再会Ⅴ


     ◆


 それは一瞬にも満たない間の出来事だった。

 水圧式孥砲を構える痩身の幻影から、浮水を排出して今まさに暴力性の権化である杭を打ち出そうとしたその数瞬前、プルトを貫かんと狙いを定めたローランの視界の端に、黒い影が横切った。

 黒い影は鞘に収めたままの長剣の柄に手を掛け低い姿勢で幻影に向かって飛び込むと、ローランの目が見開かれ、その手元がわずかに揺れ動く。

 瞬間、傍らの浮水を再生した幻影が破裂音を上げて搬入路内に轟く。音を超える速度で発射される杭に向かって、影は音もなく抜刀しその白刃を煌めかせた。

 重苦しい発射音に紛れ、金属の擦れ合う鋭い高音が鳴ると、杭の軌道は二股に軌道を逸らし、本来の威力の十分の一にも満たないまま岩壁に着弾して二つの穿孔を生み出した。

 ローランは結晶杖を構えた右腕を力なく垂らして、影の正体を凝視する。

 影は詰め襟の軍服の裾をはためかせながら、乱れた白髪を後ろへと撫でつけると、抜き放った長剣を一度振り払って納刀する。


「……カリグラ?」


 乾いた声で、ローランは親友の名前を呼ぶと、カリグラは感情の乏しい鉄面皮に眉間の皺を残した顔を彼へと向ける。予期しない人間の登場に混乱を隠せないローランは、カリグラの問いかけるような視線から逃げようと辺りを右往左往して……、その先にアルを見つけると、その表情は固まった。

 アルは今にも泣き出しそうに目を潤ませて、ローランをじっと見つめ、早足で駆け寄りその顔を思い切り平手で殴った。


「ローランッ! あなたという、人は……!」


 肩で息をしながら白熱した瞳で睨み付けるアルに、困惑したままのローランは打たれた頬を押さえると、ようやく自分のやろうとした愚行に気付き視線を落とした。


「……ごめん。頭に、血が昇って……」

「らしくないことをしたな。いや……」カリグラは頭を振ると、いつもの鉄面皮へと戻っていった。

「お前も、やはり変わったということか、ローラン」

「カリグラは、どうしてここに?」

「ジェリドから報告を受けた。一等級民以外は通すなと言われたそうだから、連行した女の証言を頼りに俺が来た」


 なるほどと得心したローランは、すぐさまハッとなって「そうだ、プルトは……?」とカリグラより先の光景を見やる。

 プルトは、アルたちから少し離れた場所でうつ伏せでひれ伏し、その頬を地面に擦りつけていた。その顔は混乱と驚愕によって固まっており、プルト本人にも何が起こっているのかわからないようであった。

 そんな彼をアルは注視すると、周りには細く張り巡らされた糸が散りばめられていた。仄かに赤く煌めくそれは、足下の魔素灯の光を受けて妖しく輝いている。さらに見てみると赤い糸はプルトの背中の上に絨毯を敷いているのかと見間違うほどの量が張られており、彼を地面に貼り付けている正体がそれであることを悟った。


「どういう……ことだ……!」


 体を揺すってもがきながら、プルトは頭上で自身を見下ろすその少女を射殺さんばかりに見つめている。

 赤い糸の傍らで、サゼンは無表情のまま左肩を押さえてプルトを見下していた。


「サゼン、なんで……?」


 声を漏らすローランに反応して、サゼンがアルたちのほうを向くと、三人はさらに目を剥いた。

 彼女が押さえていた左肩より先は、ほつれた糸のように解けており、本来あるべき肘や手は完全に消失していた。肩の端にピンとに伸びた赤い線は地面を這って、プルトの背中へと続いていた。


「あーあ」と、表情を崩さないまま、サゼンは呑気な声を上げた。

「カリギュラ。あんたがくるにゃら、あたしが『ひだりうで』つかうひつようにゃかったじゃにゃい。いちどといたら、もうもどらにゃいのに……」


 赤い糸を切り離し、無くなった左腕を突きつけ、緊張感の欠けた舌足らずな口調で、サゼンは半目になってカリグラを非難する。

 カリグラはむ……? と唸りながら首を傾げた。


「すまないが、お前は誰だ。お前ほどの年の知り合いに、心当たりはない」

「は? わからにゃい? これみても?」


 右手で指さした先には、赤い糸で張り付けられたプルトが、依然サゼンを睨み付けている。そのままプルトは痺れを切らして吠えた。


「魔力の赤糸……! どうしてお前がここに居る……ネヒンッ!!」


 怒号のままに飛び出したその名前に、ローランとカリグラは唖然となりながらネヒンと呼ばれたサゼンに注目した。

 ラガルトラホ獄界。通称・魔光洞。中央山系の奥にある垂直洞窟を住処とするドリドは、その風土の特徴から外界への関心が薄く、またウォルフたちよりも内向的な存在である。『教圧解放戦争』の折り、彼らは魔王軍から援軍の要請があったものの全て拒否し、外で起こる争いごとを断絶していた。

