遺志を継ぐⅡ


     ◆


 セターニルの領主館は、多層構造の宿場町を離れてすぐのわずかな平地に、隠れるようにして建てられていた。小さな城壁に囲まれたそこは二階建ての建物で大きな扉が一階のスペースが倉庫代わりとなっている。シッドは脇に設えた階段を登っていき、正面に広がる広場を通って部屋前の門番に話しかけた。


「誰だ?」

「ロドリーゴ商会のシッドっす。こちらの通信装置を使わせて貰いたいんすけど……」


 そう言って交易許可証を見せると、門番は頷いて道を空ける。中へ入ると長椅子が並べられた大きい部屋がシッドを迎えた。壁には板によって等間隔で仕切られた小さなスペースに、四角い箱形の装置が置かれていた。シッドはその前に立ち、懐から便せんを取り出す。それを装置下部の切れ込みに差し込んだあと、今度は穴の空いた金属製のプレートを取り出して上段の切れ込みに差し入れる。しばらく明滅を繰り返すのを待ちながら、シッドは手持ち無沙汰に辺りを見渡す。長椅子には領主への陳情や、シッドのように通信装置を使用した際の報告をするために待機している者たちがシッドと同じ面持ちで座っていた。

 魔境伯と揶揄されるロシュー家が魔境の調査に本腰を入れて早5年。各魔境で採取され、魔術士によって解析された資源たちは、帝国の技術レベルを格段に飛躍させるまでに至っていた。二十年前までは伝書鳩を用いていた遠方への連絡は、パンチプレートに登録された限りではあるものの、専用の装置を用いることで読み込んだ画像を解析し魔力光へと変換させ、あらかじめ敷かれたしたケーブルを通して特定の人物のもとへ投写することを可能にしている。

 しばらくすると、装置はプレートと便せんを吐き出して沈黙する。シッドはそれらを取り出すと、長椅子に座ってその時を待っていた。


「あいつら……ちゃんと羽根伸ばせてっかなぁ……?」


 膝に肘をついて、前屈みになりながら、シッドは暇を持て余す。

 頂点の太陽が、西側へ傾き始めた頃、ようやくシッドは執務室への入室を許可された。

 執務室には、椅子に座った中年の領主と、傍らには書記官が準備をしていた。机越しにシッドは今回の入館の目的を話し……通信の内容は、できうる限り抽象的に話す。領主はシッドの話に真剣な面持ちで耳を傾け、疑問があるならシッドに質問をする。書記官はシッドの報告や領主の質問を逐一記述していた。


