械的にメモしていた。彼の座る椅子の下には、彼がこの三日間で書き連ねた計算やメモが、静謐な海を作り出していた。

 無心というにはあまりに偏執的で、執心というにはあまりにも虚無的な光景だった。


「ローラン、いいか」


 扉からノックの音が鳴ると、資料を写し取る機械がその腕を止めた。

 振り返ると、そこにはカリグラの姿があった。通りかかった研究員の魔術士は、その姿にぎょっとなりながらも挨拶をして急ぎ足で通り過ぎていくのが見える。


「ああ、カリグラ。どうしたんだい?」


 掠れた小さな声は、彼が最近までほとんどの会話を拒否していた証左であった。その様子に、カリグラは諦観じみた表情で頭を振ると、ズンズンとメモ書きの海原を進んでいった。


「三日前に紹介してから、ずっとここにいると聞いてな。様子を見に来た」

「そうなんだ。心配かけたならごめんよ」力なく苦笑して、ローランは続ける。

「ここの工房はすごいよ。帝国やロシュー家が資金援助をしているってのもあるんだろうけど、技術の進歩が二十年前と比べものにならない。そうそう、昨日魔動機関のモデルを見せて貰ったんだけどさ、御者の前方部分をまるごと制御系に置き換えていたのは大胆で面白かったなぁ、もし実用化したら君の屋敷にも……」

「屋敷に、戻っていないそうだな」


 空元気に話すローランの言葉を、カリグラは遮った。


「アルも、この三日間部屋から出てきていない」

「そっか……」

「それだけか?」カリグラの声音が鋭く尖る。

「お前たちに、何かがあったのは知っている。……心配ではないのか? こんな所で、馬鹿なことを考えている場合ではないだろう」


 そう言ってカリグラはローランの肩に手を置いて、机に散らかった資料に目をやる。

 そこには、今アルが手にしている藍の円環に関する実験研究の記録が、記載されていた。


「魔術はわからないって、言ってなかったかい?」

「あの夜の騒ぎが、噂になっていないとでも思ったか」

「そういうことか」


 合点が言ったように、ローランは溜息を吐くと疲れ目でカリグラを見据えた。


「……初めてなんだ」

「何がだ」

「『返して』なんて言われたの。それくらい、アルは信じていたんだ。ロードレクの犠牲があったからこそ、この世界は平和で少しでも綺麗になっているって」

「…………」

「それを裏切られた……俺なんかの嘘を信じたばっかりに。取り返しもつかないことを、俺は二回もやらかしたんだ」ローランは左手でカリグラの手をどけると、その右腕を再び機械的に動かした。

「これが、俺がしてやれる最後の罪滅ぼしなんだよ、カリグラ」


 小さく掠れたその声は、しかしはっきりと彼の決意を明確に表していた。


「ネヒンの言ったことは、たしかに一理ある」目を伏せ、カリグラはどかされた手を見つめる。

「貴族の中には、亜人を実験材料としか思わずに魔術の研究を進めようと、援助している工房に働きかけた者もいる」

「知っているよ。ここも例外じゃないんだろう?」


 淡々とそう返したローランに、表情の薄いカリグラの眉が持ち上がる。


「何故」

「極秘の資料を魔術で封印するのは理にかなっているけど、俺ならウィスプの透析でどうとでもなる。工房の権利がロシュー伯に譲渡されたのを契機に完全に廃止されてるし、当時の魔術士も全員解雇されてるみたいだから、今はそうじゃないんだろうけど」

