四 忌避

 ◇

 

刀根田とねだ村の村長から、良い話が来たんだよ」


 何とも愉しげな中年女の声が椿へと届いたのは、葉月も終わりの頃だった。


 夕暮れ時のひぐらしの鳴き声。それに混じった中年女の声に椿は思わず顔を顰める。

 声の主は、椿にとって叔母に当たる女だった。叔母と言っても、椿の両親が他界した際に、中年女が叔母を名乗っただけで本当に叔母かどうかも分からない。しかも、葬儀の手配やら何やらを取り仕切ったかと思えば勝手に椿の後見人を名乗り、今では椿の両親が残した店の女主人を気取っている。その上、盲目の椿を家の奥に押し込んで病に伏せっていると勝手に言いふらして、だ。

 出会ってから数年と経つが今だに身内という感情は一切湧いていなかった。


「椿を養女に欲しいんだとさ」


 その女が嬉々として語る相手は同じく店の主人を気取っている叔母の夫だ。

 

「……なんでまた。どこでの事を知ったんだ?」

「あそこの村長と兄さんは昔からの知己だったんだと。椿の事も知ってるとさ。、何も言わずに寄越せとさ」

「大丈夫なのかよそれ」

「あっちも都合があるみたいさね。金は弾んでくれるとさ」


 何でも、ある時突然現れた刀根田とねだむらの村長は神妙な顔で、突如話を持ちかけてきたのだとか。


「何にせよ。これで邪魔者を消せるってもんさ」

「全くだ。あの娘が嫁にでも行ったとでも言えば、番頭も大人しくなるだろうよ」


 うんざりとした声と嘆息が二人から嫌みたらしく垂れ落ちる。

 叔母夫婦が店を取り仕切り初めて多くの下男下女が変わったが、番頭だけは椿を心配してか店に残ったままだった。椿は表に出る事どころか外から鍵を掛けられた部屋からも出る事は許されない為、葬儀以来番頭とは会えていない。

 時々、椿自身を心配する番頭の声だけが、椿にとっての唯一の救いと言えただろう。

 

 椿の部屋は、二階の端。日は当たるが、小さな四畳半程度の小さな部屋だ。幼い頃は何に使っていたかも思い出せないそこに、椿は両親が死んで暫くして押し込まれた。

 生かしている理由は、姪を殺す程の悪人では無いと言う事なのか。病の姪御を養っているという名目故か。

 食事は与えられるが、自由はない。そんな椿の出来る事といえば、を使って、声を拾う事ぐらいだった。

 

 

 そう。本来なら、今いる部屋からは叔母達の会話は本来では聞こえない距離だ。

 きっと、誰もが椿がとは露の程にも考えてはいないだろう。

 椿にとって、世界は暗闇でしかなかったが、いつだって周りは耳を塞ぎたくなる程に騒がしかった。


 まあ、聞こえていたのは人の声だけとは限らなかったのだが。 


『隣町といや、人を喰う――がいるって噂だな』

『そうそう。――は、十年に一度、人を喰う』

『あそこの作物は、人の命で出来ている。みんな、うまいうまいと言って米を喰うんだ』

『――は、どうやって人を喰うんだろうな。さぞや痛いだろうなあ』


 椿の耳元に話しかける声。それが何かを椿は知らない。ただの暇つぶしに椿に語りかけたり、脅して反応を愉しんだりと、椿にとって世界はただただ騒々しいばかりだった。


 椿はそれまで姿勢正しく座っているだけだったが、ずるりと姿勢が崩れ、疲れたとでも言わんばかりに畳の上に寝転がる。

 耳をすませると、妙に身体が重くなる。特に、何かわからない声を聞いた時は。 


 ――静かな場所に行きたい。お父さんとお母さんと同じ場所に……


 椿は瞼を閉じて父と母が自身の名前を呼ぶ声を繰り返し思い浮かべた。優しかった二人の声音は、今でも鮮明に思い出せる。その声を思い出す度に椿の思考は孤独に飲み込まれ、脳裏には死ばかりが思い浮かんでいた。


 

 ◇


 

 ぼんやりと一週間以上前のが鮮明に夢に浮かんだ。

 古びた畳の所為だろうか。結局は閉じ込められていると言う状況が、椿の覚醒を阻害した。が、昨晩の霰もない自身の声がポツリポツリと記憶に呼び起こされて次第に意識と身体は飛び起きた。

 しかも、飛び起きた影響で身体に掛けられていた着物がずるりと落ちる。かもしれないと言う状況で、更に椿の顔は紅潮した。


 椿は慌てて着物やら帯やらを手繰り寄せていると、背後から声が届く。


「起きたか」


 昨日よりも更に鮮明になった男の声に、霰もないままの椿を背後から抱きしめていた。その感触も、温もりも、更に人に近づいた感覚がある。

 あるが、気配は朧げで、良く分からないものだった。

 そうだ、このと自分は一夜を共にしたのだ。酒の勢いのまま行為に飲み込まれた自分を恥じて、椿は耳まで紅を塗りたくったように赤く染まる。

 よく知りもしない相手どころの話では無いのだ。


?」


 椿は動けない状況でも何とか恥部だけでも隠そうと必死だったが、が放った言葉でそれも止まった。


「何故、私が夢をと……」

「俺がお前の記憶を辿ったからさ。まあ、何もがな。お前の話は真実らしい。目は見えないし、死にたがっていた。そして、耳だけは妙な力があったようだな」

「……子供の頃から、凡その声は聞こえていましたから」

「だから、俺の声も畏れなかったのか」

「どうでしょうか、覚悟していたから……かもしれません」


 椿は今も覚悟を抱えたままか、言葉を口にするだけで顔は前を向いたままだった。

 

「……それで、私の事は食べないのですか?」


 椿は何となしに背後に居るはずのへと首を向ける。その行為に意味は無い。

 椿の視線は定まらず、本当に背後に感覚があるだけなのだ。


 だが、落ち着きようは堂々としたものだった事だろう。

 着物を手繰り寄せて隠された裸体は、今も隠しきれていない部分が扇情的で艶かしい。

 晒されたままの肩から首筋にかけてが這うも、喉を鳴らしてくつくつと笑う振動が、伝う感覚と共に椿にも流れていた。


「喰らうなど勿体無い事が出来るわけないだろう。今までの贄は、どいつもこいつも俺が一言でも話せば喚き散らして暴れるだけだった。俺の声が聞こえる者は初めてだ。会話も久しくしていなかった。そう易々と手放すものか」


 その声は何とも愉しげで、何かを欲しがる様はに近いものがある。

 

「では、七日目には?」


 椿はそこに居るであろう相手にを向ける。己が意思が固い事を。過去を知ったのであれば、外の世界が如何に地獄であるかを。

 も判別できない、暗闇の存在に椿はただ懇願するだけだった。


「そう、急くな。まだ、だ」

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