「ロシュー伯爵への、報告とな?」


 領主が眉を顰めたのは、シッドがその名前を口にした時だった。


「ええ。……それが、なにか?」

「いいや、それならばわざわざ通信などする必要などないと思ったのでな」

「と、言いますと?」


 シッドは領主の言いように首を傾げる。その様子で何を察した領主は、上半身を机に寄せながら話を切り出した。


「なに、今ロシュー家のご息女がこの町に訪問しておられるのだよ……二日ほど前に、私の所へ挨拶に来ていたよ」


 シッドの頬が、痙攣したように、反射的に持ち上がった。


「ご息女……、と、言いますと……?」


 ああ、と領主は頷く。


「ネーロン・ロシュー伯爵子女……今は善意と興味本位で、亜人絡みのとある事件の調べているそうでな。さすが、魔境伯の第一子らしい」


 そう語る領主の顔は、苦々しいものであった。

 そんな時、無機質なノック音と共に、一人の兵士が入室した


「失礼します。先ほど捕らえた三人組ですが……それについて、客人がお話ししたいと……」


     ◆


 一方その頃、領主館の庭では縄で繋がれた三人の人物を連行しているところであった。


「あなたたちっ!! いったいドリドがどのような種族かわかっていてこのようなことをしているんですか!?」歯を剥いて猫のように威嚇する先頭のアルに。

「駄目だよアル、おとなしくしないと」


 と、後ろからと釘を刺すように宥めようとするローラン。そしてさらに後ろには、沈んだ表情でトボトボと歩く痩躯のドリドがついてきていた。


「静かにしろ!」と、三人を引き連れている二人の衛兵のうちの1人がアルを怒鳴る。思い出したかのように、ヘルメットで覆われた後頭部をさすりながら。

「まったく! やはり亜人に興味を持つような人間には碌な奴がいない! いきなり帝国軍兵士を蹴り飛ばすなどと……!」

「あなたたちだって、事情を知らないドリドを無理矢理引き連れようとしたではありませんか!」

「このガキには!」いきおい良く振り返った衛兵がドリドの少年を指さすと、少年は体を跳ねさせながら、その指の睨み付けた。

「領主暗殺を企てていた疑いがあるのだ! 連行するのは町を守る士官として当然だろう!」

「そんなこと考えるわけない!」


 そう叫んだのは、少年だった。腰部から伸びた尾と、そこから連なる結晶性のヒレが、逆上するように彼の頭上を突いている。


「ほら、こう言ってるではありませんか! どうせあなたたちの早とちりと差別意識が、この子を犯人にしたいと考えているだけで――」

「アル、アール!」


 上目で衛兵たちに噛みつこうとするアルにローランは、見かねたように声を上げる。


「それこそ早とちりと差別意識、なんじゃないのかい? 兵士の人だって、ちゃんと言い分があるんだから……」

「あなたは黙っていてください! っていうか何あっさり捕まってるんですか!? 私に人を傷つけさせたくないと言うなら、あなたがこの状況をなんとかしなさい!」

「わかってるよ。でも、そうするのはちゃんと事情を聞いてからだよ」


 ローランがそう言うと、二人の衛兵ははんっ、と力強く笑って、袋に詰められたグリモアと結晶杖をローランに見せつけた。


「黙って聞いていれば……、まるで我々から逃げることなど些事だと言いたげだな!」

「少なくとも、こんな骨董品を使う魔術士に遅れを取る我々ではないわ! 今時、素子増幅器も使わない二次元記述式魔術など恐るるに足らん!」


 その言葉に、ローランは目も見開いて衛兵を見やる。何かを察したように、アルは青みがかった瞳を瞼で覆い、何も知らないドリドの少年は、キョトンとした顔でそのやりとりを見つめていた。


「増幅器? 二次元、記述……? それは、いったい、なんなんだい……?」


 淡々と問いながら、ローランの頬がゆっくりと持ち上がっていく。一語一語言葉を紡ぐごとに、喉の奥が震えているのが、衛兵たちの耳からも明白であった。


「な、なんだこいつ……?」

「言葉から察するに増幅というのは魔術触媒の一種なのかい? いやたしかに魔素そのものを増幅することができればより情報量の多い魔術だって行使できるけど、言い方を見るに杖の形で携帯できるものらしい……最近の触媒はどこまで小型化に成功しているんだ……? それに二次元記述のほうは見当も付かない……立体物に術式を記述する方法は確かにあるけど、起動が不安定で見送られたはず……まさか、もう安定して……いや携帯性を考えるとグリモアを越えることなんてあり得ないはずなのに……」

