観測外領域(8):ロールプレイ・Ⅱ


     ◆


 イス・サイラム。

 アンダリュスの東の海を跨いだ砂漠にある、一都市の名前。そこはエル教の聖地にして、他国のいかなる政治的介入を許さない自治都市。都市全体が聖堂と見なした大規模な司教座都市であり、城壁から伸びる液体金属の膜によって半球状に覆われたそこは、まさにエル教徒にとっての聖域といっても過言ではない。

 そんな都市の夜景を一望できる部屋で、私はかつて勇者と共に戦った二人の仲間を、交互に見やることしかできなかった。

 ローラン。そして、アリア。

 ローランは、険しい表情のままアリアを怪訝そうに見つめ、対するアリアは張り付けたような薄ら笑いを浮かべてその視線を受け止めていた。

 どうして、自分はここに居るんだろう。疎外感から生まれたそんな疑問に、私はようやくハッとなる。元はといえば、王の葉の調査に赴いているはずのローランの行方が知れず、それを追いかけてきたはずなのに。


「きっかけは、地下水路にあったアジトの跡だ」


 チラリとこちらに目配せしたローランは、それで私の疑問を察したように口火を切った。


「王の葉は、あの迷宮みたいな水路のあちこちに、拠点となる簡易的な設備を設けていたみたいでね。おそらく期間ごとに各地を転々として、アジトの場所を悟らせないようにしていたんじゃないかな」


 遊牧民みたいにね、とローラン。その語りを、私は無言で返して続きを促す。アリアもまた、無言のままに微笑を浮かべたままローランを見ていた。

 まるで、台詞の順番を淡々と待っているようで、そんな不気味さに眉が寄った。

 アリア。アリア・エル・メルヤム。聖女のアリア。

 教団には本来『聖女』と呼ばれる役職は存在しない、そうフレイが話していたことを思い出す。伝承の体現である勇者の見出し、導いた存在として崇められた彼女は、その審美眼と観察力から教団内部の顧問的な立ち位置として『聖女』という独自の地位を確立し、イス・サイラムにて教団員の管理・指導を任せられている。

 ――彼女には、見つめた人間のステータス……体の状態とか、その人間がどういう経緯を経て成長していったか、現在の社会的な立場とか……ローランに言わせるなら、魔力光を肉眼で読み取る力があるんだよ。本人は『天眼』って言ってるけど、今思うとあれは本来、高次元人が人々へアクセスするためのバックドアだったんじゃないかって思う。……意味がわからない? 神様も、被造物である人と関わり合いたかったんじゃないかってことだよ。


「その中の一つに、イス・サイラムに関する資料を見つけたんだ。魔力光を透析してみると、彼らはイス・サイラムの統合本部であるここ……エブラヒームに保管されている経典について調べているようだった」

「経典?」

「うん。だけどそれは、大部分が焼却されていた形跡があった。周りに火を放った跡はないのに、ね

 そもそも、最初から不自然だったんだ。没落しただけのフェリーペ伯の記録が、どうして工房から抹消されているのか」

「それは、皇帝に内密で人体実験をしていたからじゃないんですか?」

「実験を隠蔽したいなら、抹消するべきは研究内容のほうでしょ? でも実際、工房には実験記録が残されていて、それを指導したアデル・フェリーペの名前だけが消えている。……そこで、一つ推論を思いついた。

 アデル・フェリーペは人体実験によって失脚して姿を消したんじゃなくて、教団にとって都合の悪い情報を知ったことで消されたんじゃないかって」


 クスクスと、アリアの喉が鳴ると、大仰に腕を開いて見せた。


「飛躍させすぎじゃないかしら。たかが一貴族のために、教団がそこまでするというのは」

「それが、今の教団の支配事情を覆しかねないものだとしたら?」

「……質問の意味がわからないわ」


 ローランの質問に冷静に返答するアリアの口元は常に弧を描いている。魔力光を、人の魂を読み取るという能力をイメージすることは難しいが、彼女の応答はまるで全てを予期していたかのように一切の淀みがない。無感情的、というわけではない。今のローランに質問にしても、彼女は何かに感づかれたようにほんの少しだけ声を上擦らせているのが聞き取れた。

 でも、それだけだった。彼女は焦りを見せている。それしか読み取れないように、わざとらしく声を上げている。それに引っ張られるように、緊迫したローランの声も、どこか滑稽に思えてしまう。

