十六 巡り合わせ

「巡り合わせというものが、この世には存在します」


 此処は、ではありませんが。と自嘲気味に雲水は笑うも、朧は顔に翳を作って反応を見せない。


「私は、貴方様が家に入った瞬間に、主人が帰ってきたものと思いました。身姿、声、御力、名前、何一つとして覚えていないのにも関わらず、私の中の記憶がそう思い込んだのです。この家を、茶器をお返しする時が来たのだと思ったのです」


 だから、何としても茶器を取り返す必要があったのだと、雲水は力強く言った。が、続く言葉には、しゅんと背中を丸めた。


「なので、子供を巻き込んだ事で奥様を悲しませてしまった事に関しては反省しております。あれ程、人に寄り添う方とは露知らず」  


 反省する姿を見せる雲水は、さらに続けた。


「茶器も家も、揃えてお返し致します。もう二度と欺く言葉も態度も決して無いと誓います。どうか、古いえにしの巡り合いに免じて、私を眷属としてお迎えして頂きたい」


 雲水は、最後の一手として座布団を降りて平伏して見せた。これ以上、何も出すものはない。

 それまで、話しを聞いていたのかどうか。何も言葉を発しなくなった朧は、突然ぴんと張っていた糸が切れたように、「はああぁ」と大息をつくと頭を支えられないと言った様子で、胡座をかいた脚の上に肘をついて項垂れる。


「お前、俺がその主人だと思ってるのか」

「はい」

「多分違うぞ。俺は、三百年前までただの人間だったんだ」

「桃源郷の話でしたら、噂は耳にしております。呪術で創られた紛い神があるとか」

「なら、」

「ですが、呪術だけで意識ある存在など創れません。貴方様の中核たるものが存在したはずです。その中核が主人の残した何かでなかったとも言い切れない。なにぶん、狐の領分は下手に探ると辰狐王しんこおうの怒りに触れますので、それ以上は知れないところにあるのですが」


 朧は顔を上げて目を見開く。


「茶器の他にも、主人の残した遺物は存在するでしょう。勿論、主人以外のものも。貴方様はその一つの力を受け継いだのではないでしょうか」

「……ってことは、お前は偽物の主人に支えたいって言ってるも同然になるけどな」

「先ほども言ったとおり、私が信じているのは巡り合わせです。この家に反発を見せない貴方様がここに来た事には意味がある」

「俺がここを訪れたのは、椿がお前らの声を拾ったからだ」

「では、奥様に感謝しなくては」


 それもまた巡り合わせの一つ。私の主人になるべき方を導いてくれた。そう言った雲水は胸を張り、これまでにない満足な様子を見せていた。


「お前、俺が嫌だと言ったらどうする」

「……野鼠に戻ります。仕方がありません」


 と、威風を見せた様子から一転、態とらしく目元に手を当てて、めそめそと泣き真似をして見せた。朧相手に通じる手段では無いのだが、己が悪人にでもなった気分にはさせてくれる。            

 少々腹立たしい姿ではあったが、朧の腹はすでに決まっていた。


「お前、情報を拾うのは得意だな」

「はい。鼠達を使いますので。ただ、手広いですが少々雑多なものになりますが」 

「条件は、先ほどお前が言っていた通り。虚偽を述べた時点で終いだ。俺がお前を喰らっても文句は言えないと思え」


 これは、脅しだったのが雲水は、臆する事なく「はい」と返事する。


「それと、飯炊きできる鼠はいるのか?」

「ええ、おります」

「ならば、畑を耕せるものは」

「まあ、知識を集めて学ばせれば。貴方様の眷属になれば人に変じる鼠も増えるでしょうから、効率も悪くはないはずです」


 そうか。と朧は一人納得する。


「ならば、領分にある家の管理も任せる。俺と椿はよく家を空けるからな。戻ってきた際は、町と同じく飯が食いたい」


 まあ、腹は減らんのだがな。と静かに付け足した。


「出来る限り、椿に人らしい生活を送らせたい。今の領分では異界に棲まう感覚が抜けんのだ」

「お任せください」

「それと……さかずきと酒はあるか?」

「用意させます」


 恭しく頭を下げる白鼠。

 朧は初めての配下に心躍らせることもなかった。元々そう言った気質でないのもあるが、ただ静かに、巡り合わせとやらを受け入れていた。




  

 

 用意されたのは、黒漆の盃であった。

 縁取りは朱塗りで、底は金箔が散りばめられて、如何にも高価である。酒が注ぎ込まれたのなら、ゆらゆらと揺れる水面の如く金箔が煌めいた。


 器は何でも良い。契約の形を成してさえいれば、滞りなく事は済むのだ。ただ、同じ器で酒を飲むだけとも言えるが――所謂、盃事さかずきごとである。


 朧は、盃の中をじいっと覗き込む。満たされた盃に自分の顔が水鏡に映り、赤々とした瞳がこちらを見やるその姿。妖、怪異、紛い神。そう言った言葉が似合う存在であると主張するその瞳は、疑心で溢れた眼差しで朧自身を睨めるのだ。


 ――これはなのだろうか

 

 己の顔を覗いて、そんな言葉がポツリと脳に浮かんだ。何も、そんな事を考えるのは今日に限った事ではない。朧は、これが本当に自分の姿なのか確信が持てなかった。

 まあ、今日ばかりは雲水の言葉に影響されたのも大きいだろうか。


『呪術だけで意識ある存在など創れません』


 以前にも松柏しょうはくに何かが混じっているとは言われていたのだが、こうもはっきりと己は呪術の延長で創られた紛い神と言われ余計に疑心は深まっていた。

 何よりも、朧は時折浮かぶ考えが自分のものではない気がしていたのだ。


 その一つが、この契約の手法。

 何故、これが契約と知っているのか。


 ――椿と酌み交わした時も、あれが正しいと理解していた


 一体、これはだと言うのか。己に対する猜疑心は募るばかりだった――が、物思いに耽るように盃を見つめていたからだろう。


「どうされましたか?」


 僅かに目線を上げれば、白鼠が怪訝な顔で髭を揺らしていた。


「…………いや」


 何にもないふりをして、朧はそのまま盃の中身を喉へ流し込んだ。ゴクリと喉を潤したその味は、猜疑心に埋もれたままでは今一つだ。が、まあ契約には何ら関係ない。

 朧はその盃を雲水の前に置くと、徳利から酒を注ぎ込んだ。並々では多すぎる。身体の大きさに見合った、一割にも満たない程度。朧からすれば味もわからないような量を前にして、雲水は畏まる。

 その身には大きすぎる盃を両手で持ち上げて、ゆっくりとではあったが飲み干していく。なかなかの飲みっぷりで、飲み切った後には「ぷはあ」と大きく息を吐いた。


 少なくしたとは言っても、相当な量であったはずなのに、雲水の顔色は何一つ変わらない。いや、鼠だから変わっていないように見えるだけかもしれないが、雲水はこれと言って酔っているような素振りもなく。「感謝致します」と言って、また平伏して見せた。

 これで契りは交わされ、二人は晴れて主従の関係になった訳だ。


「……どうされました。まさか今更、契約破棄なんて」


 契約が結ばれた側から、そんな事言いませんよね⁉︎ 慌てた雲水が盃から身を乗り出して朧に詰め寄る。


「今更言うか」

「では何かお悩みでも?」


 朧はもう一度盃に酒を満たしてもう一度水面を覗き込む。


「いや……」


 揺れる水面の己を消すように、朧はもう一度、盃のそれを流し込んだ。

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