観測外領域(6):メタフィクションⅡ


     ◆


 勇者を助けて欲しい。目の前の聖騎士は、そう私たちに依頼した。

 勇者、勇者フレイ。エル教団の伝承に準えた、世界を滅ぼさんとする魔王を討伐する神の使徒。教団の清廉を象徴する最も敬虔な信徒であり、私の父を殺した、正真正銘の不死殺し。そんな存在を、間近で見てきたであろう三人を見渡すと、それこそ三者三様に、しかし全員が困惑の色を表情に出していた。もちろん、私を含めてだ。

 それを無視して、プルトは並べた便せんの一つを摘まみ上げて私たちに見せつける。そこには教団に対する王の葉の脅迫文が記載されている。

 我らは正当なる後継者なり。その事実を隠匿する、エル教団に対し、我々は聖罰を下さん。

 我々はここに、貴団の象徴であり、我らを謀り騙した勇者・フレイに対し、生誕祭の場にて我らに謝罪を要求する。

 さもなくば、貴団の指導者である司教・ミューハンとその名を持つ聖堂を、我ら百年続く禍根の礎とせん。

 正統なる後継者。彼らは、未だ魔王の遺志が自分たちと共にあると思い込んでいるんだろう。それが偶然にも神の使徒を表す言葉と重なっているのは、笑ってしまいたくなるくらいひどい皮肉だった。当然、プルトが注目しているのはそこではなく、次の文面を指さして言葉を続けた。


「ミューハン……あのたぬきジジィの派閥は、二日後にある聖誕祭の開会式でフレイを出席させる気だ。そこで、なんとしてもフレイに謝罪させて事なきを得ようとしている」

「テロリスタの言うことを、本気で信じているのかい?」

「んなわけないだろ。だが奴は、聖堂の門前で命の危機に晒されるくらいなら聖堂に引き籠もるし、これで落ちるのは勇者の威厳だけだ。なら奴にとっても都合が良いんだろうよ」苛立ちをぶつけるように、プルトは便せんを両手でぐしゃりと握りつぶす。

「そんなことは絶対にさせない。そもそも、今のフレイは外になんて出せない」

「そもそも疑問なんですが……、こんな状況で聖誕祭なんて行えるんですか? 被害を考えるなら、中止にするのが妥当かと思いますが」

「フレイの聖誕祭は、『アンダリュスの二大聖誕祭』と呼ばれるほどに、有名になっている」


 私の質問に静かに答えるのは、腕を組みながら椅子に背中を預けたカリグラだった。


「それがテロリスタたちの襲撃により中止と相成れば……国家はテロという脅威に屈したという汚名を引きずることになる」

「こんな時に国の面子ですか?」

「国の威光がなければ、民は指針を失う。そうして生まれた隙を、テロリスタはさらに掻き乱す。そうすれば結局、傷つき悲嘆に暮れるのは民……大切なのは、蛮行に断固抵抗するという堅牢な姿勢をテロリスタたちに示すことで、国民を安心させることだ」

「ああ。だからせめて、一度は人間の世界を守ったであろう勇者が教徒や国民を勇気づけるために形だけでも聖誕祭を行い、その場でテロリスタたちに対抗する意思を強く主張する……それが、あんたら帝国議会の指示だったな」


 奥歯を噛みしめながら、しかしプルトはカリグラから視線を逸らす。彼なりに、カリグラの言葉には……というより、恐らくは帝国議会に関わるユリアの言葉だろうが……、同調できる部分があるんだろう。

 誰もが、ここに居る者たちのように強くはなれない。庇護しなければならない人間たちのために、国の強さを見せる必要があるのだと。

 一人の人間が、そうやって強国を演じる。


「だが、それはできない。フレイは今……いや、これから先も、誰の目にも晒すことはできない」


 カリグラから目を逸らしたプルトの先には、私がいる。憎々しげに、それが空々しいと自覚しながら。プルトの乾いた憎悪が私に迫ってくる。


「ろうして? 別にあいつなら、テロリスタに襲われたってろうってことないれしょ?」


 舌足らずのサゼンが、私の浮かんだ質問を代弁する。

 国として、国民を守るために威厳を保とうとフレイを衆目に出そうという思惑は理解できる。それに何も、フレイが約束を違えたことを謝罪させるわけではない。フレイを狙ってテロリスタたちは暴走するかも知れないが、それはまた別の問題だ。国の威光を守るのならば、テロリスタたちへの対処なんかできて当然で、それにフレイが憂慮する意味はない。

