碧霧葬送Ⅳ


     ◆


「我々シーマは、湖底にある大結晶を、神の分け身としてこの四肢に賜っている」


 幽鬼のように顔を強ばらせながら繰り広げられるルキウスの話に耳を傾けながら、しかしアルは彼の顔を見られずに、自らが生成した手首の結晶に目をやる。


「それ故に四肢の結晶と大結晶は同じ性質を持っている。そして我々が遺体を湖底へ還すのは、この神授の結晶をあるべき場所へ返す意味合いがある……」

「それを、村の人間は知っていたんですか? 知っていたなら――」

「知るわけがない。奴らは、ただよそ者である我々を間引くためだけに、妹や同胞を殺したに過ぎないのだからな」


 淡々とした口調とは裏腹に、肘を突いたルキウスの腕は震えており、内に抑えきれない怒りがテーブルに伝播してカタカタと音を鳴らしていた。彼を囲むシーマたちも、ある者は拳を握り込み、ある者は歯を食いしばりながら脇目を振っている。


「それにたとえ知っていたとしても、彼らの行いを許せはしない。彼らは魔王ロードレクの遺志と、勇者フレイの善意を裏切って、ただ我が身かわいさに、我らを害したのだ」


 アルは、何を言うべきかと一度口を開き、無言のまま閉口する。やがて震えを押さえ込んだルキウスは、真っ直ぐにアルを見つめた。


「わかっただろう? 未だ亜人と人間は、未だロードレクの理想に達していない。自らが窮すれば、人間たちは我らを迫害する……神代の折、我らの祖先を魔境へ追放したように」


 その碧色の瞳は、アルを捉えながらも空虚に淀んでいた。

 それなら。と、アルはそれから逃げるように立ち上がり、ルキウスから背を背けた。


「どうして反抗しないんですか? 口では憎いと、許せないと言いながら……、どうしてあの村を、生かしているんですか?」


 肩越しに、アルはルキウスに問う。その声は途切れ途切れに、探るような口調だった。

 ルキウスは数秒の逡巡の後、目を伏せながら答えた。


「今更、彼らを害してどうなる。妹は戻らない、人間を殺せば我々には居場所はない。彼らを、自分たちの衝動に任せ罰したところで、二十年前の戦争を繰り返すだけではないか」

「そんなの……!」振り向いて声を上げそうになるアルを、ルキウスは目線で制した。

「私はあの戦場で、妹と一緒に何人もの聖騎士を撃ち抜いてきた。翼と虹の紋章を見る度に、両親が殺されたあの時の怒りが、心の内を燃やしていた。それは眼前に騎士の山を築いたとしても、収まることはなかった」


 アルは無言のまま、ルキウスに視線を向ける。ルキウスはアルから目を離し、自身の手のひらをどこか遠い目で見つめた。


「私は悟った。復讐心のままに、あの村の者どもを殺し尽くしてしまったとしても……私は止まることはできない。また二十年前のように、己を獣に堕として戦う未来が待ち構えていると……」


 細々と呟くルキウスを、アルは睨み付ける。


「憎いなら、それでいいじゃないですか!? 恨みを果たして、楽になれるならそれで――」


 その時初めて……。


「簡単に言うな……!」


 テーブルから、重く激しい音を放たれる。

 その時初めて、アルの目の前の男から怒号が発せられた。アルの肩は跳ね、紫に縁取られた瞳が揺れる。


「お前にはわかるまい……! 消えない復讐心がどれほどこの身を焼くのか……! せせら笑いながら両親を殺した、あの聖騎士どもの顔を、何度も、何度も何度も夢の中で切りつけても止まないこの情動が……!」


 立ち上がった男は叩きつけた拳を振るわせながら、歯をむき出しにしてアルを睨み付ける。周りのシーマたちも、激情を露わにしたルキウスにたじろいだのか半歩下がって様子を見守っている者がほとんどであった。


「戦場で奴らの死体を築いたところで収まりはしない、私が殺した中に、父と母を殺したあの男どもがいたかもしれないそれでもだっ……!」唸るような低い声で、血を吐くようにルキウスは続ける。