 傍から見ていて、それは出来の悪い劇のようだった。

 ローランはローブの懐から、古びた本を取り出して掲げる。意匠は彼が使うグリモアによく似ているが、本の形状を模したそれとは違いそれは間違いなく古書そのものだ。

 それを見たアリアは、目を見開いて、わかりやすく驚愕の表情を見せた。


「それは……?」

「エル教の経典、コーラル・テクスタ……その原書だよ。今出回っているエル教の経典は、この原書の写本して出回っているもの……そう、言われているね」


 含みを持たせながら事も無げに言うローランを対して、アリアは震える声音に問いかけた。


「あなた、どうやってそれを? コーラルの原書はエブラヒームの奥に保管されているはず……」

「心が読める君なら、わかるだろ? まぁ、まだコーラルそのものは保管されたままだけど、ここに書かれているものは本物と相違ない」


 違和感のある言葉に、思わず意識が向く。

 原書、というからには今ローランの手元にあるのは、エブラヒームの奥で保管しているという経典そのものであることは間違いないはず。それが二つある、ということは、どういうことなんだろう。

 その証拠として、と。そんな私の疑念を知らず、ローランはいつものグリモアのように、片手で器用にコーラルの表紙を開く。そこには誰かのサインが記されたページで、真ん中には、『無銘の神において、ここに記されていることに真であり、疑わしきものはない』と大きく書かれていた。


「経典の有効性を保証するために書かれた初代教皇のサインが、こうしてある」

「……盗み出したのね。エブラヒームから」

「なりふり構っていられなくてね」

「それを、教団と対立する国に渡すつもり?」

「はは……。さすが、全部とっくにご存知なわけだね」


 でもね。コーラルを閉じたローランは、冷たく乾いた瞳でアリアを睨み付けた。


「非難される謂れはないよ。……君たちのやっていたことに比べればね」


 今まで聞いたことのない、彼の低い声音に、思わず身が竦む。

 目の前の死霊術士は何をしているんだろう。元は首都のテロリスタを鎮めるために起こしているはずの行動なのに、教団の教えを記した経典の原書を盗み出して……その意図が私には全く読み取れない。


「ローラン。あなたは、何をする気なんですか……?」

「彼はね、イス・サイラムの秘宝とも言えるその原書を、他国に渡して対立を深めようとしているのよ」


 代わりに答えたアリアの言葉に、私はさらに混乱する。


「どうして」

「アンダリュスの外の国には、別の宗教を信奉する国家もある……アンダリュスは、そんな国を侵攻した上でエル教が支配した歴史がある。

 外では、そんなアンダリュスを奪還するために侵攻の準備をしている国がいるんだ。それがこの経典と今の国の情勢を見れば、戦争の機運はさらに高まる」


 ローランの答えは、どこか答えになっていなかった。ローランの言葉であるのかすらわからなかった。

 戦争。

 この大陸で、また戦争が起ころうとしている。ローラン・エル・ネクロマンテが、それを容認しようと……それどころか、助長しようしている。

 魔王の遺志を尊ぶあの男が。


「なんで、そんなことをしているんですか……!」


 何かの間違いであれと、語気を荒げて問い詰める。しかしローランは、大きく息を吐いて、私に向き直った。

 そこには、いつもローランがいた。穏やかで、困ったように眉をハの字に曲げた、ローランがいた。


「俺だって、戦争がしたいわけじゃない。でもこうして脅さなきゃ、もうエル教の暴挙は止まらない。ロードレクの目指した共存の道が閉ざされる」


 彼は、正気だ。正気のまま、閉じたばかりのコーラルを開いた。


「かつて神代に神の力を分け与えられた王たちは、神の啓示のもとで各々の国を統治していた。しかし王の一人が、決して入ってはならない神の居城へ忍び込んだことで怒りを買い、神は地上の人々を見捨てて赤き虹にその姿を隠した。忍び込んだ王は激しく糾弾され、一族は散り散りにとなり、それぞれ魔境と呼ばれる魔素の滞留地へと居場所を追いやられることになった」


 聞いたことのある物語を、ローランは読み上げる。


「神の姿を見た者は、神の目として、そして正当なる後継者として、今後一切の不徳を正し、使徒として贖罪せよ。その者は神の丘に立ち、しかしその行いを見られることを知りなさい。

 悪しき行いには、その目を焼かれることを知りなさい」


 聞いたことのない物語を、ローランは読み上げる。


「本来これは、不信心を更生させるための記述だった。これが事実なら、亜人こそが神の使徒であり、正当なる後継者だったんだ。

 それを、写本する際に教団は改変した。亜人を大罪人として記すことで、人間たちの優位性を強調したんだ」


 我らは正当なる後継者であり、王の葉に弔慰を刻む者。

 ウォルフの弔辞を、王の葉たちの口を揃えて掲げる言葉を、ここで思い出したのは何故だろう。そうだ、私は最初から勘違いをしていた。彼らの『王』がロードレクであると、彼らが魔王の遺志を受け持った正統なる後継者であると。

 あれは最初から、自分たちが曝き、殺した神を表してたんだ。


「ロードレクは、亜人の自由のために戦った。その戦いすら、教団の改竄した経典さえなければあり得なかった……!

