六 小さな聲①
――しかし、どうやって取り返そう
――子供は既に
――子供は道が見えていた。子供は我々が何かを理解していた
――
困った、困った。と、小さな声は囁くように混乱を伝える。
その声を辿れば、椿の足は自然と街の中心から離れていった。大通りから、家々が並ぶ裏通りへ。中心から外れれば、外れるほどに、暗がりは深く濃くなるばかり。しかし、闇が濃くなればなる程に聲に近づいているようで、椿の足が速くなった。
その華奢な背中を朧は追うだけでだった。時に儚くも見えるそれだが、今はせかせかと忙しなく腕を動かしてその様子はない。
しかしどれだけ急いだところで、椿の足並みなどたかが知れている。朧が追いつく事には造作もないことだ。急ぐ椿に比べて、朧は腕を組んだままゆるりと歩いていた。
ただ、椿は聲ばかりに耳を傾け周囲への意識が疎かになることがままある。今も此処が現世でない事など忘れて、聲以外何も見ても聞いてもいない。その為、いつも以上に辺りへの警戒を強めていた。
だが、そう時を置かずして――幾つかの民家の前を通り過ぎた頃、椿の足はとある一軒家の前で止まった。
「ここか?」
「ええ、そうなんだけれど……誰もいないみたい」
これと言って、変哲のない一軒家。
家に灯りはなく、誰も住んでいないのか椿には何の気配も感じられない。しかも、家の前まで辿り着いて、聲も鳴りを顰めてしまったものだから、椿は困惑するしかなかった。が、朧には何か感じられているようで、やたらと家の中へと向けて凝視する。
「いるな、それもかなりの数が」
そう言って、朧は他人の家である事など一切気にせずに、がらり――と無遠慮に玄関の戸を開け放った。
「朧……人の家よ……」
「安心しろ、
諌める椿を前に朧は確信を持ってずんずんと敷居を跨ぎ、更には無遠慮な足は断りもなしに
「気になるんだろう?」
と、悪意なき言葉が降り注ぐ。朧が此処いる理由を辿れば、椿が一度気になると看過できない性分なのを理解しているからだ。朧は自分に関係のない事、利益のない事には興味を示さない。
差し出された手にそっと自身の手を重ねて、恐る恐るも
続く廊下の先は、薄暗いなんて生やさしいものではなかった。ずんと黒い色で塗りたくられたような深い闇。
その黒に飲み込まれたかのように、微々たる物音すらしない。
――矢張り、誰もいない
ぎしり――と軋む廊下の木板を踏む音ばかりが響く。その音が他人の留守に勝手に上がり込んでいるという事実を思いださせて、椿の心苦しさを引き出した。けれども、朧は人の家などという要因は気にも留めずに、何かを感じているままに迷いなく廊下を進んでいる。ただ、何がいるとも知れない筈であるのにも関わらず、必要以上に警戒はしていない。椿をあっさりと家に引き入れたのもそれが理由だろう。
まるで、朧には家の中にいる存在が、恐るるに足りない何かであると見えているようだった。
「何がいるの?」
「……随分と小さいな……ただ、数は多い」
「まるで見えてるみたいね」
「まさか。気配で大凡の推測をしているだけだ」
そう言った朧の顔は、眉が上がって心なしか愉快そうでもある。だが、その顔は、あっという間に険しいものへと転じる。椿を近くへと引き寄せ、離れるなと耳打ちするなり丁度差し掛かっていた部屋の戸を開いた。
廊下と同じく、どんよりとした闇色に染まったそこは、何の変哲もない畳敷きの部屋だった。が、よく見れば奥には床の間が設けられている。そこは、何かが祀られていたのか祭壇置かれ、今もなお管理されているような姿だったが――肝心な祀られているであろう何かが置かれていた筈の部分だけがぽっかりと空になっていた。
「妙な気配だな」
朧の目は、祭壇の中心を睨みつける。「不快だ」と言って、朧は祭壇へと近づこうとした――時だった。
『お待ち下さい』
椿の耳へと、小さな聲が届いた。近づいた筈の声は側で聴こえて居るはずなのに、耳を
「あの、勝手に家に入って御免なさい。声が聞こえたから気になって……家に入る前に尋ねるべきでした」
「椿、下手に出るような言い方はよくない。舐められる」
一体、どこの無骨者の言葉だろうか。椿は嗜めようとするも、朧に静かにしているようにと牽制されてそれ以上言葉を紡げなかった。
「おい、戸が開いたという事は俺達を招き入れたのだろう。姿を表せば話ぐらいは訊いてやる。でなければ帰らせてもらう」
椿に接する時とは違う抑圧的な物言い。朧の声色が僅かに変化して、力が乗った事を窺わせる。相手に譲歩しているようで、実際は命令だった。
変化は直ぐに訪れた。それまで、気配だけだった存在。その気配すらはっきりしなかった存在は、かさこそ――かさこそ――と、床に爪を立てるような、壁を這うような、小さな音を立て始めた。その数は一つ、二つと始まって、ぞわぞわと音と気配を増やしていく。
その数。数えきれないなんてものでもなく、一つの部屋を小さなの何かがすっぽりと覆い尽くしてしまうかと思うほどに膨大だった。
音が止み、気配だけが椿と朧を取り囲み、その膨大な視線が集中した――その時。
小さな聲を発する、
「お初に、お目にかかります。私、白鼠の
小さな、小さな、白い鼠がすぐ側の柱の影からひょっこりと顔を出した。
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