「よそ者のお前が、こうも工房に入り浸っていられるのは……」

「なりふり構ってられなくてね。ああ、大丈夫。公表する気なんて微塵もないよ。君にも迷惑掛けたくないからね」


 ローランの頬に穏やかな笑みが浮かぶと、カリグラは二の句を繋げられずに押し黙る。

 そんな彼に目もくれないまま、字面を追いかけているローランは、ふいに尋ねた。


「二十年前の君だったら、この工房も、これを指揮していた貴族も、問答無用で全員切って捨てただろうに」

「そうだな」

「聞いてなかったね。なんで君みたいな義剣士が、貴族のロシュー家なんかに嫁いだんだい?」


 カリグラはしばらく目を伏せ……、行き場を失った右手で白髪を撫でつけると少し長いぞと前置きをして語り出した。


「お前の言うとおりだ。俺は二十年前の戦争の後、教団の人間だったフレイ・アリア・プルトと別れて、以前と同じように義憤のまま剣を振っていた。当時は戦争に勝利した優越感で、皇帝に隠れながら亜人を奴隷同然に扱おうとする貴族が後を絶たなかったからだ。

 魔力器官である結晶を無理矢理そぎ落として、奴隷として売り出す者。人体実験の被検体として、家畜のように工房へと送られる者。

 勝者の奢りが、彼らを怪物にした。それが許せずに、俺は彼らを切り捨てた。

 しかし、解放された亜人たちに生きる道を示すことは、当時の俺にはできなかった。……今も出来ているかは疑問だが、あの頃の俺は今よりも無責任だった。

 被検体はまだ良い方で、問題は奴隷となった亜人たちだ。魔力器官を失った彼らは故郷である魔境で生きていくことはできない。領主と子飼の奴隷商を斬り殺したあとで、俺は彼らから非難を受けたこともあった。

 これからどう生きればいい。こんな俺たちに居場所はあるのかと。

 そこには剣では切れない道理があった。なれば俺のしたことは……、ひいては、俺たちが魔王を討伐したことは、過ちではなかったのかと何度も自問した。それでも俺には、こんな生き方しか出来なかった。

 そんなある日だ。俺はいつものように、亜人の使った人体実験を行う工房と繋がっていた領主の一人を切ろうと屋敷に潜入して、待ち伏せを受けた。

 無心のままに切り捨てていた報いだろう。俺の名前は以前よりも貴族間で知れ渡っていた。そんな彼らの罠に、見事嵌まったんだ。

 兵士たちに追い詰められ、ここが天命かと覚悟を決めたとき、俺に道を示したのがユリア……現在の俺の妻であり、当時は辺境伯だったロシュー家の令嬢だった。

 彼女はこの領地で行われている人体実験の疑いを確かめるために領主館を訪問していたらしい。あの時から彼女は、亜人を守るという正義感に溢れていた」


 ここまで言って、カリグラは一息つく。記述していたローランの腕は、既に止まっていた。


「覚えているか」と、カリグラはローランに問いかける。

「ネブラズ―ル浮雨湖へと冒険に行ってしまった伯爵の娘を、助けたことがあっただろう」

「……まさか」

「ああ、彼女だ。ユリアはあれ以降、我々のことを亜人と人間たちの関係を繋げる架け橋のようなものだと、思っていたらしい」


 本棚の一つに背を受けさせ、カリグラはその日を思い出すように天井を仰ぎ見た。


「俺は彼女の手引きで兵士たちから逃れることができ、領主の行いを帝国議会へと告発することで彼らを罰した。それだけじゃない、彼女は被検体となった亜人たちを保護する施設までも用意していた。