「そうだったとしても、その先には何もない。有り余る怨嗟だけが、自身を蝕む……」


 アルは肩を竦ませたまま、獣性を曝け出ししたその男を見つめる。

 その首が、次の言葉を否定したいと、何度も横に振られた。


「復讐では、誰かの遺志を果たすことなどできない……」

「違う……」

「終わることなく、その都度自身の心を慰めるだけの、ただただ地獄のような日々でしかない……」

「違う……!」

「それならば、同胞の眠るこの場所で生涯を過ごし、同胞と同じ湖で眠ることを、我々は選んだのだ」

「違う!」


 自身をきつく抱きしめながら、アルは叫ぶ。

 体をくの字に折りながら、しかし緋色の双眸が、目の前の幽鬼をしっかりと捉えていた。


「あなたたちは! 自分の本能を恐れて、ただ臆病になっただけです! あなたは現状に、何一つ納得していないはずなのに……!」

「臆病だと……?」ルキウスは、背筋をゆらりと伸ばしてアルを見下ろす。

「言うに事欠いて、我々を、臆病と言ったか? お前のような娘に、いったい何がわかる!」


 シーマたちの視線が、アルの体に容赦なく突き刺さる。それでも、アルはただ、ルキウスを迷いなく見据えていた。


「私の父は、勇者に殺されました。あなたたちと……人間の未来を祈って死んだ、でもそれは! 人間たちに、隷属する未来じゃない」

「私は隷属などしていない! 村の者どもを見ただろう? 浮水がなくなって衰えていくあの様を!」


「そうだ!」

「私たちは、今でも奴らに裁きを下しているんだ!」


 口々に、シーマたちはアルを非難する。


「いいえ」何度も深呼吸を繰り返しながら背筋を伸ばし、凜とした佇まい取り戻したアルは、はっきりと否定する。

「あなたたちは、必要以上に自分たちの復讐心を、残虐性を恐れている。人間たちの善意を信じたことを、忘れているんです」

「善意だと? そんなものを信じちゃいない!」最初にアルを睨めつけた男が、声を上げる。

「同胞は家畜同然に殺された。恋人だっていたんだ! 最初からあんな村、占拠してしまえばよかったんだ」

「それでもあなたは、十数年という平穏を手に入れていた」迷いなく、紅く点った瞳が、男を射貫く。

「だから今、己の内側に眠る獣性を、恐れているんじゃないんですか?」


 男はハッとした表情を浮かべるのを確かめて、アルは再び正面のルキウスに顔を向ける。


「たとえこのまま、彼らを嬲り殺しにしたって何も変わらない。弔いをするべきだというなら……彼らだけはあなたたちが、自らの手で決着を付けなければいけないんです」


 ルキウスは依然犬歯を彼女に向けながら、アルに問うた。


「ならば、どうすればいい? こんな非道を犯した奴らに、許しを請いにいけとでも言うのか?」

「いいえ、許す必要なんかない。彼らを裁く権利はあなたたちにしかない。それなのにあなたたちは、絶望のままに目を閉じ、耳を塞いでここに居る。口先だけで憎しみを語りながら、実際は追い払うだけで満足している」


