五 事実

 ◆◇◆◇◆


 小さな足が、雑踏を駆け抜けた。その小さな口から吐く息は荒くも、一直線に向かっていく。背後を気にしながらも止まる事はないが、額からは汗が流れ、気を抜けば足はもつれてしまうだろう。

 そんな小さな姿が雑踏の中を走り抜ける姿に誰も気に留めなかった訳ではない。存在を確りと認識して、時折目で追う者もいるにはいたのだ。


 ――子供がいる。……


 奇異な目線。獲物を見る目線。何か怪しげな考えを孕んだ目線と多種多様。中には、声をかけようとする者もあったが、何を考えているとも知れない気配ばかりで、子供は決して足を止めなかった。

 

 足を止めている余裕はない。腕に抱いた黒い真四角の――それこそ茶器でも入っていそうな桐箱を大事そうに抱いて、ひたすらにのみ。

 

 ――手に入ったんだ、これさえあれば……


 なんとか、なんとか出口まで辿り着けたなら。その箱へ願いを込め、箱を抱きしめる力が更に強くなった。



 ◆◇◆◇◆



「それじゃ、頼むよ。ついでに店にも寄って行ってくれると嬉しいんだけど」


 話を聴き終え、「では」と座敷から去ろうするも冗談には聴こえない言葉に朧は不快を表すように眉間に皺が寄った。朧の様子に、ただの冗談よ、と椿が寄り添うように朧の袖に触れる、が予想だにしない朧の言葉があっさりと口から飛び出した。


「椿以外の女に興味がないし、寝る気もない」


 と、あまりにも堂々と宣うものだから、椿の顔は一瞬にして耳まで真っ赤に染まる。それはもう、見事なまでに。

 

「それは残念」


 雨黎も雨黎で遺憾を示すどころか口許を綻ばせ、座敷から出ていく二人に手を振っていた。




 


 用事が済んだ二人の足並みは、ゆるりとしたものだった。

 白砂児しらさごへはいつ行こうか、冥々の道を行くでは味気ないし……などと、朧は旅程を考えては椿に提案していた。が、椿は俯いて応えない。

 適当に、うん、うんと返しては、何やら沈んでいる。


「椿……?」


 流石に、会話にならない事に不信を感じた朧が足を止め椿の顔を覗き込む。すると、顔を赤らめたまま朧に目も合わせられない椿が頬を膨らませているではないか。


「……怒っているのか、恥ずかしいのか、どっちだ?」


 冗談を抜きにして、朧には椿の反応がどちらのものか判別できなかった。まあ、雨黎と同じく面白がっている節もあるのか、朧の口許もニヤリと笑っている。

 それが、椿には余計に腹立たしかった。


「どっちもよ!」


 普段落ち着いた様子の椿の語尾が強調された。その表情は、年相応のそれと変わりない。朧が手をとって寄り添い歩き始めても、椿は顔を隠すために俯いたままだった。


「人前であんな事言わないで! すごく恥ずかしかったんだから」

「事実だ」


 抜け抜けと言い放つ朧に、椿は顔どころか首やら体全体まで熱くなった。


「ああ言っておけば、二度と不快な発言はされない」

「そ……そうかも知れないけれど……」


 だからと言って、次はどんな顔して会えば良いのか。今日、初めて顔を合わせたばかりの人物に一体どう思われたのだろうか。

 時折、椿は朧との感覚の違いに戸惑うしかなかった。いや、世間知らずなだけで自分の感覚がおかしいのだろうか。椿は空いた手で火照る頬を抑えた。


「さ、家に帰ろう」


 椿は熱冷めやらぬも、再び朧に手を引かれ歩き始めた。人前で堂々と言い放った事に関しては、恥ずかしい。けれども、その言った言葉自体はむず痒くも嫌ではなかったのだろう。

 もう、と小さく文句を溢しつつも握られた手を離さないのが、何よりの証拠だった。



 


 冥々の夜市。その出口といっても、実際はいくつもある。

 冥々の道は、あらゆる場所から繋がって、ある意味でどこへでもいけるのだ。まあ、道を見極める事ができたなら、の話だが。


 二人はもう道は覚えたので、帰りも辿るだけだ。既に怪異そのものと言える朧は当然の事、片足突っ込んで半身は人ならざる身である椿の目にも道はしっかりと映っていた。

 さあ、帰りはゆるりと。

 されど、事はそうもいかないようで、椿の耳にか細い聲が届いたのは、そんな呑気に足を進めていた頃だった。

 


 ――困った、困った

 ――を盗まれてしまった

 ――あれは、魂を吸い出して閉じ込める

 ――が何に使うのか、怖や怖や


 とても、小さなこえだった。それこそ、雑踏に紛れてしまいそうなまでに小さい。けれども、聲が落とした――子供という言葉が気になって椿は足を止めて振り返った。


「椿?」


 朧に聲は聴こえなかったのだろう。椿が何かに耳を欹てている様子に、ただ首を傾げる。


「……誰かのこえが聞こえて」 

「気になるのか?」


 その時、椿は羞恥で生まれた熱など消えている。聲に取り込まれたように意識は与一のどこかへと向かっていた。

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