 俺はその手際に私は感心した。あの時初めて、己の剣以外での戦い方というのを実感した。

 ユリアのやり方は、帝国内でも敵は多い。魔境資源を財源として急進するロシュー家を疎ましく思う貴族は大勢いる。

 俺は、己がいかに狭量だったかを思い知った。亜人と貴族が、そのように関わるとは考えたこともなかったからだ

 それと同じく、彼女のやり方を見届けたいと思った。ユリア、そしてネーロンが、我々が繋いだ希望だと信じてな」


 語り終えたカリグラは自然と閉じていた目をゆっくりと開いて、ローランを見つめる。


「ユリアは言っていた。人間も、亜人も、みな己が正しくあるために戦っているのだと。そこには善も悪もなく、ならば人の行いには、信念こそが宿るのだと」

「信念?」

「ああ」頷き、腰の柄に手をかけるカリグラ。

「ロードレクも、同じだったのではないか? 彼もまた、彼が正しくあるための信念に基づいて、犠牲となった」


 手元のペンを持て遊び、ローランは無言のままカリグラの言葉に耳を傾けていた。


「そしてローラン。お前の吐いた嘘が、己の信念に基づいたものなら……、その嘘を間違いとするのは、他でもなくお前自身ではないのか」

「俺の、信念……」

「俺には魔術士の道理など到底理解できない。お前が二十年もの間、どういう思いであの娘と寄り添ってきたか、慮ることもできない。だがあの戦いで、魔王の分け身である娘をお前に預けたのは、あそこにいた我々全員の責任なのだ」


 カリグラは本棚から背中を離すと、そのままローランから踵を返した。


「アルは、本当にそんな方法でしか救えぬのか? ローラン、お前は本当にそんな方法でしか償えぬのか?……お前は、そんなに馬鹿ではないだろう」


 問いかけを残し、カリグラは部屋を出ていった。それは祈りのようであった。

 しばらくペン先を見つめたまま、ローランは固まっていた。

 やがてそれに飽きたように鼻先から溜め込んだ息を吐き出すと。


「まいったなぁ」と自嘲気味に呟いて、机にペンを置いた。

「なら、誰か教えてくれよ。いったい、俺はどうしたらいいんだよ……」


 額を覆い、肘を突いて出た嘆きを、誰も聞く者はいなかった。


     ◆


 アルはロシュー邸の一室で、寝間着姿のままベッドの上で膝を抱えて、目の前の人形を睨み付けていた。

 簡素なブラウスにとスカートに包まれた、まさしく人形じみた細い体躯に赤褐色の髪に頭を守るように伸びた小さな結晶角。痣だらけだった体は整備されたかのように、白のブラウスから伸びる右手からはドリド特有のくすんだ浅黒い肌を晒している。しかし左腕だけは肘の付け根からブラウスの裾が結ばれており、本来あるべき質量を置き去りして気まぐれに揺れていた。


「ねぇ、そんなに睨まれても困るんらけろ」


 まだ舌足らずな部分はあるものの、三日前より格段に快復した滑舌を披露しているのは、アルの目の前で椅子の背を前に膝立ちで座るサゼンであった。

 アルは口だけへの字に曲げたサゼンを、しかし睨み付けることをやめないまま、感情を感じられない声音で話しかけた。


「いろいろ治ったみたいですね」

「そうね、まだちょっと話しにくいけろ……。あんたこそ最近、碌にごはん食べてないらしいけろ、元気そうじゃない」


 ベッドに無造作に垂れ下がった銀の髪は、窓の隙間から零れた日光を受けて相も変わらず煌めいていた。膝の間からサゼンを観察するアルの表情は、膠着したように沈んだ表情を見せているものの、やつれているような印象を感じられない。

