記録1:魔王少女とネクロマンテ
哨戒巡礼Ⅰ
◆
ツリーハウスを出て空を見上げた寝間着の少女は、一度大きく伸びをした後、梯子を下って外廊下を歩いていた。やや湿気の帯びた、物憂げな朝であった。
少女の瞳は、海に沈むような深い青色をしており、無感情を装う表情からは、どこか呆けた印象を受ける。しかし足取りはしっかりとしており、腰まで伸びる艶やかな銀髪を規則的に揺らしながら、その落ち着いた足音は階下の一つの部屋で止まった。
やや汚れが目立つそれをノックもせず静かに開け放つと、部屋の隅に置かれたランプに照らされていた部屋が広がる。壁に埋め込まれた本棚に収まらないほどの書籍が平積みされており、床を埋めんとする紙の海原に塔を築いていた。
少女は散逸された紙束に目をやりながら、ベッドに静かに眠る男を見据えた。
端正な顔立ちの、細身の男性だった。見かけの年齢は二十代前半で、毛布は被らず膝丈まである深緑のローブを掛け、仰向けで眠る彼を、少女はじっと見つめている。
やがて意を決したように、鼻から小さく息を吐き、部屋に乗り込むと、紙が波立つ中で、ベッド側に掛けられた
昏い瞳が、男の寝顔に突き刺さる。少女の顔から、一切の情動が消え失せた。
少女はゆっくりと、結晶杖を持ち上げる。
「――っ!」
振り下ろされたのは、一瞬。
男の顔はベッドの軋む音をかき消して見事に破壊された。
骨を削る音が部屋中に響く。
湿った打音が部屋中に響く。
音は規則的に鳴り、何かの作業を思わせるような無機質さを漂わせる。しかしそれは紛れもなく感情が起こす行為であり、故にこの部屋は凄惨さに満たされていた。
少女の瞳は無感情的に見開かれ、腰まで垂らした髪は毛先が血で濡れている。そんな彼女は、ベッドの上で馬乗りになって、その小さな体を揺らしている。体全体を使って、手に握り締めた結晶杖を、頭上まで大きく振りかぶり、振り下ろすためだ。
少女の殺戮に合わせて、馬乗りにされた体が鼓動じみて跳ねる。
見えようによっては、少女がその死体に命を吹き込んでいるかのようだった。
少女が執拗に杖を打ち付けているのは、頭だった。姿に見合わない万力を込めた杖よって潰され、砕かれ、攪拌されているせいで『顔』と呼べるものはなく、ただ粉々にされた脳漿と骨の血だまりだけがあった。
それでも少女は、杖を叩きつける。無感動的な一連の所作に、杖に込める力だけが生きていた。
永遠に続くかに思えたこの光景は、少女が振り上げようとした腕が、ふいに止まることで終わる。
何事かと思えば、死体から伸びる手が、少女の手首を掴んでいた。
「くそっ」
口の端から悪態を零し、少女はベッドから降りる。血を十二分に吸ったカーペットが濡れた足音を立てる。
部屋中には少女が殺した死体から発していたものである、青白い光の粒が充満していた。
しかしそれはいつまでも消えることなく、部屋中を回遊する。やがて死体の胸元が魔力光と同じ光を放つと、部屋中の光が渦を巻いて収束する。
渦を巻いたのは魔力光だけではなかった。ベッドに散乱した血や肉片、骨の欠片までもひとりでに浮き上がり、死体の顔だった箇所に飛び込んでいく。
少女はその光景に、心底つまらない表情を露わにする。べっとりと付着した血が死体に吸収されるのに合わせて、彼女の寝間着がはためく。
数秒も経つと、少女の作り出した殺戮の惨状は影も形もなくなり、ベッドには端正な顔つきの男が目を開けた。
「やぁ、アル。おはよう」
起き上がってあっけらんとした挨拶する男を無視して、アルと呼ばれた少女は部屋を出て行こうとする。
「待ちなよ」と男はベッドから立ち上がって、アルを呼び止めた。
「毎度のことだけど、何か言うことあるんじゃない? 俺は君をそんな風に育てた覚えはないんだけどなぁ」
