二 春は何処や②

 雨季にはまだ早い、卯月の初め。

 とある宿場町の旅籠はたごの二階。椿は窓辺に頬杖つきながらしとしとと降る雨を眺めていた。

 頬を膨らませ、雨を相手取って不満でも撒き散らしそうなまでに、じっとりと睨む。その目線の先は新緑とはかけ離れ、宿場町を南に行った山だった。

 正確には、は泊まった旅籠はたごからは見えやしない。だが、視線の指す方角だけで、どれだけ楽しみにしていたかが窺える程に怨みがましさが滲んでいる。


「残念だったな、山桜が見られなくて」


 その様子を面白がっている男が一人。うっすらと笑みを浮かべて、窓の外を睨む妻の不貞腐れた顔を観察している夫――朧は、妻――椿が手の届くすぐ側で寝そべっていた。

 湿気を吸ったジメジメとした畳の質感も気に留めず、だらりと寝そべる。しかし目線だけは妻に釘付けの状態で、鬼灯ほおずきのように膨らみ色づいた頬を、突いてやろうとでも考えているのかもしれない。

 揶揄っているわけではないのだろうが、腹の虫の居所の悪い椿にとって、朧が面白がっている姿が少々腹立たしい。


 流し目に見やって朧を睨んでいた椿だったが、朧の姿にいつまでもありもしないものに気取られているのも馬鹿馬鹿しいと窓から背を向けた。


「……折角、南くんだりに此処まで来たのに」

「仕方がない。山が枯れたとあっては、山桜も咲かないだろうよ」


 景色すら諦めた妻を前にして、朧はさらりと寝転べていた上体を軽く起こす。気怠げにずるずるりと身体を椿の側へと引きずり、無遠慮に頭を膝の上に置くと殊更満足といった様子。不満を晒す妻とは真逆の夫の顔に椿はまたも頬を膨らませるしかない。


「明日は予定通り、に帰ろうか。また、山が戻れば観に来れば良い」


 口が動くと同時に朧の手が枕にした膝へと手を伸ばして、木綿の心地を確かめるように何度も摩る。

 甘えた姿。さながら、黒い大きな犬にも見える。というよりも、その膝の重みといい、甘えた様子と良い、椿は飼っていた犬を思い出した。勿論、黒いかどうかは知らないのだが。


 椿の父が、「たま」と呼んでいた犬。玉のように丸くなるので、「たま」。飼っていたというよりは、家に勝手に棲みついて、庭を占領していたと言っても過言でないほどに図太い犬だったと思い出す。

 人並みに大きく、番犬になると父が縁側で丸くなる姿を気にも留めなかった。

 椿はその姿こそ終ぞ見る事はなかったが、縁側で座り込んでいると必ず鼻先を膝の上に乗せて頭を撫でてくれと寄ってきた感覚だけは今もよく覚えていた。


 そう。正に、今も似たようなものである。

 犬がじゃれ付く重み。悪戯に膝を弄る姿さえ無ければ、正に「たま」そのものだった。


 椿の手もまた、朧の黒髪へと伸びた。ではない髪をさらりと撫でれば指の隙間からこぼれ落ちていく。感触までもが、「たま」に似ている――気がするのだ。


 椿は、の髪の毛を指で梳かし、山桜への未練を切り離そうとした、時だった。


『――――――』


 声が、聞こえた。

 椿の目線は自然と山桜の方角へと向いた。呼ばれたわけではない。ただ、女らしき声が言葉にならない音を囁いた程度だろう。


 ――何か……


 何か起こっているのだろうか。朧の髪を弄っていた椿の手が止まった。その声を辿ろうと椿の意識は完全に山桜へと向いて、視覚すら遮断される。

 の方が、耳は良く音を拾う。

 だが――――――


「椿、」


 気がつけば膝から重みがなくなっていた。椿の身体は力強く引き寄せられ、その先には朧の顔があった。そのまま唇が重なり山桜へと向いていた意識が途切れる。


「関わるな」


 知った口が語る意味を問うよりも早く、朧は再び椿の唇を塞いだ。椿が気にする事すらも忌避しているように、そのまま障子窓を閉じた。


『――――――』


 女の声。

 啜り泣く女の声は、静かに春を嘆く。

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