 まるで時が止まったようにそこから動こうとしない彼女は、悪魔じみた彫像を想像させるようであった。

 ならば声音におおよそ精気を感じられないのも、必然であった。


「用がないなら出て行ってください。誰とも話したい気分ではないんです」

「前言撤回。こりゃ重傷じゃない」


 他人事のように分析するサゼンにアルの右眉が少しだけ上がった。


「あなたには関係ありません」

「そう言えたらあたしも楽なんらけらね」やれやれと肩を竦めて、サゼンは首を横へ振る。

「あんたを外に連れ出してローランに会わせないと、ここを追いらしてやるってカリグラが言うもんらからさ」


 ローランの名前を聞いたアルの瞳が深く暗く沈んでいく。


「あの後喧嘩したんらって? まぁあのお馬鹿のことらから、あんたにされるがままらったんれしょうけろ……あんたも三日経って、少しは頭冷えたんじゃないの?」

「あんな嘘つきのことなんて、知りません」

「あー、ラメらねこれ」サゼンは背もたれの角に肘を立てて、器用に頬杖を突く。

「これも前言撤回。きっと喧嘩にすらなってない。たらわがままなお嬢様の癇癪に付き合わされたらけね」

「――っ!」


 アルは手元にあった枕を衝動的に掴み、サゼンに向かって投げつける。「うわ!」と声を上げながらサゼンは背もたれを盾にすると、空気の抜ける呆けた音を立てて、椅子の下に枕が落ちた。


「ええそうです! 喧嘩なんてしてません! わかったら放っといてください! あなたなんて顔も見たくないんです!」

「あたしらって、お姫様のご機嫌取りなんてまっぴらごめんよ!」

「だったら――!」

「ローランは! あのお馬鹿な甘ちゃんは! あんたのことを守りたくてあんな嘘を吐いたってわっかんないの!」


 二個目の枕を振りかぶったアルの腕が、ピタリと止まる。


「いや、嘘らったって自覚もないかもしんない。あいつらってあんたと同じで、魔王が死んだ二十年間を知らずに生きてたんらから」サゼンは盾にした椅子に、憤慨しながら飛び乗る。

「それれもあいつは、あんたを傷つけるために嘘を吐くようなやつじゃない。あんた、今まれずっと一緒に暮らしてて、そんなこともわかんないの?」


 呆れたような声音で、サゼンは言う。行き場をなくしたアルの右腕が、重力に負けて力なく下ろされる。

 アルは顔を伏せて、枕を両腕で抱えながら、小さな肩を微かに震わせた。


「だって……」

「なによ?」

「あの人、何も喋らないんです。魔術の理論とか仕組みとか、死霊術の考察とか……。そんな事ばっかりベラベラ話すくせに、自分の事なんて何も話さないんですもの……」



 ポツポツ呟くようなアルの告白に、あー、と得心したように声を上げて、サゼンは首に手を回した。


「いや、それれもさぁ……、二十年も一緒にいてそんなこと……あるんら? 本当に? 信じらんないけろ、まぁ……たしかに、あいつならありえそう……」


 呆れ半分に指摘したサゼンの口は、枕に沈み込もうとするアルの頭を見て消沈していく。それから気難しそうに唸った後、しょうがないなぁと小さく悪態をついて、アルに向き直った。


「あいつはさ、ずっと一人らったんらよね。ラガルトラホの近くにある小さな村の外れに住んれて、ネクロマンテなんて名前らから皆からも気味悪がられてて……。

 死霊術士って、魔術士の中でも結構特殊れさ。親族以外にその理論を継承しちゃいけない、口外なんてもっての外らっていう頑固な一門れ……、ローランにとって両親は魔術の師匠れもあるんらけど、結局心労が祟って死んじゃってさ。

 そんなわけれ人並みの家庭らしい親子関係なんて、あいつには知るよしもなかったから、人付き合いなんてものもよくわかってないし、『レリカシー』もあるのかないのかわかんないやつなのは……さすがにわかるよね。

 でも、らからこそ……、あいつには孤独がどういうものかもよく理解してるし、それがどれらけ辛いことかも知ってる。

 らから、あいつはあんたを守ろうとしたんらと、あたしは思う」


 ここまでサゼンが語る間、アルは無言のまま目を……琥珀の瞳を隠すにように、伏せていた。


「あいつがいなかったら、あの日あんたは生まれてすぐに死んれたかもしれない。何も知ることのないままね」

「後悔してるんですか」

「ええしてるわよ。れもね、それなら今まれの人生後悔しないことなんていくられもある」


 そう言いながら、サゼンは上目になって指を一本ずつ立て始める。


「こんなめんろくさいことになるなら、あんたたちに協力しなきゃよかったとか、アリシアのところに居候してなきゃよかったとか、そもそも王の葉に入らなきゃよかったとか……」