 それでも、プルトはフレイを出さないと言った。その意図が、私には理解できなかった。

 プルトは、もったいぶって椅子から立ち上がると、窓から外の景色を眺め始めた。


「お前たちには、関係ない。フレイは今、外に出られるような体じゃない、それだけだ」

「ここまれきてそんな事言う?」

「病気なのか、フレイは」

「プルト。こっちの交換条件としてフレイを護衛を頼むなら、きちんと情報は共有するべきじゃないかい?」


 勇者の仲間たちが、思い思いにフレイを問い詰める。プルトはそれを背中で受け止めながら、しかし拳を握り込むばかりで答えようとしなかった。

 勇者が、病気。この二つの記号が、どうしても自分の脳裏にはかみ合わなかった。ローランの話では、四年くらい前から勇者は人前に姿を見せることはなかったらしい。プルトの言葉の意図を汲み取るとするなら、四年前からフレイは外に出られないような重い怪我や病気を患っているということなんだろうか。

 しこりのような違和感が、胸中に落とされる。

 ふと、夢の中で見た勇者を思い出した。どこまでも機械的に、真っ直ぐとこちらを見やる瞳。たてがみのような金の髪をたなびかせながら、しかし剣を聖痕によって変形させた光槍を構えるその姿は、効率で人間性を研磨したような……そう、どこか反射的に、義務的に、私の胸元へと迫っていた。

 怪物を戦うために、人間性を殺しているのか。違う。あれは、最初から怪物を殺すために生まれたような、徹底された概念が根底にあった。

 そんな怪物を引き籠もらせるほどに、父の呪いは重かったんだろうか。


「……プルト。勇者に会わせてくれませんか」


 プルトは大きく目を見開いて、私を見つめた。


「あ?」

「勇者が父の遺志に応えようととしたせいで心を病み、外に出られないと言うなら……それは父の、私の責任でしょう? それなら――」

「会って、なんだ?」


 底冷えする声が、はらわたの表面を掴んだ気がした。


「会って、ごめんなさいとでも言う気か。あなたに任せたのが間違いでした、どうかこれまでの事を忘れてください、とでも言う気か!

 ふっざけんなよっ! お前さえいなければ、フレイはもっと普通の人間として生きられたはずなのに! あんな惨い姿にならずに済んだはずなのに! お前は会って言葉を交わすだけで許されようってのか!?

 今さら謝ったって、あいつは――!」


 詰め寄ろうとするプルトと私の間に、緑のローブが割り込んでくる。

 ローランは結晶杖を展開しながら、プルトの前に立ちはだかった。


「プルト。どういう事情かわからないけど、アルは許されようなんて思ってないよ」

「どけよローラン! やっぱりこの女は殺すべきだ! フレイのためにもな!」


 煩わしそうに、プルトはローランを睨み付ける。少し離れた場所で険しそうな顔をしたカリグラは長剣に手を掛け、サゼンは呆れたようにそっぽを向きながら、元に戻った左腕を撫でていた。