「おい、さっきから何ブツブツ言ってんだ!? なんなんだよこいつら……?」


 顔を引きつらせながら、衛兵たちはローランから遠ざかるように足早に、領主館の一画にある牢屋に3人をまとめて閉じ込める。

 その間、ローランは衛兵に詰め寄らんばかりに現代の魔術事情を問い詰めていた。


「事情を、聞くんじゃないんですか?」


 牢屋の冷えた空気を、さらに氷結させんとばかりに、底冷えした非難がローランの耳朶を打つ。ローランは「ごめん、ほんとに」と座り込んで頭を抱え始めた。


「あんたたち、いったい何モンなんだ? オレなんかに構ったりして……」


 そんな二人に、地面にあぐらを掻いていたドリドの少年は問う。二人の視線が少年に向けられると、少年は所在なさげに視線を彷徨わせた。


「『オレなんか』と言われても」アルは石壁に背を預け、膝を抱えたまま少年に言う。

「私は、あなたの名前すら知りませんが?」


 あっけらかんとしたその問いに、は? と当惑の声を上げた少年は、尻尾をゆらゆらと振らせながら答えた。


「プランチャ、だけど……」

「私はアル・エル・アル。そちらの馬鹿はローラン・エル・ネクロマンテ」

「はい、馬鹿でございます……」


 格子に頭を押しつけながら、沈んだ声を出すローランにはさして反応を示さず、アルはプランチャを見つめた。


「で、プランチャ……あなたは獄界……魔光洞からこの町に来たドリドで間違いないんですね?」

「うん。つっても、山に登って遊んでたら、迷っちゃっただけなんだけど……」


 照れくさそうに笑うプランチャ。ローランは格子から手を離してプランチャのほうへ向き直る。


「さっき、兵士が話していたことなんだけど……」

「暗殺だろ? オレはそんなことしてないし、考えたこともないよ」

「君を追いかけていたとき、壁の予告状のことを言っていたよね? それに心当たりは?」

「いや……、なんだよ、オレのこと疑ってんのか?」


 プランチャはそう口を尖らせ、ローランを睨み付ける。頭上高く取り付けられた小窓から指した陽光が、彼の黒光りする角に反射して鈍い光沢を放つ。ローランは一旦アルと藍色に染まった目を合わせ、頬を指で掻きながらはにかむ。


「ごめん、ちょっと不躾だったね」


 ローランの謝罪に、フンッと鼻を鳴らしてそっぽを向く。それとは裏腹に、彼の尻尾が左右に忙しなく揺れているのを、ローランは確認した。


「領主館の近くの洞窟で寝泊まりしてんだよ。それで、今日もじーちゃんとこに行こうとしたら、急に衛兵に追いかけられて……」

「じーちゃん……?」


 アルが首を傾げると、プランチャはニヤリと笑ってみせる。


「うん。下層で、鍛冶屋をやってるじーちゃん」そのまま拳を胸の前に置き、瞳を輝かせながら明るい調子で語り始めた。

「オレ、そこで弟子をやってるんだ。ほんとにすげーじーちゃんでさぁ、ここの軍人が使ってる装備の手入れなんかも任されてるんだぜ? さっきの奴らが持ってた長剣とか、門番が持ってる槍なんかさ、みーんなじーちゃんが手を加えると切れ味が良くなるって評判なんだ」

「なるほど、それであなたも鍛治工に?」

「うん! いつかじーちゃんの工房を継いで、町のみんなをアッと驚かせてやるんだ!」


 目の前の拳を強く握りしめながら、そう言って語りの締めとするプランチャに対し、再びアルとローランは視線を交わし合う。しばらくして、ローランはプランチャに聞いた


「ラガルトラホに、帰ろうとは思わなかったのかい?」

「うん。オレ、親ももういないし、本当は外に出て行くドリドのみんなが羨ましかったから……」ローランの問いに、プランチャはまた視線を逸らしながら角をトントンを小気味よく叩く。

「それに、ここも居心地悪くないし。……たまに、顔にベールを着けた人たちには良い顔されないけど」


 アルは露骨に目を細める。ベールの装飾は、エル教団の代名詞であったからだ。

 その時、格子越しで二人を呼ぶ声が鳴った。


「アル、ローラン……。お前ら、何してんだ?」


 そこには、鍛えられた筋肉質な腕を額に当てて、信じられないものを見るような目で獄中を眺めるシッドの姿があった。その隣には三人を連行した衛兵の片割れもいた。


「聞き覚えのある声でぎゃあぎゃあ騒いでるのが聞こえたからよぉ、まさかと思って来たが……」シッドは顔を横に振りながら、重苦しいため息を吐いた。

「いや、こいつぁ俺の責任かもなぁ……、人を見る目は、あると思ってたんだが……」

「何を勝手に失望してるんですか、冤罪ですよ」眉を釣り上げ、アルは反目する。

「いやそれはさすがに無理がないかなぁ?」

「黙ってなさい馬鹿」


 横やりを入れるローランを一蹴して、アルは隣の衛兵を睨み付ける。衛兵は不服そうに口を曲げながら、格子の扉を開いた。


「出ろ。客人がお前たちに会いたいそうだ」


 牢屋の中の三人は、全員目を丸くした。


     ◆


 彼らに……ひいては、ドリドの少年に会いたいという、とある客人からの要望があった。

 その知らせを受けて、アル・ローラン・シッド……そして、プランチャの四人は、領主館の執務室の扉を叩いた。通信機の存在に目を奪われそうになったローランを引きずりながら入室すると、そこには領主と談笑する一人の少女がいた。


「ええ、今年も良いオレンジが入りまして……。ケーキにするのも悪くないのですが、今年は熟成させてワインにしてみようかと思いまして……」

「まぁ、オレンジのワインなんて素敵ですね。上手くいきましたら、お屋敷にも1本頂きたいです」


 中年の領主と対等に話しているその少女は、外出用の簡素なジャケットに合わせるようにシンプルなプリーツスカートを履いた可憐な少女だった。服装にやや少女らしさを残している彼女であるが、しかしその立ち振る舞いは凜々しく大人らしさに醸し出していた。

