六 狐

 椿が茶屋を出て姿も見えなくなった頃。静かに茶を啜っていた朧が、湯呑みの中を見つめたまま口を開いた。

  

「それで、松さんはいつから俺達を見張ってるんだ?」


 それまで、一応山の様子を見ている素振りを見せていた松柏だったが、何の感情も乗っていない言葉がころりと落ちてきて、特に驚く様子もなく返した。


が死んですぐの頃やな。元々、あの村には見張はおったしな。そいつの連絡受けて、お前らの動向を探らせとった」


 偶然出会った。そんな都合の良い言葉は使わずに、意外にも松柏はするりと話た。隠す気がないのか、単純に性格か。朧は内心完全に松柏の事を信じきった訳ではないものの、何処まで話すかを試そうと更に続ける。

 

「……何のために?」


 呆然と解を求めているようで、何も考えていないような瞳がポロリとこぼした言葉に松柏は喉を鳴らして笑う。


「お前、まさか本気でが人間だけの仕業と思っとるんか?」


 松柏の小馬鹿にしたようなケタケタとした笑い声。朧の眉間に皺が寄り、感情のままに勝手に身体が力む。朧の手中にある湯呑みは、今にも割れてしまいそうミシミシと軋む。


 朧は人でないものになって初めて世界の真実を知った。

 世界は想像以上に妖しい者達で満ち溢れ、その真実が目の前を当たり前のように通り過ぎていく。魑魅魍魎に、妖、幽鬼、精霊。人の目に見えないだけで、実しやかなる存在たちは当然の如く息づいているのだと――。

 御伽話の存在は隣人にあり、暗闇には陰が潜む。その声を聞いて育った椿は見えたところで驚く事もなければ、朧の存在同様に怯えもしなかった。

 語りかけていた存在が何であれ、恐ろしいと感じた事は一度もないのだと。


 そして今、語りかけているのは陰にいる魑魅魍魎達に比べれば、会話の成り立つ高等なる存在なのだろうと認識する。

 朧も似たような存在だ。恐ろしくはない。だが、人間以上に腹の底は見えないのだ。


「桃源郷なんていう理想郷はな、結局は幻なんや。まあ、お前がそれを壊したんやけど……高々、人間の呪術師だけで土地に影響を与える存在なんぞ創れるわけがない」


 朧の湯呑みを握る手に力が籠る。どんよりとした表情は、さらに翳りを見せて薄暗い宵闇へと落ちていく。椿がそばに居ないのも相まって、朧の感情を緩和するものが何一つとして無い。

 

「俺は……何だ」

「さあ、死にかけた山神か、神格の遺物か……生贄の中に“何かが混ざっとった”事だけは事実や。俺は従うだけで何も知らん」

「俺は、その“何か”を喰った覚えはない」

「別に口で喰うだけが全てやない。同化した――取り込んだという可能性もある」

 

 悪意なく話す姿に、朧は黙って耳を傾けるだけだった。

 真相を知って、今更どうこうできる話でもないのもあったからだろうが、朧は表情こそ暗いままだったが、「へえ」と軽く流す程度だった。そこへ、けしかけるように、松柏は続けた。


「俺を怨んどるか?」


 湯呑みを見つめていた目が、ぬっと上がる。鮮明な筈の赤い双眸がどんよりとした薄暗さを携えて、だが鋭敏に薄ら笑う松柏を真正面に捉えた。


「怨んでない。俺が間抜けだっただけだ。昔の俺は、松さんに騙されてるって判っていても飯が食えたならそれで良かった」


 目は鋭くも、言葉通り重苦しい怨恨などと言ったものは捨て去っていた。が、無情ではない。意思が宿った目が、敵意となって松柏へと返った。


「けど、今は椿がいる。椿がいなかったら、俺は今でもただの囚われたままの化け物だった筈だ。椿に何かあったら、俺は――」


 言い切るまでもなく、朧の赤眼が松柏を射抜く。

 ほお、と息吐く松柏の目がお返しと言わんばかりに獣同然に鋭くなった。黒かった髪色が毛先以外が白く染まり、顔つきどころか姿から獣然とした本物の狐へと変貌していく。

 顔だけではない。露出していた肌全てが狐らしく白い毛並みに早変わりし、文字通り本性を現した松柏は白狐の姿でニヤリと笑った。

 

 そこへ、店先に出てきた店の娘が丁度茶を追加するかを聞きにきたのだが、気にする様子はなく松柏が一杯くれと声をかけると新しい茶を置いて去っていく。


「狐に幻術は付き物や」


 松柏曰く、幻術を使って周りには何事起こっていないし、聞こえていないも同然なのだと言った。


「この世には、説明のつかん存在なんていくらでもおる。俺みたいな狐然り。神格同然に力を得たあやかし然り」


 松柏は狐姿のままで器用に茶を啜る。ほんの少し口が開くだけで今まで無かった牙がチラリと覗き、その鋭さがまた獣らしいが、ニヤつく目は獣とは程遠かった。

 

「気をつけたほうが良い。お前やお嬢ちゃんみたいな規格外の存在ちゅうのはな、目をつけられる。俺が仕えとるお方も、お前のことを監視し続けろと指示は下しとる。何考えとるかまでは――知らんけどな」


 狐目が更に目を細めて嫌に笑う。欲深で、はかりごとを腹に溜め込んだ目。姿を変えたのは、脅しの意味もあるのか。狐の姿が顕著に妖らしさを映すものだから、松柏は同類の醜さを見せびらかしている様でもあった。


「人間は醜い。けどな、夜の側に巣食っとる妖なんかも醜悪や。人間の味を覚えた奴は、結局は人間の欲や悪意に染まっていく。あの山も別嬪さんやったけど、今のままやと綺麗な山桜を咲かせる事は無理やろうな」


 松柏の目が、山藤へと戻った。つられて朧も目を向ける。はてさて、嫁御は今、何処まで登ったのやら。

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