「私のせいで、何かが起こっているというなら教えてください」


 遮るローランの脇から出て、私は再びプルトと視線を結ばせる。侵食された青の右目が、怒りで潤んでいる。

 ああ、そうだ。彼は本当に、勇者のことを思って、私に怒っている。私が憎いんじゃない。きっとそれも含めて、彼は勇者を取り巻く全ての理不尽に怒りを燃やしているんだ。

 これまでの旅は、美しいものを見るだけの旅ではない。今、目の前にある、父の遺した罪や怨嗟とも向き合わなければならない旅だったんだ。

 私が、魔王になるために。


「私は知りたいんです。そのために、これまでの旅があって、私は今を生きているんですから」


 視線を外さないまま、プルトに語りかける。息を上げながらこちらを射殺さんとしていたプルトは、やがて落ち着く吐息に収束するように上がった肩を下ろした。


「……そこまで言うなら、教えてやるよ」


 燃え尽きたような沈んだ声で、プルトは机を回り込んで扉へ移動した。


「フレイの居室に案内してやる。そこでお前らがしでかしたこと、よく見てみるんだな」


     ◆


 ミューハン大聖堂の西からひっそりと延びる通路を通った先に、勇者フレイの居室である小さな神殿がある。司祭の名前が載せられた聖堂に比べると、大きさは五分の一程度で、ちょっと豪華な礼拝者向けの宿舎にも見える。太陽が頂点に差し掛かろうとしているにも関わらず、ここは聖堂の暗い影に覆い被さって隠匿されているようだった。

 勇者の隠居部屋と言ってしまえば、その通りではあるし、それにしても扱いがぞんざいなのもどこか自然のように思える、奇妙な立地だった。首都の教団員は、この国にエル教を根付かせた司祭こそが指導者にふさわしいとするミューハン派と、伝承の権化として事実魔王を討伐せしめた勇者こそ指導者にするべきというフレイ派に分かれているという話を思い出す。この様子を見てみると、勢力の差がどれほどのものかが窺えてしまう。片や今も教団の立場を向上せんとあらぬ事を企み続けるたぬきと、片やここ数年顔すら出さず、教団的に大罪人である亜人と協力しようと言いだした勇者を公平に比べれば、教団員としてどちらに着けば将来安泰なのかは明白だというだけの話なのかもしれないが。

 勇者というわかりやすい偶像があるにも関わらず、その信徒の大半は神性より実利を得ようとした、ということだろう。偶像崇拝をしない教義に乗っ取るなら、実はその考えも間違っていないのかも知れないが、結局は彼らも根本から神を信じているわけではないのかも知れない。

 神は内心に宿る。なんて都合のいい方便だと、初めて私はエル教徒に感心して、目の前の扉を見上げた。

 そこには本来の扉を覆うように、鈍色の液体が張られていた。液体は物理法則を無視してそれこそ不規則にぷるぷると波打っている。門番がいない勇者への入り口を、まるで意思を持って守っているようだった。無機質な信仰心が生み出す不気味さに固まっていると、隣のローランがそっと耳打ちしてきた。


「教団が使ってる液体金属だよ。聖質に引き寄せられて、触れたものの聖質を転写する特性があるんだ。聖騎士団の使う装備にも仕込まれていて、内蔵した探針が聖騎士の聖質を読み込むことで武器を変形させて――」

「いいですっ、わかりましたからっ……」


 耳にかかる吐息をくすぐったくなって、手で振り払う。扉の前には、案内役のプルトを除けば私とローランしかいない。カリグラとサゼンは、亜人部隊の作戦決行の準備をするという名目で、プルトの半ば追い出される形で聖堂を出て行ってしまった。

 プルトは押し黙ったまま、液体金属から間を開けて手を翳す。すると波打っていたそれは緊張するように1度平面になって静まった後、プルトの手のひらに向かって隆起し始める。樹木の成長を早回ししているようだ、とも最初考えたが、樹木にしては真っ直ぐ伸びすぎていて、最終的な姿は砂山の形を崩さずに垂直に傾けたような、人工的な神秘性を感じられる。

 砂山の頂点が、プルトの指先に触れる。彼の指先に青い光が点ると、いくつも枝分かれして山肌を駆け下りていく。それが扉全体へと行き渡ると、液体金属たちはプルトを避けるように扉と壁の境へ追いやられていった。

 聖質を読み取る液体金属が、プルトの聖質を読み込んで退いてくれたんだろう。この扉は、プルト以外には開かずの扉として機能しているに違いない。そうして、この先の神秘を曝こうとするものを拒んでいるんだろう。それはまるで、経典に記されている虹の扉を思わせた。