「……どうして、王の葉に。成り行きって、言ってましたけど」

「このからら」サゼンは開ききった右手をそのまま自分の胸に当てる。

「何ヶ月に一回は、いちろラガルトラホにもろって整備しなきゃいけないの。れも首都から亜人がれるのももろるのって結構大変れさぁ」

「がれる? もろ……?」

「れ……『出て』……もろ、『戻る』」

「ああ……」落ち込んだ雰囲気のまま、アルが頷いたのを確認して、サゼンは続ける。

「そういうことらから、王の葉の連絡員になって抜け道を教えて貰ったの」

「王の葉の思想には、興味ないと?」

「ないね」


 きっぱりと、サゼンはアルにそう言った。


「たしかに、英雄一人の死られじゃ世界は良い方向には変わらなかった。一部の貴族は腐ってるし、亜人たちらって人間に恨み嫉みを抱えて暮らしている。

 でも魔王の遺した思想は一人歩きして、勝手に解釈されて……。いずれ本人にも、予期しなかった変化を生むことかもしれないれろ、それは今じゃないし、それがまた悪い方向に進むことらってある」


 背もたれの角を撫でながら話すサゼンを、アルは左手を強く握り込みながら見やる。

 その手の中には、藍の円環が収まっている。


「勘違いしないれほしいんらけろ、別にあたしは魔王も、あんたのことも嫌いじゃないよ。けろ、魔王の遺したものを、られもが正しく理解して、納得して……それれ世界が平和になるんらとしたら、魔王がこの世界を支配しているのと、なんも変わらないんじゃないの?」


 いや、とサゼンは訂正した。


「魔王が、エル教の神様に置き換わるらけらと思うな。それが、ろんなに優しくてもさ」

「平和なら、それでいいのでは」

「そこに人の意思はないよ。……もしかしたら、そんな意思の調和が、究極の平和なのかも知れないけろ」皮肉げに、サゼンは頬を持ち上げる。

「結局、水と油みたいな交わらない考えがあるなら、争い合うしかない。魔王の死も、王の葉らって、その過程れしかないんらよ」


 どこか達観したようなサゼンに台詞を、飲み込めていないようにアルは眉を寄せた。


「あなただって、人間を守るために戦争に参加していたんでしょう? どうしてそんなこと……」

「あたし、最初から戦争なんて興味ないもん。ただ外に出てみたかったらけ。まぁ、そのせいれ今は外に出られないんらけろね」


 あっけらかんと言うサゼン。

 一度は口を開けて目を見開いたアルは、しかしどこか共感したように折りたたんだ足を崩す。

 だが、それでも奥歯を噛みながら、アルはサゼンから顔を逸らした。


「あなたにとって今この世界は、美しいですか?」

「いんや、全然。醜いところららけだけど、美しいものらってある。全部が綺麗になるなんて、それこそ夢の世界れしかない。前提が間違ってるのよ、あんたの考えは」

「だからあなたは、この世界の現状を受け入れろと言うんですね」

「らから、あんたたちは森に籠もってたほうが良いって言ってんの」


 椅子の上で大きく背中を伸ばした後、サゼンはぴょんと跳ねるように飛び降り、アルから背を向けた。

 チラリと、アルをのぞき見した後、釈然としないようにサゼンは小さく愚痴をこぼした。


「まったく、なんれこんな世間知らずのわがままお嬢様を頭領にしようなんてしたのかね、ジルバは」


 ジルバ。

 今は遠く離れた育ての故郷を治める里長の名に、アルの目が再び見開かれた。


「なんで、あなたがジルバを知ってるんですか?」


 アルの問いかけに、サゼンは無表情のままわずかに目を丸くする。

 そして、すぐさま何かを察したように、バツの悪そうに口元を押さえる。

 その日の夜、アルは屋敷から出て、街へと赴いていた。

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