その一言で口の端が歪んだアルは、男に向き直って、「あなたに育てられた覚えはありません、ローラン・エル・ネクロマンテ」と言い放ち、射殺さんばかりに彼を睨み付ける。
アルの瞳は虹のように彼女の感情に呼応して輝いており、今は落ち着いているような……凍えるような青色でローランと呼ばれた男を睨めつけていると、やれやれといった風情でローランは肩を持ち上げた。
「そりゃあ君の主観的な感覚ではそうだろうけどね? 前にも言っただろう? 君を含めた生物や物質を構成している魔力というのは、見えないところで衝突を繰り返して互いの
「またその話ですか……」アルは苛立った様子でため息を吐いて、扉に寄りかかる。
「それとあなたの話す教育と一体何が関係しているというんです?」
質問に対してローランは部屋を回りながら、講説を始める。その様子をアルは黄色味がかった半目になって眺めていた。
「魔力はこの世界の全てを構成している。これが世界の基本法則だということは、既知のことだね?」
「ええ、そうですね」
「そして魔力には純粋なエネルギーとなる魔素と、構成する物質の情報を内包する聖質の二つで構成されている。ここまでは?」
「ええ、聞き飽きたくらいに教えられましたから」
「つまり」と、ローランはここでアルに向き直り彼女を指さして続ける「今話しているこの言葉にも、声にも……はたまたこの体の動きの一つにも魔力が備わっている。古来から呪言や儀式に準えるようにね」
ここまで聞いたアルは目を伏せ、「……何が言いたいんです?」とローランに問いかける。ローランはアルを迎え入れるかのように両手を広げ、笑顔で答えた。
「君は俺の話を聞き、俺の言葉の魔力が衝突することによって、君の魔力に影響を与えていると考えれば、俺は君を遠回しに教育していると言っても過言じゃないだろう?」
それを聞いたアルの表情は、変わらずのあきれ顔であった。ややあって、ため息交じりにアルはローランに尋ねた。
「つまり、私があなたを殺したことに謝罪しないのは、結局あなたの教育のせいではないのですか?」
「何を言ってるんだい? 別にそんなこと気にしちゃいないよ」
は? と、間抜けな返事が部屋に響く。「まぁ? 痛いのは確かだから、気が済んだらやめてほしいけども」と続くローランの言葉にも反応できず、アルは呆然とローランを見つめる。
そんなアルの間隙を突くように、ローランは彼女に近づく。自身の胸元ほどしかないアルとの目線を合わせるため、ローランは膝を曲げて前屈みに体を倒した。
「『おはよう』だよ、アル。挨拶は大事だって、いつもいつも言ってるだろう?」
その言葉に、アルはハッとなって頬に手を当てる。それを見たローランは頬を緩ませた。
「そんなことで……」
気まずそうにローランのまっすぐな視線から顔を逸らすアル。その瞳はほんのり赤みがかっているものの、明度を上げたように白んでいる。
しばらくの沈黙のうち、ついにその重い口が開いた。
しかし、
「おっと、そうか。いや、いいんだこれは俺も悪い。俺としたことが、作法を忘れていた」
そんなアルに対し、何を閃いたのか、ローランはカーペットに膝をつきその場で傅く。
まるで王を敬うように。そして貴女に、親愛を込めるような恭しい様に、またもアルは困惑の目を向ける。
そしてそんなアルを置いてけぼりにしながら、ローランは目の前の王の手を取る。
その手の甲に、微笑みながら顔を近づけ――、
「――――ッ!」
その意図に気付いたアルの瞳が、悲鳴と共にカァっと紅蓮に燃える。
瞬間、巨大な鉄を押しつぶしたような撃音が部屋中を突き破り、響き渡る。
それに隠れて小さく鳴いた、肉と骨の潰れる音には、誰一人気付かなかった。
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