 そのせいでいろんな命が消えた。人も、亜人も、死ぬべきじゃない運命の者たちが消えていった!

 アリア。君がこの事実を知らなかったなんて言わせないぞ。君の天眼が、この欺瞞が見通せないわけがないんだからな!」


 コーラルを静かに閉じて、ローランはアリアに怒鳴る。

 たしかにその通りだ。亜人を憎むように教徒を育て上げていたのだとしたら、いずれエル教に属する聖騎士たちは、亜人たちを支配しようと侵攻を開始するだろう。そこに個人の意思はない。『聖騎士』という役回りが、教団によって亜人への弾圧に向かうように物語が作られていただけだったんだから。

 目の前のが、熱く燃えるように真っ赤になっていく。胸から、ドス黒い感情がこみ上げ、喉元に迫ってくる。

 そんな私を、満足したような目でアリアは眺めていた。


「ええ、知ってるわ。アンダリュスをエル教が支配する際、コーラルの一部を改変して写本したこと。それにより、亜人への弾圧が強まるように扇動したこと。

 教団の本部は、全部承知の上でやっているわ」


 思考よりも、行動が勝った。

 気付けば私は大股でアリアに近づき、腕を大きく振りかぶって横に薙ぎ払う。乾いた破裂音と、手のひらに痺れる痛みを宿しながら、アリアの頬に向かって振り抜いた。

 勢いのまま床へ倒れるまでの間、アリアの薄氷の瞳はずっと私を見ていた。顔をわずかに傾けて、叩かれる頬を差し出したかのようにすら見えた。そんな見え透いたような態度に、胸の内の炎が収まらずに燃え上がった。


「ふざけないでください……! あの戦争さえなければ、父は死なずに済んだのに、あなたにはそれを知ってて見逃したっていうんですか!?」

「ええ、そうよ」

「何故ですか!? 人が大勢死ぬことを回避できたはずなのに! あなたは、エル教は! 現世の神にでもなったつもりなんですか!?」


 怒号が響く部屋の中で、アリアはゆっくりと立ち上がって、張り付けた笑顔をこちらに向ける。

 空虚。間近で見た彼女の顔には、実際何も写っていない。全てが他人事のように、ただ言われたことをこなしている。そんな虚無の表情だった。

 ならば、次の台詞は必然なのかもしれない。


「だって、私の役割じゃないもの」

「は……?」

「ここに来たからには、あなたたちも気付いているのでしょう? この世界は観測することで作られている。だからこそ、私たちは観測者の認識から……運命と言い換えられるそれから、逃れることはできない」


 彼女の言うことに困惑するなかで、私は今まで見てきた勇者の一行たちを思い出す。あの防衛機構とその仲間らは自分なりに、この世界を守るために今の今まで尽力していた。その過程で苦悩し、痛ましいほど傷つき、挙句には自らの形すら失っても平穏を願う者だっていた。薄ら笑いを浮かべた聖女は、本当にそんな勇者たちと旅をした者なんだろうか。

 なんて、無責任な人。嘘つきのほうがまだマシだ。


「あなたの言う通りよ。少なくとも今、この瞬間、アンダリュスにおいては、エル教こそが神であり、秩序をもたらす役割がある。あなたにも心当たりがあるでしょう?」

「そんなの、あるわけないでしょう!?」

「ならどうして、あなたは勇者に成り代わろうなんて思ったのかしら?」


 何故? それは勇者というものが、人々に必要だからだ。誰かがその役目を負わなければならないなら私は――、

 ここまで考えて、ぎくりとなって顔を俯かせる。目を合わせまいと視線を下ろすが手遅れだった。

 アリアの双眸がわずかに狭まる。彼女には私の考えが読み取れる。内心に口を閉ざす事はできない。


「そう、それが魔王のするべき事だって、思ったからでしょう? あなたの意思ではなく魔王として、あなたは呪いをかけた勇者を哀れんで、『魔王』という存在がするべき贖罪のために勇者の代わりを提案した。そこに自分の意思なんてあった?」