 しかし、そんなドリドの中でも外界へと興味を持つ異端な者が存在した。彼女はドリド特有の魔術触媒の技術を用いて作られる鉱石人形を――本来、死者を供養するために作られるそれを――戦闘用に改造し、偶然訪れた勇者一行に半ば強引についていったと記録されている。

 ネヒン。勇者一行の中で唯一の亜人であり、魔力糸を操る人形遣いである。

 

「は、はぁああ? い、いやあり得ないでしょう!」思わず素っ頓狂な声を上げて、ローランはプルトの言葉を否定する。

「だって、ぜんぜん姿形も違うじゃないか! アルじゃあるまいし、体をそこまで変身させることなんて……!」

「へんしんじゃにゃい。これは、あたしの『しゅぺあ』」

「しゅぺあ、だと……?」

「しゅ、しゅぺ……す! 『ス』『ペ』『ア』! あたしがにじゅうにぇんかけてつくった、『むせんにんぎょう』にゃの!」


 滑舌の悪い口にムキになりながら、サゼンは残った右手を胸に当てる。「むせんにんぎょう?」とオウム返しをするローランに「そう」と頷くと、プルトを置き去りにしたまま三人に近づいてきた。


「まりょくをしぇんようのつうしんきでこうしかしゃせて、らがるとりゃほからあやちゅってるの。ていこきゅがしいてるつーしんもうをちゅうけいしゅることれ、しょうしゃとにんぎょうとのあいだにしょうじるきょどうのごしゃを――」

「ま、待って。原理は興味深いけど、ちょっと待って」


 舌足らずのまま得意げに解説しようとするサゼンを手で制して止めると、神妙な面持ちでローランは尋ねた。


「君は、本当にあのネヒンなんだね? フレイたちと、一緒に旅した」

「しょうね。ひしゃしぶり、にぇくろまんて……よくもあたしのまえで、おしょまつないとしゃばきをみせちゅけてくれたわね」

「それじゃあ……」と、ローランはちらりとアルを見る。

「どうして、君が王の葉にいる? 君だってロードレクの約束を忘れたわけじゃないだろう!」


 ローランはここまで言うと、一度大きく息を吐いて呼吸を整える。

 サゼンは平静さを保とうとするローランから視線を外すと、首に手を回しながら答えた。


「……なりゆき。っていっても、なっとくしにゃいよね」

「当たり前じゃないか!」


 ローランは再び声を荒げる。対して、サゼンの口調は淡々としたものだった。


「やくしょく……『あじんとにんげんのきょうぞん』でしょ?」

「そうだ。あの場で君だってそれを支持していたじゃないか。それをどうして……?」

「ローラン、アル。いまのあたしをみて……これがげんじつなんだよ」


 そう言って、サゼンは体を大きく広げる。

 アルとローランは真っ直ぐとサゼンを……左腕を失い、体中に痣を作り、顔を腫らして、髪も乱れたまま……それでも無表情の人形の姿を見つめた。


「そりゃあ、あたしのこのかららはにんぎょうだけろ……こんなころになってるのは、あたしだけじゃないよ。あたしなんかより、じゅっといわれのにゃいちゅみで、あたしよりもじゅっといためちゅけられるこどももいりゅ」