 シーマたちは押し黙り、アルを見やる。中には目を見開き、ルキウスを見やる者もいた。


「今を絶望するのに、遺志を持ち出すのは間違っている。死んだ同胞は、あなたたちの未来に平穏を託しているんじゃないんですか?」


 しかし、その全員が、アルの言葉を待つばかりで誰も声を上げようとはしなかった。ルキウスもまた、落ち着きを取り戻して、虚ろな瞳を宿す。


「それでも……」


 ぽつりと、ぽつりと、ルキウスは言葉を零した。


「我々は、もう……、戦争に……人を傷つけることに、疲れたのだ……」


 しびれを切らしたように頭を振って、アルは言葉を続けようとする。


「あなたたちは――」


「そこまでだよ、アル」


 突如、塔の入り口から、声が響く。

 そこには、ローブの端を濡らしながら佇む、死霊術士の姿があった。


     ◆


 湖畔にうち捨てられていた小舟を使って監視塔の桟橋へ着いたローランは、塔の入り口からその集会を見ていた。


「お前は……」


 その声を上げたのは、シーマの若い男だった。ローランは彼に一瞥をくれた後に、すぐさま集団の中心で演説している少女を見る。

 目を細めて、口を結び……彼にしては珍しく、厳しげな雰囲気を漂わせながら。


「さっきの村人じゃないか……」

「逃げたはずじゃないのか?」

「それよりも見張りは何をしていた? 何故この男の接近に気付かなかった……?」


 周りのシーマたちがどよめくのを意に介さず、ローランは真っ直ぐアルに歩み寄った。ローランの後方からは、彼を歓迎するように武器が抜かれ始めていた。


「このシーマたちの行く末は、君が決めるべきじゃない」


 左右に脇目を振って、やや逡巡の後……、ローランははっきりと言った。


「君は魔王じゃないんだ……。彼らを扇動する資格は、今の君にはないよ」


 一瞬、その場の全員が静まりかえった。一番に口火を切ったのは、アルであった。


「邪魔をしないでください! 私は――」

「わかっている」


 声を荒げようとするアルの肩に手を置き、落ち着いた口調でローランは諭す。


「全部、知っている。彼の『耳』と『目』から、これまでのことを聞かせて貰っているから」


 そう言って、ローランはルキウスを見やる。

 ルキウスは、呆然とあたりに視界を彷徨わせていた。その先には、ローランの侵入を許したシーマたちの動揺した様子や、武器を構えて睨み付ける者に焦点を当てているのがわかる。

 しかし、その全てに、ルキウスは怪訝な表情を見せていた。


「お前たち、何を見ている……? その娘の傍に、誰がいるというのだ……?」


 シーマたちは一斉に、ルキウスに視線を向けた。何を言っているんだ、と口を揃えて全員が彼を慮っている。


「この世界の全ては、魔力で構成されている」


 その場の全員に倣ってルキウスを訝しんだアルに講説するように、ローランは唐突に語り出した。


「全ての物質が元を辿れば魔力だというのなら……、俺やアル、ここに居るシーマたちそれぞれに個性があり、姿形が違うのにもかかわらず、彼らを類似的な種として俺たちが認識できるのは何故か?」


 ローランとルキウスに視線を彷徨わせながら、アルはその問いに答える。


「この世界で構成される物質全てに、自己を保存する境界があるから」

「そう、同じ聖質で構成されていたとしても、それによって表象される物質と魔力光の違いはそこにある」


 リーダーの様子に困惑を隠せないシーマたちは、ローランの話が理解できずとも、彼が原因であることだけは理解したのか、武器を構え直して詰め寄ろうとする。


「屋上にあった孥砲に連結していた彼の魔力器官を通して、彼の自己保存境界を破って魔力光に侵入し、俺を魔力光を認識できないようにマスキングさせて貰った。ついでに、共通項を持つ個体に対して自己複製しながら移動して同様に侵入するよう書き込んである」


 つまり……、とローランが指を立てる。

 青白い光が、妖しく弧を描きながら飛来して、彼の指先に留まる。


「今の彼と外の見張り……ここに居るシーマもいずれは……俺のことは見えないし、この言葉を聞こえない」


 ローランのその言葉を合図に、彼とアルを囲んでいたシーマたちに、変化が訪れた。

 シーマたちは全員が武器を手にしながら、アルを見やってその目を見開いていた。何が起こっているのかわからないまま辺りをキョロキョロと見渡す者もいれば、錯乱して誰もいない空間を切りつけようとする者も現れる。その中で、ルキウスはアルを人睨みした後に、奥の螺旋階段を上っていった。


「早く逃げるよ」


 ローランは素早くアルの手を取り、走り出す。アルは戸惑いながらも体を揺らし、ローランに歩調を合わせた。

 塔の入り口を抜けて、碧霧の漂う湖上に浮かぶ桟橋を二人は走る。手を引かれながらも、アルは霧の碧を写し、キラキラと揺らめく湖面を、眉を寄せながら見つめていた。

 その湖面から、水柱が立った。ローランは頭上を見上げると、霧に紛れた大きな黒い影が、湖に向かって飛び込んでいくのが見えた。再び湖面が激しく叩きつけられると、桟橋の先の水上を、掘りの深い長身のシーマが、水柱のかき分けるように現れた。


「ルキウス……」

「そこの娘……アルと言ったか……そこに、いるのだな?」


 アルは男の名前を呼ぶ。ルキウスは問いながらアルのすぐ横……手を繋いだ先にいるローランへ、孥砲を構えた右腕を突き出した。

 孥砲の形状は、ルキウスの腕全体を超えるほどのおおきなボウガンに、持ち手の代わりに箱状の接続部が肘の先を覆っていた。後ろ側には細い長い樽のような形状が三本伸びており、そこから周囲に浮かぶ浮水を吸い込んでいた。


「反重力式水圧孥砲……」

「その年で物知りなものだな、アル」


 見えてはいないはずのローランを鋭い視線で照準を付けながら、ルキウスは感心してみせる。ボウガンにはルキウスの全長ほどはある杭が装填されていた。


「引き絞っている弦を浮水で無重力化している……発射のタイミングで水を排出して、重さで一気に矢を射出して……なるほど、接続に魔力器官を巻き込んでいるのは、排出した浮水を樽へ戻すためでもあるのか……」