「違う……!」

「否定しなくていいのよ、何も悪いことじゃない。だってこの世界に生まれたからには、みんな生まれてきた意味があるのだから」


 そう語るアリアの口調は、努めて穏やかで……空の箱を転がすように軽い。諭すように語られる言葉の一つ一つが、薄っぺらく感じるのはどうしてだろう。

 きっと実体を伴わないせいだろう。彼女は、勇者とは真逆だと初めて悟った時、私はその答えに辿り着いた。

 形を無くしても心のあり続ける被造物と、形あるままに心を空かした被造物。


「私は、この天眼を通してずっと見てきた。人の運命のその行く末、逃れられない苦役……。それが最初から決まっているのなら、この感情になんの意味があるのかしら?」


 私の心に、アリアはずけずけと回答を切り込もうとする。今まで味わったことのない気味の悪さに鳥肌が立ち、思わず彼女から距離を取ってしまう。その様子に、またアリアは喉を鳴らした。

 そんな彼女と私を遮るように、ローランが割って入ってきた。


「自分は役割を全うしただけだから、関係ないとでも言う気かい」その声は依然低く、非難がましい雰囲気が背中から伝わってくる。

「君は死んでいった命を、なんとも思っていないのか」

「ええ、みんな死ぬべき運命の中で、命を全うしていった。……死霊術士ならわかってくれるはずだけど、あなたには無理ね」

「そこまでして、エル教は守るべきものだって言うのか」

「そうよ、ローラン。誰もが強いわけじゃない、弱者を守るために法と秩序があり、今それを司っているのがエル教。ただそれだけの話なのよ」


 弱者を守るために。

 誰もが遺志を正しく継げるほど強くない。この旅で思い知ったことだ。


「でも、今のエル教では亜人は救われない。いいや、エル教が真実を認めない限り、王の葉たちが止まることはない」

「それでもいつかは救われる。それは今じゃないし、エル教ではない……かも、しれない」

「いつかっていつだよ……!? こうしている間にも、ハヌクリアで首都の一角は吹き飛ばされているかもしれないんだぞ! 束の間の栄光がそんなに大事なのか、アリア!」


 いつになく激昂したローランは、結晶杖を握り込んで口調を荒げる。

 それでもアリアは微笑を崩さないまま目を伏せて、わざとらしく頭を振った。


「あなたの言いたいことはわかる。いずれは無銘の神々も、別の神に取って代わる。そうしている間にも魔術が世界の理を解明して、神の神秘性は曝かれ、人の心から失われてくる。今は聖女をしている私だけれども、近い将来魔女として迫害されるかもしれない。

 そうやっていつか、人は神を手放す時が来る」


 神が人を見放すのではなく、人が神を見放す。形のない神は、そうすることで初めて死ぬ事ができる。

 問題なのは、神と呼べるものが、本当にこの世界にいるのかどうかじゃないんだろうか。

 ローランは前に言っていた。この世界は魔力によって構成されている。そして魔力を構成しているのは魔素と聖質である。ならば、この魔素と聖質は……この世界にあまねく事象の根源とはいったいなんなのか、今の魔術士は考察できていない。


「確かなのは、どれだけ技術が進んでも私たちを作ったものがいることで、その者の観測が生み出す運命から脱却することすらも、大きな舞台の上の演出でしかないということだけ」


 ローランの転移魔術が、それを証明している。今、どこかで誰かが、このやりとりを見ているから、この世界があると。

 そこには個人の意思も、故人の遺志も伴っていない。ただ観測者の目に映るものだけがある。


「だからって、死んでいく者たちを救わない理由にはならない。少なくとも、亜人たちとの対立をこれ以上助長させるわけにはいかないんだ。そうじゃないと――」

「わかってるわよ」


 でもね、と。アリアは私に視線を合わせる。


「ローラン。あなたがそれを壊そうとしていることだって、舞台の脚本に組み込まれているのよ」


 ふいに、アリアの喉元が怪しく光った。

 それが聖痕の光だと認識すると同時に、首筋に強烈な電流が走った。


「かっ、あっ……!」


 中の筋と骨を引きずられるような痛みに、体が仰け反る。頭の奥で耳鳴りが響き渡ると、気付けば顔には床の固い感触があった。


「アルッ!? アルッ!!」


 遠くの方で、私を呼ぶ声が聞こえる。ローランの声だ、こちらに駆け寄る靴の音も薄ぼんやりしているのか、何層にも重なって聞こえる。

 さっきの電撃のような痛みはなんなんだろう。似たようなものを、どこかで受けた気がする。集中しようにも、頭に霧をかけてくる。首元に埋められた何かに、思考を阻害されているようだった。