 舌足らずで、幼稚な印象を残すしゃべり方で……それでも真剣に話すサゼンに、アルは釘付けになったまま視線を外すことはできなかった。


「きぞくのにゃかにだって、しんじりゃれにゃいげどうもいりゅ」そう言ってカリグラに目をやると、カリグラは無言のまま目を伏せる。

「しょれが、えいゆうのことばひとつでかわるにゃんて……おはにゃしのにゃかだけだよ」大きく息を吸って、サゼンは繰り返す。

「しょう、しょんなゆめものがたりだったんだよ。あんたのいっれたことは」

「それなら……。いや、でも……」震える声で、躊躇うように何度も繰り返しながら……アルはサゼンに、恐る恐る問いかける。

「父の死に、意味はあったんでしょう? 魔王ロードレクが、犠牲になったからこそ……今の世界が、あるんでしょう? それなら……」


 瞳を潤ませ、揺らしたアルの問いかけは、どこか縋り付くような孤独感に溢れていた

 サゼンは、そんなアルと……呆れたようにローランを見やり、言葉を整理するように瞼を下ろす……。


「あたしにも、わかんにゃい。でも……」


 舌足らずで、幼稚で……ともすれば、無邪気にも聞こえるサゼンの言葉が、アルの胸を突いた。


「えいゆうのしだけで、しぇかいはかわらなかった。しょれが、いまここにあるげんじつだよ」


 静かに、ただ静かに、事実を話すサゼンの言葉だけが搬入路へと儚く響いた。


「……うそ」


 アルは、胸を……そこにある藍の円環を握りしめる。そこから血がにじみ出したように、次第にアルの呼吸が規則性を失う。

 乱れる吐息に連動するように、瞳の色相は赤・青・緑・黄……と、激しく明滅し始めた。


「アル……? アル!」


 緊迫したローランの声は届かず、アルはその場でうずくまるように膝を突く。呼吸の乱れは周囲の魔力にも影響を及ぼし、彼女の周りの岩が蜃気楼のように揺らめいた。


「あ、ああ。あ……」

「落ち着け! 落ち着くんだ、アル! アルッ……!」

「うそ、うそです、そんなこと……だって、ローラン、だって……」


 声にならない掠れた息を吐き、言葉にならないうわごとで喉を震わせるアルを背中から抱きかかえるローラン。間近なその声も空しく、蜃気楼の揺らめきは大きくなり続ける。

 しかし、ローランにひとたび目を合わせると、その顔が苦痛に歪んだ。


「あ……」


 そう小さく息を漏らして、アルはプツリと糸が切れたように意識を失って倒れた。

 その様子を、サゼンは無表情のまま……しかしどこかに哀れみを感じさせるように見つめていた。


「べちゅに、プルトのおばかのかたをもちゅつもりはにゃい。けれどアル、ローラン……あんらたちふたりに、もうできりゅことはないよ」

「ネヒン……! 君は――!」

「アルのためにいってるんだよ、ローラン。……かのじょがおうには、おもしゅぎるしぇきにんなんだよ」


 サゼンはカリグラの軍服の裾を摘まんで地面に転がるプルトを一瞥すると、そのまま来た道へと踵を返した。


「……うしょつきだね」


 それだけ言い残して去って行ったネヒンを、ローランはただその胸にアルを抱えたまま、見送ることしかできなかった。


     ◆


 ロシュー邸の宿泊部屋で、アルは目を覚ました。

 状況が理解できずに、しばらくぼやけた緑色を瞳が天井を写していいると、途端に目を見開いて飛び起きる。

 すぐ隣では椅子に腰掛けたローランが前のめりにアルの顔を覗いていた。


「……気分はどう、アル?」


 ローランの声音は、夜の真っ暗な部屋の闇に溶けてしまうような、儚いものであった。


「私……どうして」


 寝間着姿の自分の体を見回しながら、問いかけともつかないような言葉をアルは投げかける。ローランは、いつものように愛想笑いをしようとはははと力なく笑みを零した。


「自分が倒れたこと、覚えてないかい? それなら、いいんだけど」


 怪訝そうに眉を顰めるも、アルはすぐに思い至って胸を押さえる。


「私、そうか……サゼン、いやネヒンの話を聞いて……」


 じわりと、アルの瞳が揺れる。しかし、それを振り切るように頭を振って誤魔化した。


「……他の人たちは?」

「ネヒンは、一旦ここで匿うことになった。プルトはあの搬入路に置いてきちゃったけど……後から聞いた話だと、あの状況で俺たちを逮捕する権限はなかったらしい。ジェリドも、彼が連れて行ったシーマも、ひとまず処分は保留することになったって」