 最後尾の兵士が扉を閉める音に、あら、と少女は顔を上げる。

 ローランは、少女の短く切りそろえられた栗毛を見やり、怪訝そうに眉を顰めた。


「初めまして、ネーロン・ロシューと申します。以後お見知りおきください、プランチャ、アル、ローラン」


 ネーロンと名乗った少女はシッドを除いた三人に向かって小さく頭を下げた。その丁寧な立ち振る舞いに、ローランは思わず背筋を伸ばして一礼を返し、プランチャは口をポカンと開けて放心し……、アルは帳を下ろすように目を伏せて静かに叩頭した。


「感謝するんだな、お前たち」背もたれにふんぞり返りながら、まさに三者三様の三人を見渡していた領主は、先ほどとは打って変わって固く重い口調で言い放った。

「このお方がドリドの子の無罪を晴らすだけでなく、その子のために兵士に立ち向かったお前たちの行動を称えた上で、協力を申し出ていなければ、未だに牢屋の中だったのだからな」


 その言葉に、アルは半目をネーロンにぶつける。ネーロンは微笑みのままにそれを受け止めた。


「そんなことを、頼んだ覚えはありませんが」

「そうですね。わたくしも、頼まれた覚えはありません。ですが、亜人に対する無遠慮な偏見を正したいという気概は同じであるとは、思っていますよ」


 チラリと、ネーロンは横目でローランを見やる。ローランはその視線にわずかに首を傾けながら、バツの悪そうに顔を背けていた領主に問うた。


「彼……プランチャが、領主への暗殺を企てていると聞きましたが、いったいどういうことなんですか?」


 しばらく黙っていた領主であったが、やがてネーロンを見やり観念したかのように嘆息すると、机に膝を突いて語り始めた。


「三日ほど前だ。この領主館の壁に、奇妙な文字を添えた暗殺の予告が書かれていたのだ」

「奇妙な文字?」

「ああ」と、領主は頷いて続ける。

「予告状の内容自体は、我々が使用しているアンダリュス語ではあったため内容の理解はできたものの、傍に記されていた署名とおぼしき箇所だけアンダリュス語で書かれていたものではなかった。……町の者たちに読ませてみたものの、誰の読み解けるものはおらず、方言の類いですらないというのだ」

「誰かのイタズラだったって線は、ないんすか?」

「そうであるのが一番平和だが、それにしてはあまりにも悪質すぎるだろう。どちらにしても見過ごすわけにはいかない」

「なるほど。それで短絡的にも、亜人の……よくこの町に入り浸っているプランチャの仕業であるという帰結に至ったわけですか」


 アルの嫌みに一度閉口した領主に代わって、ネーロンは懐から折りたたまれた便せんを取り出してアルに手渡した。

 便せんには、帝国の公用語であるアンダリュス文字で記された一文と、その下に奇妙な綴りが記されたものであった。


「『汝、哀別に暮れて寄り添う者どもの長。その命を以て哀悼となす』……ずいぶんと遠回しな表現だけど、確かに暗殺の予告みたいだね」


 アルの肩越しにアンダリュス語で書かれた文面で読み上げるローラン。反対側から便せんを眺めているプランチャは、右に首を傾げながらアルに問う。


「なぁアルねーちゃん、これどういう意味だ?」

「アル、ねー、ちゃん……?」瞳を菫色にしたアルであったが、気を取り直して文面を指でなぞる。

「『哀別に暮れて寄り添う者ども』というのは、セターニルの住民のことでしょう。その長……つまり領主の命を使って、死者への弔いをするということです」

「ふー、ん……?」上に伸びた頭が、今度は左へと傾いた。

「領主様の命が、なんで『トムライ』ってのになるんだ?」

「それは、恨みを晴らすためであったり、領主がいなければ死ななかった命があるとか……、そういうものの落とし前を着けたいがために、犯人は領主の命を要求しているんですよ」

「え? 領主様、何か悪いことしたのか……?」

「しとらんわ! 何故逆恨みとは思わんのだ貴様たちは!?」


 身の乗り上げて、領主が反論する。ローランはへコヘコと頭を下げ、再び便せんに目を向けた。


「それで、これが問題の解読できない文字だね」


 ローランは便せんの隅を指さす。そこには大陸で公用されている文字とは同じ字体ではあるものの、単語の綴りや文章を構成している文法が、現代のアンダリュス語では意味が通らない怪文があった。