 まじまじと向けられた孥砲を観察するローランに、アルはため息を吐きながらルキウスと対峙した。


「そこにいるのなら、我々にかけた魔術を解け。さもなくばこのまま射貫く」

「残念ですけど、そんな脅しが効果的ではないんです、ここにいるのは」

「侵入した術式は自然と淘汰されるからしばらくすれば治るよ、断言する」

「あなたたちにかけた術式も、時間が経てば治るそうですよ」


 聞こえていないであろうローランの言葉をアルが補足する。しかしそれを聞いてもなお、ルキウスの右腕は降りなかった。


「私たちが争い合う意味はありません。彼は、私を取り戻しに来ただけです」


 それに、とアルは繋いだ手を持ち上げて、ルキウスに見せつけた。

 風が、彼女の銀髪の凪いだ。


「『ここに居る』とわかっているなら……あなたは、撃てませんよ」


 その言葉に、ルキウスの顔が、くしゃりと歪んだ。

 孥砲の先端が、少しずつ降りていき……、轟音を鳴らさないまま、湖面に波紋を生んだ。


「戦場では、造作もないことだったはずなのに、な」


 力なく垂れ下がった腕を揺らしながら、ルキウスはため息混じりに呟く。呆然とした中空を見上げた表情は泡沫に写し出され、万華鏡の要領で彼の顔を増やした。

 やがて実物に触れた泡沫は舐めるように天へ昇り、彼の頬を濡らした。


「わかっていた。元々作物量の少ない村に我々が住み着けば、村人たちを圧迫することも」ルキウスは孥砲に手をやる。

「村が食糧難になったのも、元を質せば我々のせいでもあったのだ。その責任を、私は妹や、他のシーマに押しつけてしまった」


 ローランは一度口を開けるも、何も言わずに閉口してアルを見る。


「私には、わかりません。どうしてあなたが、こんなにも優しくなれるのかが」


 アルは目を伏せて、物憂げな表情を浮かべながら、呟くように言った。それは問いのようでもあったが、わずかに覗く碧色の瞳がそれを否定した。


「私は、どうすればいい……? 何を以て、私は妹の遺志に応えなければならないのだ……?」


 ルキウスは、アルに問う。

 その時、ローランは彼女の手をほどき、肩に手を回した。


「君が何をするかはわからない」ローランはアルの耳元で囁く。

「けど、今の君は魔王じゃない。誰かを導く責任もない。それでもやるっていうのなら、君はここに居るシーマたちの運命を、背負うことになる。……わかっているね?」


 アルは顔を上げ、ローランを上目で見つめる。そこから少し顎を引いて、頷く。

 アルは桟橋の端まで歩み寄り、膝を曲げて湖面をのぞき込むように頭を出す。碧色の湖にまばゆく反射させながら、かざすように水面に触れる。

 空気が震え始める。自己保存境界に守られていたあらゆる物質が揺らぎ始める……魔術の胎動であった。魔力の震えは彼女のジャケットの裾をはためかせ、泡沫に写された銀の一房たちが踊り出す。


「何を……?」


 訝るルキウスをよそに、目を見開いてアルは集中している。そんなアルに近づこうとしたルキウスは、反射的に震えだしてその身を竦ませた。

 大気の震えは、やがて浮雨湖全体を覆うように渦巻いていた。風が巻き上がり、ローランとルキウスは顔を覆って風を避けようとする。

 それに連なるように、泡沫が硬質な音を立てて白み始める。湖面は波紋を広げるように、アルの手のひらを中心に凍り付き始めた。

 しばらくして、全てを終えたアルは立ち上がる。

 口の端からは火を吐くように、白色に染まった吐息を天に昇らせた。

 泡沫は凍ったままその場で動き、浮雨湖は時が止まったように凍り付いていた。


「いったいなにがあったんだ!?」

「湖が凍り付いている。寒い……」


 監視塔からは、混乱した声が喧噪のように木霊している。それには目もくれずに、アルは桟橋を降りた。見違えるような光景に目を丸くしたローランも、後をついていった。


「待て……!」


 凍土と見違えるほどの湖面上で、ルキウスはアルを呼び止める。


「いったい、何をした……? これは……どういうことなんだ」


 ルキウスはまるで新天地へ迷い込んだかのように、辺りを見渡していた。見慣れたものを探そうと辺りを回って見るも見つからず……ついには、凍土に手をついた。

 ルキウスの様子を発見したシーマたちも同様であった。ルキウスを含めほとんどの人間が裸足であったため、凍土の上陸には手間取っていたが、慣れていくとそれぞれ一面の氷景色に困惑しながらも魅了され、ある者は時間の静止した泡沫を興味深そうに突いている者もいた。

