十八 安堵する場所
玄関で深々と頭を下げる鼠達に見送られ、漸く帰路に着いた朧と椿。
辿り着いた家。永く離れていた訳でもないのに、やっと帰ってきたと息を吐くと、いつもの縁側に二人並んで腰掛けた。
月明かりもないそこは暗闇なはずなのに、縁側から見据える景色は二人の目には確と写っていた。
賑やかしさから一転した静寂の夜。虫の音もない、無音の夜だ。けれども、今ではそれが当たり前の椿にとって落ち着く場所にもなっている。その落ち着く場所、落ち着くヒトの隣。朧に寄りかかり、
「疲れたか?」
「……うん、少し」
椿は気を紛らわせるように頬を朧の着物へと
擦り寄るよりも更に近い。相変わらず、胸板に耳を当てても、心の臓から鼓動を刻む音は感じられない。朧の身体もまた、時が止まったかのように静寂の中にある。
それでも擬似的なのか、朧の記憶なのか、体温らしき温もりはあるのだ。それこそが、椿にとって必要不可欠な心地と言えるだろう。
「子供の事、まだ気は紛ないか?」
「……手を……伸ばさなかった事が正しかったのかどうかが答えが出ないだけ」
堂々巡りのような考えが、いつまでも離れない。善悪で生きているわけでもないし、椿が何をしたわけでもない。陰なる世界に踏み込ませてはいけないと考えたからこそ手を引っ込めたのに、後悔が抜けないのだ。
「椿は考えすぎだ。俺から言わせれば、お前はあの子供の望みは叶えたと思っている」
「望み?」
「ああ、あの子供はこれからどうすれば良いかわからないと言っただろう。その問いにお前は答えた。何事もない日常があり、母に恥じぬように生きるだけだと」
無情にも言い放った言葉ではあった。けれども、朧はそれが真実だと言う。
「それにあの子供は助けを求めるよりも、罰を望んでいた。取り残された今、人を殺めそうになった意味を考え、その後の選択は自分で決めるだろう。それ以上はお前が関わるべきじゃない」
淡々と言い放って、大きな手が椿の髪を梳った。それこそ、幼児をあやすようにゆっくりと。
「そうね……」
椿は包まれた腕の中で瞼を閉じる。微風が通りすぎ、泰山木の純白の花から香りを運んで鼻腔をくすぐる。甘い香りで辺りが華やいで、夜の領分を包み込んむ。
甘い香りに誘われるように、髪を梳っていた手が、椿の頬に添えられる。ほんの少しの力が入ったそれに、胸板に当てていた顔が上へと向く。
穏やかな容貌が椿を覗き込んで、降りてきた唇が椿のそれと重なった。
甘く蕩けるような情愛に良いしれて、口付けは段々と深くなる。ようやく唇が反れたかと思えば、再び朧の腕に抱き締められていた。先ほどよりも更に強く。
「俺は、お前の心根までは完全に理解してやれない。親無しってのもあるかもしれんが、お前のように同情をすることもないし、あの子供の生き死にも俺にとっては意味のない事だ」
一見、冷たく言い放つが決して椿を抱きしめる力は緩めない。
「だから、俺がしてやれるのは
そう言って、見上げる椿の唇にもう一度口付けを落とす。殊更に愛おしく。
椿の中で、少しばかり蟠りが溶けたような気がした。朧は無情にも語ったが、彼の生きた時間が作り上げた感情なのだ。
朧が椿に同意できないと言ったが、否定はしなかった。
椿もまた否定はしない。互いに補い合うように、身を寄せて夜の闇の中へと沈んでいった。
◆◇◆◇◆
夜が明けて――と言っても、領分は夜で満たされている。なので、結局は暗闇なのだが――その目覚めと共に椿は縁側に座る夫の姿を捉らえると同時に黒釉の茶器が視界に入った。
ただ、昨日ほどに何か思う事もなく、姿美しい茶器程度の感想しか浮かばない。そして朧はと言うとその茶器を前にして構えて、何やら考え込んでいる様子だった。
着崩れた寝巻きを申し訳程度に整えて、朧の隣に座り横を覗き込めば、顰めた顔が露わになる。その目線は、茶器を睨めつけるように見つめていた。
「……それが、報酬だったの?」
「あと、あの鼠の家だ」
まだ報酬の事を何も知らされていなかった椿は目を丸くする。白鼠が眷属になった事も朧はついでのように口にして全貌を初めて知ったのだが、椿も朧の眷属と言う立場だからなのか、「そう」と一言納得するだけだった。
「此処でご飯が食べれるのは嬉しいわね」
と、ふわりと笑う。
まあ、その理由としては朧も椿もその手の家事なるものが殆どできないのもあった。何せ椿は生粋の箱入り娘であり、朧に至っては雑にしか生きていないと言ってのけるほどで、「湯を沸かして焼くぐらいならできる。味は保証しない」だそうだ。
「家は大きくして、少し離れた所は畑にして、あとは鼠共の離れを創るつもりだ」
静かな箱庭が、なんとも賑やかしい様子へ変わりつつある。朧が遠方まで視線を伸ばしながら、箱庭の形を整えようと思考を巡らせる。
「……それで、この茶器はどうするの?」
以前は祭壇に祀られていた茶器だ。朧の領分にあれば、探られる事もないであろう代物ではあるのだが、鼠の誰から触れないと言う保証もない。
「ああ、それな」
朧は、今の
「壊すの?」
「まさか、この手の道具は簡単には壊れない。だから――」
朧の身体から靄が出た。ずんずんと黒いそれは、朧の掌の上で広がって茶器を飲み込んでいく。ゆっくりと、その形を覚えるかのように包んでいき、そして――靄が消失すると共に消えてしまった。
朧の内に取り込まれたのだろう。何も無くなった掌の上を、朧は見つめ続けた。手を動かす事もなく、じっくりと他人の手でも観察しているかのように動かない。その姿に椿は心配になり、そっと朧 の肩に手を置いた。
朧の決定に反意はない。ただ、朧が以前言っていた、人らしく生きたいと言った言葉から遠ざかっているようにも思えて、少し怖くなった。
「どうした?」
そうやって振り返った朧は変わらず赤い瞳のまま、柔らかい笑みを浮かべていた。
いつも通りの朧に椿は静かに安堵し、首を振る。
「あと二、三日したら、賑やかになるな。そうしたら、きっと家ではお前を鼠達に盗られる」
唐突に言い放った朧は椿を畳の上で座るように促す。崩した足の上に、朧は遠慮なく頭を乗せた。
「今のうちに堪能しておかないと」
椿の心中を察して慮った言葉だったのかどうかは、わからない。ただ、本当に何も変わっていない夫の姿がそこにある。
その温もりを慈しむように、椿のか細い手が幾度となくその黒を撫でていた。
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