 思考……イメージの阻害。福音。

 徐々に、自分に何が起こったかを自覚し始める。そうだ、教団には発声型の再現奇跡がある。原理は魔術と同じだが、声帯に聖痕を刻むことで発動する無音の術。そんなものをどこで受けたかは、明白だ。


「ろー、ら……」


 近くに、ローランの気配を感じる。イメージをそのまま魔術にする私にとって、思考を直接阻害する福音の奇跡は天敵にも等しい。それを知っていて、アリアは私に奇跡を発した。

 あの時と……クリスタロボの城で対峙したときと、同じように。


「あなたが完全に魔王の力を継承していれば、ここまでは効かなかったのに……」


 また遠くの方から、声が聞こえる。仮定の話をしているようで、確信的な口調が苛立ちを募らせた。段々と痛みは薄れ始めてきているが、未だに感覚が乏しく視界が曖昧だ。靴音も複数鳴っているようで、耳鳴りはさっきよりもひどくなっていく。


「アリア! 君は、最初からこのつもりで……!」

「わかっているでしょう? 私を相手に、事前の小細工が通じない事なんて」


 ふわりと、上体から浮遊感が襲う。誰かに起こされている。触媒の匂いが鼻につく、きっとローランだろう。


「第三者の観測下では、あなたたちは転移を使えない。しばらくはエブラヒームの地下牢でおとなしくして貰うわ」

「ふざけるな! 首都は、ゴルドバはどうなる!」

「心配しなくても、問題ないわ。また人が死んで、争うだけよ」

「アリアッ!!」

「あなたたちに恨みはないの。本当よ? どう感じても、結末は変わらないもの」


 憤怒しているローランの声が聞こえる。それに反比例するように、冷淡なアリアの声も。

 一度目をきつく閉じて、はっきりと見開く。ややぼやけた視界ではあるが、ようやく視覚が戻ってきた。

 そうして戻ってきた光景を前に、息が詰まりそうになる。残響していた靴の音は、聖騎士のものだったらしく、周りにはどこから現れたのはフルフェイスの兜を被った無機質な鎧が円を囲んで槍を構えている。その奥で、アリアは口元を押さえながら張り付けた笑顔をこちらに向けていた。

 全部、予見していたことだったんだろう。ローランが来ることも、私が来ることも。

 歯を食いしばって、ローランの腕から離れようとするが、力が入らない。思った以上に、アリアの福音は強烈だった。辛うじて首を動かしてローランを見やると、彼もまたグリモアを片手を摩りながら冷や汗をかいている。


「……アル」


 ふと、ローランは小さく私に呼びかけた。


「俺を、信じてくれるかい?」


 顔を伏せたローランと、目が合う。

 緊迫した面持ちで真っ直ぐこちらを見ている。

 信じる。裏切られた死霊術士を、また。いいや、もうわかっている。彼は裏切り者で、嘘つきでもない。信じられないのは、私の心が、裏切られていることに慣れていないだけだ。

 喋ることのできない私の、無言の主張に何を感じたのか、ローランは一旦大きく息を吐いて、呟くように私に言った。


「俺を殺せ、今すぐに。いつもみたいにだ」


 思考が、一瞬だけ止まる。しかし、少し考えればわかることはあった。

 アリアの福音によってイメージを妨害されていても、固定されたイメージを想起することはできる。何度も、何度も何度も殺したローランのイメージなら、間髪入れずに行うことができる。

 だが、何故? と思う、これもまたすぐ思い至る。

 何故だかはわからない。だから、ローランは言ったのだ。

 信じろと。

 イメージは一瞬だった。ローランが馬鹿なことを言ったとき、父への憎しみが抑えきれなくなったとき、照れ隠しにやったこともある、その一撃を練り上げて、ローランの顔に向けて放った。

 鉄をぶつけたような撃音の後で、視界が真っ赤に染まる。口の中に、鉄の味が広がる。

 次の瞬間、背中と胸に、衝撃が走った。頭を潰されたローランが、私ごと倒れたんだと気付くまでに時間はかからなかった。

 それで、どうなるんだろう。ローランはどうやって、この状況を打破する気なんだろう。

 カチン、と小さな音が鳴った。それは何かを爪で弾いたような、軽く不可解な音だった。

 いいや、音かどうかもわからない。今にして思えば私が、この感覚をそういう風に錯覚することでしか受け取れなかっただけかもしれない。

 光と物質が衝突する音なんて、聞いたこともなかったから。

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