 ならば、扉を抜けた先には神がいるんだろうか。実利主義の教徒たちから見放された、名有りの神が。


「……よく見ておけ。これがお前たちの罪だ」


 ここに来るまで、ずっと無言だったプルトがそう口火を切ると、扉を開けて中へと入っていった。隠れていた液体たちが、また扉に張り巡ろうと震えているのを見て、私とローランは慌てて扉をくぐる。

 そこは、一つの大きな部屋だった。いくつもの細い二対の円柱が頂点で弧を描いて結ばれたアーチを描いている……エル教の建築様式で、聖堂でも嫌というほど見かけたものが規則正しく並んでる。中央は段差状に盛り上がっており、中心では立方体の小さな小部屋のような空間があった。アーチ状の柱で仕切られたそれは、さらにベールをカーテンのように施されている。

 何かの祭壇のような意匠。ベール越しには透明なガラス質の壁があり、その先には何もない。外の窓が、ただ外の暗がりを映すだけだった。

 辺りを見回してみても、誰かがいる気配がない。液体金属の防壁によって完全に密閉されているこの空間は、外との温度差を感じるだけで、勇者の姿も形を見当たらなかった。


「誰もいないじゃないですか」


 プルトは何も言わず、中央の祭壇らしき部屋を見つめて、


「ただいま、フレイ。今日は、顔なじみを連れてきた」


 ひどく穏やかな声に、私は自分の耳を疑った。それがプルトの話し声であることを認識するのに、数秒は要したかも知れない。

 彼は、部屋を見てフレイと言った。もう一度、中央の部屋を見やる。柱、ベール、ガラス、向かいの窓……、

 その中間で、たぷんと何かが波打った。


 ――珍しいね……。君がここに、お客さんを入れるなんて思わなかった。

「こいつらが、どうしてもっていうんでな」

 ――……ああ、そっか。まさか、君たちにもう一度再会できるなんてね……。


 それは、まるでさざ波のような儚いささやき声だった。

 唐突に、与太話の一つを思い出す。海辺に貝殻に耳を当てると、海の音が聞こえてくるという、現実離れした空想。今聞こえた声は、そんな幻聴のような、しかし明確に頭へ響く、中性的な声だった。


「なんですか、これ……」


 耳を両手で押さえて、疑問にならない声を漏らす。今までにない感覚だった。頭に直接、意思が流れ込んでは消えていく……、さっきの声も、ふとした拍子で消えて忘れてしまいそうだった。


 ――あ、ごめん、急に話して。普段はプルトとしか話さないから、ついいつもの調子で……驚かせてしまったね。

「気にしなくていい。ちょっとびっくりさせるくらいがちょうどいいんだよ、こいつらには」


 今まで聞いたことのない、毒気のない気さくな口調とは裏腹に、プルトの表情は険しいまま、非難がましい視線がこちらを刺してくる。

 この音はどこから聞こえてくるんだ。いったい誰が話しているんだ。私の視界が、声のありかを探そうと揺れていると、再三中央へと目を留めた。

 祭壇の中には風もなくゆらゆらと揺れる液体が入っている。液体は時折、独りでに、ほんのわずかに光点を生み出しているようだった。

 本で読んだ、バハロの生態を思い出す。彼らは自身の舞踏によって打ち鳴らされた振動を体内で共鳴させて、肩の魔力器官がそれを光に変換して飛ばすのだと。光といっても強烈なものではなく、人が色を識別するために必要な光量で、たいした熱も持たない。しかし、バハロの魔力器官を眺めているものには、そこに楽器隊でもいるような盛況で情熱的な音楽が流れているらしい。耳で聞いているわけではなく、光を見ることで音を知覚するのだ。

 ガラスで区切られた部屋は、巨大な水槽だった。水槽の液体が発光すると、さざ波が脳裏を過ぎる。


 ――久しぶり、なのかな。魔王。ローラン。ボクはこんな格好だけども、どっちも会えて嬉しいよ。


 その台詞で、私はこの声の正体を確信する。いや、したかった。それを彼だと断定するには、どうあがいても目に見える情報が違いすぎる。認識が世界を作るが自己意識は独立している。そんなのはもうわかりきっている、でもこれは……あまりにも違いすぎる。