 

「叶えられない遺志なら、背負う必要なんてないでしょう?」


 アルはジャケットのフードを被りながら、ルキウスに言い放った。


「ここはもう浮雨湖じゃない。ルキウス……あなたが弔うべき魂は、もうここにはないんですよ」


 最後にそれだけを言い残して、アルは霧の晴れた氷湖を歩いて行った。

 そこには困惑にまみれた喧噪と、嗚咽が一晩中鳴り止まなかった。


     ◆


 なだらかな山間道を、ローランとアルは歩いていた。アルはローランを遠ざけるように足早に先導するのを、ローランははにかむのに失敗したような表情で眺めていた。


「追っ手が来ると、思ったんだけどねぇ」


 誰に聞かせるわけでもなく、ローランはひとりごちる。山中では風の鳴る音に混じって木霊するざわめきが聞こえてくる。それが聞こえる度、アルは被ったフードの端をつまんでいた。


「アル」


 いつもの調子で呼び止めようとするローラン。アルは数歩歩いた後、ゆっくりと立ち止まって、半身でローランを見やった。

 ローランはわずかに頬を持ち上げて近づき、頭を傾けてアルの顔を覗こうとする。


「ちょっと、やめてくださ――」


 アルの制止の声は、しかしローランの弾いた指によって遮られた。

 ローランの指弾はアルの額に見事直撃し、彼女の頭を軽く仰け反らせて見せたのだ。


「何、するんですか! いったい!」

「アル」


 それはいつもの口調ではあったが、いつもより無感情的なローランの声音に、紅蓮を燃やしたアルの言葉はまたも遮られた。アルが覗いたローランの表情は、口を固く結んで険しい目つきをしていた。


「な、なんですか……?」

「今回は、相手が友好的だったからよかった。けど、次はそうはいかないかもしれない。亜人には、同族同士で争うような血の気の多い連中だっているってこと……、言われなくてもわかっているはずだよね」


 静かに語気を強めたローランの口調に、アルは視線を落とす。

 その様子に耐えきれず、ローランは重いため息を吐いた。


「もう二度と……一人で勝手に亜人の住処に行くなんて……無謀な真似はなしだ。次は羽交い締めにしてでも止める。いいね?」


 その言葉に何も言い返せず、アルはキョトンとした表情をローランに見せた。


「返事は?」

「わ、わかりましたっ」


 アルはたじろいで、薄暗くなる瞳を隠すようにフードを目深に被った。しばらくして、木霊する喧噪に紛れて車輪の音がし始めていた。


「ローラン」

「なんだい?」

「私のしたこと、何も言わないんですか?」

「さっき言ったじゃないか。もう一人で勝手なことは――」

「違います。浮雨湖を、凍らせたことです」


 後ろを振り返って、これまで歩いてきた道を見つめる。


「私には理解できなかったんです。彼らを縛る遺志を弔う方法が、目の前にあるというのに、それをしないことが」


 ローランもまた、手持ち無沙汰に杖を回しながら、後ろを振り返る。


「私には、彼らがそれを言い訳にしているように思えたのが、我慢できなくて……、それならいっそああしてしまったほうが、彼らも前に進めるんじゃないかと、思ったんです」


 ポツリ、ポツリと言葉を足していくアルを、ローランは見下ろす。


「疲れたんだよ」


 ローランもまた、ポツリと言葉を落とした。


「村での十年が、彼を疲れさせてしまったんだよ。皆、争いなんて本当はしたくない。でも復讐の炎が、身を焦がす熱さに耐えられなかった」監視塔のあった方向へ振り返りながら。

「あの塔は、彼の強さでもあり、弱さでもあるんだと思うな」


 アルは塔から目を背け、湿った地面に目を向けた。


「誰も、遺志を正しく継いでいけるほど、正しくはなれない……」

「大丈夫」


 アルは、ハッと顔を上げた。そこには、いつものように愛想笑いをするローランの顔があった。


「俺はともかくさ……勇者は、強いよ。だから、大丈夫」


 その言葉に、アルの瞳は青く染まった。


「本当に、口が下手ですね」

「うん? なんか、おかしなこと言ったかい?」


 首を傾げたローランを無視して、アルは歩き出す。

 騒がしい山の喧噪の中で、しかし日差しだけは穏やかに山肌に落ちていた。

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