七 春の夢①

 緩やかな傾斜が続く山だった。元より旅路の軽装で、歩くのも苦にはならない。

 枯れ木の枝で視界は良好であるが、小石ばかりで雑草も殆ど無いため足に引っ掛かりが無いのが少々難点ではあった。

 

 椿は山登り自体は初めてだった。

 正確には子供の頃に山で健康祈願にと手を引かれながら登った記憶はあったのだが、それなりに整備された道だった。大人が大股で一段登れる石造りの階段がずらりと続いて、歩幅が読みにくい上り坂。おかげで椿は何度もすっ転びそうになった。思った場所に石段が無いので、どれだけ登っても段差に慣れなかったのだ。

 

 なので両親が椿の手を両側から支えて、ゆっくりゆっくりと一段一段噛み締めて登った。祈願が出来たかどうかは思い出せなくとも、二人の優しさが今も手の感触に思い出せそうな記憶だった。


 淡い思い出が、暗闇の記憶に浮かぶ。いつだって、椿の中の懐かしい記憶は真っ暗闇だ。思い浮かべると言うよりは、握られた手に感触、体温、言葉の節々、周りにざわめきが記憶として流れていく。


 山を登る息苦しさは当時よりもずっと軽いものだったが、それでも昔懐かしむには十分だった。

 隣に朧がいない事も影響したのだろう。一人だと、余所事を考えてばかり。


 今日は結局、同じ宿に泊まる事になるだろうか、とか、昨日の魚の煮付けは美味しかったから、今日も同じものにしようか、とか。


 初めて山登りにしては、存外に余裕だと意気揚々と足を動かし続けた椿だったが、山頂も後少しとなった頃、甘い香りが鼻腔を掠めた。


 ――花の香り……


 甘い花の蜜が当たりを漂う。その匂いを追って、椿は更に上を目指して歩速を上げた。

 熱っぽさが身体に立ち込める。山を一気に登ったのもあっただろうか。着物に汗が滲んで足は疲れが出始めていた。一刻は歩き続けているのだから、仕方もない事かもしれない。


 今の椿は普通ではない。

 半分は人だが、半分は朧の力が混じっただ。

 本来であれば食事も必要のない趣味程度のものであり、そう易々と疲れる事のない身体である。だが、感覚的にも疲労感なるものが、椿の身体にずしんとのしかかっていた。


 そう感じ始めると、足取りも重くなる。緩やかと思っていた傾斜が途端に急勾配に感じて、足を引き摺るように歩いた。


 何とか……何とか山頂へと歩を進め、漸く辿り着いたそこ。

 甘い香りが、更に強くなった。あれだけ枯れていた山であった筈なのに、椿の目の前には青々と生い茂る草花で溢れ始めている。それどころか、曇り空が嘘のように燦々と光差し込む様は優美に草花を照らしての様相を晒した。

 その緑青に混じるのは薄紅の小さな花。その小さな花が、枝すら埋め尽くして、光差す天を埋め尽くしてしまいそうな光景に身惚れて、椿は言葉を失った。

  

 精気溢れるその場所は、まるで春を彩る夢のよう。


 いつまでも浸りたいとすら思える異界の春の心地に見惚れながらも、依然として椿の身体は重石の如くずしりと重みを感じたままだ。それが、今いる場所の所為であると――その場所のぬしの所為であると気づくのに時間はかからなかった。


 草を踏む音を鳴らして進む度、精気は濃くなった。

 何とも現実らしからぬ空気と気配で、奇しくも椿は夫を思い浮かべた。似た感覚を知っていると言うよりは、椿の時折訪れる場所でもあった。


 これは、領分りょうぶんに入ったのだと、理解するよりなかったのだ。


『領分に入るには許しが必要だ』


 確か、そう言っていた。と、椿は夫の言葉を思い出す。


 ――入れてくれた? それとも……


 椿は考えながらも歩みを止めてはいなかったが、ふと緑青と薄紅以外の色を見つけて立ち止まる。

 濡羽色の長い黒髪がしな垂れた、女の後ろ姿。

 薄紅の着物が景色と混じり合いそうで、しかし判然と個を主張するようで椿の瞳に映り込んだ。

 その頭が、ゆっくりとだがしな垂れた濡羽色に光を散らして振り返る。


『よう来た。椿とは季節外れだが、歓迎しよう』


 青白い肌は幽鬼の様相。けれども眼差しは穏やかそのもので、桜色の袖で口元を隠した女は天を覆い尽くす山桜の如く、しなやかに笑って見せた。

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