「何が、どうなってるんだ。フレイ? どこにいるんだ」


 ローランもまた私と同じように困惑したまま、水槽に釘付けになっている。

 どこにいるだって? そう言ったのは、段差に足を掛け、水槽へと手を差し出したプルトだった。


「目の前にいるだろう、ちゃんと見ろよ。

 これが、魔王を庇護したお前たちが生み出した、フレイ・エル・ヴァレンティーアの姿なんだよ」


 プルトの言葉が、耳を通り抜けていくようだった。ローランから転移魔術を聞いたときのような、理解の追い付かない混乱が私の意識をかき混ぜていく中で、私いったん呼吸を止めて顔を上げた。

 勇者? あれが? あの水槽が? 人なんてどこにもいないのに、今度はプルトの頭がおかしくなったのか。

 そんな私たちを見かねたように、水槽はもう一度波立つと、フレイが語りかけてきた。


 ――君たちが状況を理解するためには、まずボクの正体を話さないといけないね。

   ボクはフレイ。君たちが神の呼んでいる存在と、まぁおおよそ変わらない高次元人がこの地に撃ち出した、防衛機構なんだ。

「高次元……防衛、機構……?」聞き慣れない単語に自然と首が傾くと、吐息とも微笑みともつかない鳴き声が頭に響いた。

 ――ボクの使命は、このエルバース次元において生まれたイリーガルな存在を排除すること。ここで言う『イリーガル』っていうのは、この次元を一方的に観測する上で障害になるもの……将来、自分たちの世界へ侵攻して危害を加えるかもしれない要素のことを言うんだ。今はもう、観測をやめてしまって、君たちとはもう無縁な話だから、聞き流してくれて構わないよ。

「観測をやめている? そんなはずはない」


 穏やかな声に、ローランは片眉を上げて反論しようと段差に足を乗り上げる。


「俺は、観測者の視点を使った転移魔術を考えて、実際に成功しているんだ。その視点が、君の言う……その、高次元人のものでないなら、いったい何なんだ?」

 ――それは、ボクにも知り得ない。でも、もし君の魔術が成功しているのだとするなら……未だにこの世界を見つめて、今でもこのやりとりをどこかで見ている者たちがいるのは、間違いないと思う。

   だけど、それがこの世界に直接干渉することがない限り、ボクも含めた君たちが、彼らと関わることはない。……だからこの世界においては、いないものと扱っていいじゃないかな。高次元人たちは、ボクという機構を撃ち出した時点で、この世界に組み込まれているから、例外だけどね。


 この世界。その言葉が、どんどん曖昧になっていくのを感じる。このエル・バース大陸を外から見つめる神がいて、さらにそれを俯瞰する何かがいる。段々と、自分がちっぽけになっていくようだった。

 話を戻そう、とフレイが言うと、柔らかい風がこちらに向かって吹いて、私の頬を優しく撫でる、気がした。窓の開いていないこの部屋で、いったいどこから風が吹くというんだ。


 ――ロード……今は、アルだね。君は、イメージによって時間すらも超越する可能性を秘めた存在だった。それは時空間を超えて、観測者である高次元人を認識してしまう危険性を孕むものだった。

   ボクは、君みたいな存在を排除するために生まれた一種のワクチンプログラム……って言ってもわからないよね。魔王みたいな存在を殺すためだけに生まれた存在、くらいに思ってくれて構わないよ。

   本来、ボクの意識と肉体は君を殺した後に自壊するよう設定されていたんだ。だってボクを放置したら、また高次元への認知を早めてしまう恐れがあったからね。でも、それはできなかった。

「アルが、生まれたから」ローランはそう言って、未だに定まらない視点を左右へと揺らしている。

 ――うん。アル、君は気付いていないかも知れないけど、君は『アル』である前に『魔王ロードレク』の生まれ変わりなんだ。少なくとも、ボクの意識はそう判断している。だからボクは消えず、まだこの世界にしがみついていられる。

   けれど、肉体はそうはいかなかった。元々、一介の現地人でしかないこの体を、魔王を殺すためだけにリプログラミングを繰り返した結果……本来の稼働限界を超えて、こうして溶けて液状化してしまったんだ。


