第二幕 山桜の水鏡

一 春は何処や①

 薄紅の花の蕾が、春のしらせとともに開き始める。


 春の象徴とも言える桜の花。

 穏やかな陽気に当てられた鶯が桜の木に止まり、春の始まりを囀り歓迎する姿は正にそれと言えるだろう。

 賑やかしい命芽吹く春とは、心弾ませるものだ。人も、動物も、山に棲むものもまた――――

 

 春の初めの時節。とある地方で田圃にはせきを切って水が引かれていた。この時期は、田植えの始まる季節とは言い難い。だが、この地では桜の開花と共に一斉に田に水を張る事で、田園地帯には水鏡が辺り一面に広がり明媚な景色を映しだす。

 

 これが青々とした新緑に混じって山桜の花が開く時期と重なり、水鏡に山を映した景色が実に壮観である。

 田園地帯の何も無い平地ではあったが、近くの丘の上には茶屋があり丁度水鏡を一望できるとあって、近くを行く旅人もついついその道を通って茶屋へと赴き腰を据えて景色を眺めたと言う。


 絶景かな、絶景かな。

 

 この茶屋では通年、水鏡以外でも様々な景色が楽しめると評判だったが、その言葉がぽろりと溢れるのは、やはり見事な山桜の時期だけだ。


 そんな絶景と噂の地だったのだが――――


 


 


「何だか、枯野みたいな山だなあ」


 とある男もまた、旅路の途中で名所へと立ち寄ったところだった。


 山桜の見頃の季節であったはずなのに、生憎の雨がしとしと降っていた。そればかりは仕方がない。山だけでも一目拝んでおこうと、村からはそう遠くはない茶屋まで傘をさして向かってみるも、山は新緑どころか秋暮れた枯葉散る様相である。ほっそりとした枯れ枝が力無く広がり、寒々とした山肌が丸見えになっていた。 


 季節を間違えただろうか。卯月も始まったばかりだというのに、山を見ていると冬でも思い出せそうで、男は茶屋の外に置かれた幾つもの縁台の一つを占領して注文した温かい茶を啜る。本来なら、男が座る席からは壮観な景色が見えた事だろう。しかし眼下にあるのは枯野と化した山。

 水鏡に映る姿も、何とも寂しい景色である。

  

 当たり前だが店は繁盛しているとは言えず、男と同じように呆然と山を見る者が一人いるだけだった。

 場所が違ったのだろうか。男は店主に追加の注文がてらに山桜の話をしてみると、此処で間違いないという。ただ、昨年あたりから山の様子が変わってしまったのだとか。

 しかも、ここ最近人が消えていると言う噂があるのだという。そのどれもが男ばかり。男は、成程と安易に頷く事もできず、話をした茶屋の店主に礼を言って店を出た。

 山に用事も無いとすれば、目的はただの旅路に戻る。宿をとっていた旅籠へと戻ろうと傘をさした時だった。



『――――』



 山に背を向け、今にも帰る一歩を踏み出していたところ。そのはずなのに、後ろ髪引かれて男は振り返る。

 しとしとと降る雨が傘に当たって、ぽたぽたと音を奏でる。その音に紛れて、声がしたような。男は首を傾げるも、これと言って視線の先には何もない。

 はて、聞き間違いであったか。そう思い、もう一度視線を帰りの道へと戻した――が。


「……あんた、誰だ?」


 男の目の前に、淡い薄紅――桜色の衣を纏った女がにこりと笑って立っていた。濡羽色の長い黒髪は、艶めく様が美しい。だが、白粉おしろいでも塗ったように白い肌と切れ長の鋭い目が、死人でも目にしているように気味が悪い。


『あんた、山はあっちだよ。忘れちまったのかい?』


 薄墨のごとく、ぼんやりとした桜色の衣の袖から、死人のように白い手が男の背後を指す。その指の先にあるのは、枯れた山だけだ。


「人違いだ。俺は、あんたの事は知らない」


 男は女の横を突っ切ろうと、そのまま歩きだした。本当に、その女の覚えが無かったのだ。この辺りも大事な文を届けるついでに訪れただけ。

 そのまま男は女の横を通り過ぎ、背後は見ずに足早に歩いた。

 桜色の着物の女が無性に恐ろしかった。女は雨が降る中、田園地帯で裸足。着物も髪も、濡れている様子もない。何よりも一等恐ろしかったのは――――


『あんた、山はあっちだよ』


 横を通り過ぎた筈の女が、再び男の目の前に立っていた事だった。

 生気のない顔でニタリと笑って。

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