 一通り確認するように文章を何度か目で追ったローランは、ため息を吐いて頭を振る。


「ええ、わたくしにも理解できませんでした。プランチャくんの種族の言葉でもないようですね」


 ネーロンはそう言って未だに呆けた顔のプランチャの見やる。


「でも……これ、どこかで見たことがあるような」


 アルは? と意見を求めようとするローラン。アルはしばらくその単語を眺めたあと、


「いいえ、こんな文字は見たことありません」


 そう、ゆっくりと答える。そんなアルを、ネーロンはしばらくじっと見つめたあと、領主に向き直った。


「もしかしたら、本当にイタズラなのかもしれませんわね。ここ最近、身の回りで変わったこともないようですし?」

「ああ、まったく人騒がせな犯人だ」


 髪をかき乱して、領主はため息を吐く。

 ふいにプランチャが、おずおずと声を上げた。


「あの、領主様……ひとまず、オレの疑いは晴れたってことでいいんですか?」


 領主はネーロンと目を合わせる。ネーロンは柔らかく微笑むと、苦虫を噛み潰したように口を曲げ、大きく頷いた。


「少なくとも、貴様がこれを書いた犯人ではないというのはたしかだな」

「それじゃあ、オレもうじーちゃんの所へ行ってもいいですか? じーちゃん時間に厳しいし、また無理してるかもしれないし……」


 もう一度、領主はネーロンと目を合わせる。ネーロンは顎に人差し指を当てて天井をしばらく眺めた後、同じく柔らかく微笑む。


「好きにしろ……」


 やった、とプランチャの尻尾が勢いよく跳ねると、次の瞬間には身を翻して執務室を出て行こうとする。


「そうだ! お礼もしたいし、アルねーちゃんとローランにーちゃん、ネーロンねーちゃんも一緒に来ない?」

「俺たちは構わないけど……ね、アル?」

「えぇ、まぁ……」

「ごめんなさい、わたくしはまだやることが残っているので……」


 そう断ると、そっかーと落胆しながら部屋を出て行く。


「お前たちも下がれ。今回はロシュー伯爵子女の申し立てで不問としたのだ、次はそうはいかないからな」


 ギロリと睨みを利かせた領主を背中に受けながら、アルたちも退室する。

 ネーロンは、ローランの後ろ姿を微笑みながら見つめていた。

 扉を抜けてすぐの所にプランチャはニコニコ笑いながらアル・ローラン・シッドの三人を待っていた。長椅子に座る住人たちの反応は至って忌避的なものはなく、中には笑顔でプランチャに挨拶するものもいた。


「逞しい人たちですね」


 領主館を出た後、アルは小さく呟く。日は西へ傾き始めてはいるものの、未だ夕方とも言いがたい時間帯であった。シッドは一足早く宿屋に戻ることをアルたちに伝えて帰っていった。


「きっと、プランチャの無邪気さがそうさせてるんじゃないかな」


 すでに城壁の傍でこちらに手を振るプランチャに苦笑を漏らしながら、ローランは言う。同じくそれを眺めるアルは、先ほど呟いた言葉とは裏腹に、張り詰め表情をしていた。


「……あの文字、心当たりがあるのかい?」

「……気付いてましたか?」

「まぁ、ね」と、ローランは後頭部に手を当てて、視線を落とす。

「と、いうか……今、思い出した。そりゃあ、どこかで見たことあるわけだ……」


 アルは目を伏せて、領主館の壁を見やる。遠くの壁に、赤い塗料で何かが書き殴られているのを、アルは見つけた。


「あれは弔辞ですよ。ウォルフが、よく用いるものです」

「うん。巡礼の時に、刻んだやつだね」


 ふいに日に雲がかかり、辺りが暗くなる。元々日の差しにくい通りでは、きっと夜のような暗がりが待っているだろう。


「我らは正当なる後継者であり、王の葉に弔慰を刻む者……」


 暗闇に紛れるようにそっと、アルは呟いた。


「なんだい、今のは?」

「弔辞の意味ですよ。知らなかったんですか?」


 岩間に吹きすさぶ風の音が、狼の遠吠えを模していた。

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