 死は、状態の変化でしかない。何故か今、死霊術の死生観が頭を過ぎる。

 この声の言っていることを、全部を理解できたわけじゃない。辛うじて、どうして自分が父の記憶を引き継いでいるのかがなんとなくわかった程度で、それは目の前の現実にとっては些末なことだった。

 こんな問いかけ方は卑怯だ。それでも私は水槽を見上げて、こう尋ねるしかなかった。


「私のせい、なんですか」

「ああそうだよ」据わった目が、私を射貫く。

「全部お前のせいだ。お前さえ、あの時死んでいれば……フレイはせめて、人のまま死ねたのに……!」

 ――違うよ。


 声を荒げかけたプルトを、さざ波が優しく諭した。


 ――誰のせいでもない。それにボクは死んでない。ただボクは、命の形が人と違うだけなんだ。


 だけ? 違う、そうじゃない。人外の命がどれほどの孤独かなんて、わかりきっている。

 共感できる感性なんて持ち合わせていない。根付いた慣習にだって、斜に構えて見ることしかできない。どれだけ人間や、亜人の暮らしを知ったところで、真にその存在になんてなれるはずもない。そうじゃなければ、私は今の姿を保つ必要なんてないんだから。そんな世界でたったひとりぼっちで、それでも生まれたからには役割があるはずなんだと信じなければ生きていけなかった。

 この防衛機構は、未だ勇者に捕らわれている。魔王との約束が、呪いになって。

 壇上へと上がって、水槽にそっと手を置いてみる。透明なガラス越しの体に触れる。

 冷たい。鉄に触れるような、ひんやりとしたものではない。もっと刺激的に、氷を直接手に取ったような、肌へと浸透する冷たさ。

 おおよそ人間の、生き物の体温ではない。こんなものが、人前に出て何を喋ればいい? 司祭は、このことを知っているのか。いや、知っているならもっとまともな対策を考えるだろう。

 これが、魔王……私が産みだした、悲しい命の結末だ。


「ごめんなさい。私、なんて言ったらいいか……」


 プルトの言うとおりだ。こんなの、謝ってどうにかなる問題じゃない。

 それでも、私は手のひらに刺さる体温を、ただ受け入れてやることしかできなかった。


 ――アル、プルトも。いいんだよ、ボクのことは。

   ボクはね、こうなってしまったことを後悔してないんだ。

   たしかにボクは、防衛機構としては出来損ないで、高次元への脅威を排除できずにいる。使命を全うできない失敗作さ。

   でもね、ボクは君たちがいる。プルトに、カリグラに、ネヒンに、アリア……そして、ローラン。君たちと旅をした記憶が、ボクをボクたらしめてる。それだけでボクは幸せなんだ。

   アル。ロードレクとの約束を守れなかったこと、こっちこそ謝らなきゃいけない。もうこの体で、表の社会を変えるのはどうしても難しいんだ。

   それを呪いだと感じたことが、ないとは言えない。それでもボクは、過去の君が謳ったその願いがとても美しいものだと知ってる。

   だから、こんな報いでも受け入れられる。人とこの大地を愛した勇者フレイは、こうなることが決まってたんだって。


 淡々とした口調が、どこか母親を思わせるように優しく響く。自身すら俯瞰した……ネヒンや、ローランに感じた人間味のなさが、再び胸を打つ。

 どうして、勇者の一行はこうも人外の精神を持っているんだろう。私になんて関わらなければ、もっと人間らしく生きる人生があったかも知れないのに。

 きっとそれが、この世界において役割を持つということなんだろうか。

 それならばと、私は水槽に踵を返して、ローランとプルトを交互に見やる。


「……聖誕祭の件、私に考えがあります」


 ローランとプルトは、唐突に出された話題に眉を潜めた。


「私が、勇者になります。そして魔王として、フレイの代わりに勇者の言葉を届けます」


 勇者として、この防衛機構が使命を全うするなら、私も魔王として、役割を果たさなければならないんだろう。

 あるはそれが、運命というものなのかも知れない。

 ローランのいたたまれない表情が、何故か嫌に目についた。

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