「そうですか……」

「ごめん、アル」

「どうして、あなたが謝るんですか」

「俺の迂闊な行動のせいで、君を傷つけた。もっと慎重になっていれば、ネヒンを連れ出すこともなかったし、プルトと鉢合わせることもなかった」

「……やめてください」

「それに、搬入路のことだって、一歩間違えればあの場にいた全員を巻き添えに――」

「やめて。いちいち自分を卑下にして……そういう態度、イライラするんですよ、いつも」

「……ごめん」


 アルは窓の外を見やる。ロシュー邸の庭には、ランタンを持ちながら見回りをする使用人たちが、鬼火のように揺蕩っているのを観察できた。


「ローラン。あなた言ってましたね。亜人と人間の共存のために命を犠牲にしたロードレクは英雄だ、英雄の死が『なんでもなかった』なんてことはないって」


 ランタンの火を写した瞳は、しかし瞳の暗闇は、全てを飲み込んでいた。


「でも、本当は違うんですね」何も言わないローランに、アルは続ける。

「誰も、魔王の死なんて気にしていない。勇者の言葉だから、従っているだけで……その勇者だって、今は引きこもりだそうじゃないですか」

「ごめん……」

「謝らないでください」詫び言を繰り返すローランに、瞳を向けるアル。

「教えてください、いつもみたいに、教師面して」


 ローランを見つめるアルの瞳には、悲痛な面持ちでアルから視線を逸らすローランの姿があった。

 押し黙ったまま何も語らないローランに、アルはベッドから起き上がって詰め寄ろうとする。弱々しく近寄るアルに怯えるようにローランは椅子から立ち上がってベッドの後ろ側へと逸れる。それを追いかけると、ローランはベッドに縁に足を取られ、ローランは後ろからベッドに飛び込んだ。

 そのままローランにまたがって、アルは彼を見下ろす。

 ローランの瞳には、無理矢理笑顔を作ろうと、必死に頬を持ち上げ……しかしクシャリと歪んだ表情が浮かんでいた。


「ローラン。ローラン・エル・ネクロマンテ」


 細く、小さく、白い指が、ローブ越しの胸板を撫でる。


「教えて、ください。どうして……どうして、父は、死ななきゃいけなかったんですか……?」


 震える声で、震える指先で、アルは問いかける。


「セターニルで言いましたよね。父の遺志を解さない人間がいたとしても、父が望んだ些細な奇跡がこの世界にはあると。……もし、そんな奇跡と同じくらい、この世界に呪いを振りまいているんだとしたら……」


 指先が包まり、拳を作り出すと、アルは沈黙しているその胸板を、小さく叩いた。


「父の死は……本当に、必要なことだったんですか? 願いを呪いに変えて、ただいたずらに、人を狂わせているだけではないんですか?」


 トン、トン、トン……、と。木霊のようにささやかな打撃を、ローランは黙って受け入れる。

 

「答えてください、教えてください……。ねぇ、ローラン……」

「ごめん……」


 腕で顔を覆い、ローランは短く、一言、答える。

 震える拳が、ピタリと止まった。


「……嘘つき」暗い部屋に、ポツリと、火が点るような呟きが響く。

「嘘つき、嘘つき!」


 拳を振って、アルは胸元を叩く。一瞬息の詰まるローランを構わず、悲鳴のような罵倒が、彼を責め立てた。


「なんで! どうして! 父は、ただ亜人の自由のために、みんなのために戦っただけなのに! 悪いのは教団じゃないですか! それなのにどうして、父だけがこんな……こんな! ひどい目に遭わなければならないんですか!」


 それは、これまで抑えていた怒りの泥を、吐き出すようだった。


「戦争で人間を殺した亜人なんてたくさんいたじゃないですか! なんでルキウスじゃダメなんですか! どうして! セターニルで会った四人組じゃいけなかったんですか!」

「アル……ダメだよ」

「うるさい! 何も知らなかったくせに! 父のことなんて、何もわかってなかったくせに!」


 力なくアルを諭そうとするローランに、しかしアルには届かず、彼の体の上で、その小さな体をうずくまらせた。


「何が共存ですか! 結局亜人も人間も、自分のことしか考えていないじゃないですか! 父のことなんて体のいい看板にしか思っていないじゃないですか!」

「アル……!」

「こんな者たちのために、どうして父が犠牲にならなければいけなかったんですか! それならいっそ、みんな滅ぼしてしまえば――!」

「アルっ!」


 ローランは声を上げながらアルの肩を掴み体を捻ると、アルの華奢な体は回転し、柔らかいベッドがその背中を受け入れる。一瞬にして二人の位置が入れ替わった。

 しなやかな銀の髪が、枕元から広がる。頬は怒りのままに上気し、息は荒くそれに合わせて胸は忙しなく上下していた。

 シンと静まりかえった部屋に、二人の息づかいだけが際立った。アルは自身に何が起こったのかわからないまま呆然とした後、しかし次の瞬間には痙攣したように、喉をしゃくり上げた。


「返して」


 ふいに呟かれたその言葉にローランの目が、大きく見開かれた。


「え……?」

「必要ないんでしょう? 最初から犠牲なんて。何も変わらないというなら、返してください」


 それは少女が胸の奥底に秘めていた最初の願いであり。


「父を……返して……私に、返してよ……」


 嗚咽から見いだしたそれは、少女の最初の呪いだった。

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