十三 後悔のその先①

 小太郎は手を引かれるまま、項垂れて弱々しく歩いた。何処に向かうかなど考えもせず、己のしでかした事の結果を抱えているのが精一杯だったのだ。

 目的のものは手に入ったのに、一番大切なものを失ってしまった。

 その後悔が、小太郎の身体をずぶずぶと沼にでも沈めているようで、手を引かれていなければ歩く事もままならなかっただろう。


 そうやって精神が沼にずっぽりと嵌ったまま暫くすると、手を引いていた女が足を止めた。

 若い女独特の柔い肌触りが消えた事で、手の中は冷え切って空虚だ。それが虚しくて、小太郎は何気なく顔を上げる。

 ザアザア――と先日耳にしたばかりの葉擦れの音が静寂を断ち切り流れ行く。そこは村外れの社へと続く入り口。朱塗りの鳥居が、無言で佇んでいる場所だ。忌まわしき異界への入り口は、今も大口を開けたまま小太郎を深淵の向こう側から覗いていた。

 呆然と其方に顔を向けたままの小太郎だったが、騒めく木々の音に紛れて「坊や」と語りかける凛とした声が届いて女の方を向いた。小太郎の前を歩いていた女は、小太郎を正面から見据えて、双眸は芯の強い眼差しを見せる。姿形は線が細い淑やかな女のように見えて、中身は違うのかもしれない。

 その真っ直ぐな姿勢のまま、女の口が動いた。


「申し訳ないけれど、その茶器を返して欲しいの。どの道、あなたが持っていると危険よ」


 そう言われて初めて、小太郎は自身が思うよりもずっと強い力で桐箱を抱えている事に気がついた。もう使い道はない筈なのに、それが理解できていても手放せない。寧ろ、手放せと言われて余計に頭に血が上ったのか、ますます桐箱を抱える手に力が篭った。


 ――これを失ってしまったら、母ちゃんはただ喰い殺されただけ……


 後悔が――小太郎の選択が母を殺してしまった。その事実が、小太郎を苦しめていた。

 そんな小太郎の様子に気づいたから、なのか。女の眉尻が下がった。申し訳なさそうに気落ちした様子を見せたかと思えば、「お母様の事は残念だったわ」と。まるで、自身の事のように憔悴する。

 

 小太郎の目に映る女の存在は曖昧だった。

 最初に目にした時こそ、口を塞がれ緊張が迸る空間だったから、ただの人間と見間違えてしまった。

 だが、今。、女は人のようにも見えて、そうでないものでもあるのだ。どちらとも判別のつかない曖昧な……けれども所詮は怪異や妖だろう、と。

 

 そんな女が小太郎に向ける同情の眼差しは、怪異がよく見せる手口だ。泣き言を言って、同情を引き出し道連れにするか、命を喰らうか。

 だが、何故だか女が示した言葉も見せた感情も、偽りだと断定ができなかった。

 女の目は、今にも儚く光が消えてしまいそうな。そんな弱さもあるようで――小太郎の口は、己の意思とは関係なく動き出していた。

 

「……俺、母ちゃんの病気を治したかっただけなんだ」


 女は静かに、相槌を打つ。


「あいつが、言ったんだ。鼠が万能薬になる茶器を持ってるって……それで魂を集めれば、母ちゃんの病気が治るんだって……」


 叫びは嗚咽混じりで、どろどろと溜まりかけていた苦しみを吐き出していた。


「人殺しだってわかってた! だから、俺が最後の一人のはずだったのに‼︎ 何でっ……なんで俺じゃなくて、母ちゃんが死ななきゃいけないんだ‼︎」


 慟哭にも似た悲痛な叫びは、次第にやり場のない怒りへと変じる。騙されているかもしれないと疑ってかかっていた筈なのに、まんまと罠にかかり、人を殺め、最も大切だったものを奪われた。

 しかも、その全ては己の不甲斐なさが招いた事。無力感が心臓を突き抜け、小太郎は手の中のものに縋るしか、自己を保てなくなっていた。

 小太郎の沈痛な眼が、桐箱へと向かう。


「……俺が、死ぬべきなんだ……」


 手は自然と動いて桐箱の蓋を掴むと、ぽとりと地へ落とす。吸い込まれるような黒釉こくゆうの艶が月明かりに浮かんで、小太郎を手招きしているようだった。


 ――俺が死ねば……


 取り憑かれた思考は、迷いなく茶器へと触れようとした――が、


「死にたければ、お好きになさい。己の罪に耐えられず楽になりたいのであれば、その方が良いでしょう。ですが、取り返しがつく事もある……それすら考えず、奪った命を道連れにしたいのなら、ですが」


 同情の姿とは一変した抑揚のない声音に、小太郎の双眸は再び女を捉えた。


「……この白鼠さんが言うには、茶器の中の方達はまだ生きているそうですよ」


 女は自身の肩へと目線を落としていた。そこには確かに白い綿毛の塊……ではなく、白い鼠の姿があった。くっきりとした赤目で今にも、ちゅうとひと鳴きありそうな小さな身体。小さかったからなのか、認識していなかったからなのか、小太郎は言われて初めて怪異にも似た気配を纏う鼠に気がついた。その白鼠が、茶器の持ち主であると言う事も……。


「……いき……てる?」

「まだ間に合う可能性もあるそうです。どうしますか?」


 女の口振は、どちらでも良いと言っているようだった。好きにすれば良い。誰が死んでも気に留めない。

 言葉の中で赤の他人への情は薄かった。


 彼女は、本当にどちらでも良いのだろう。命の選択は再び小太郎の手に戻ってきた。今、小太郎が茶器の蓋に触れたなら小太郎の魂も茶器へと吸い取られ、その後の事など知れない。けれども、小太郎が自暴自棄にならなければ――


「……どうされますか?」


 女はもう一度同じ言葉を吐いた。透き通るような流水の如く濁りなき声。善悪どちらの一片もない声が風音すら遮って、凛と響く。その瞬間まで空虚さすら感じていた夜闇の空間すら支配してしまう声は――――小太郎の迷いを断ち切るのには十分だった。

 悲嘆は、暫し仕舞っておこう。

 小太郎は落とした蓋をそっと元に戻して、惜しげもなく桐箱を女の前へと突き出した。


「……返す……どうやって助けるんだ?」


 茶器を受け取った女は、小太郎の言葉で顔を綻ばせ、目を細めて笑っていた。ふわりと微笑む女の姿は、慈愛に満ちる。人とも妖とも違う雰囲気だが、けれども神仏ほど厳かではない。


 ――この人は……一体……


 小太郎はほんの数歩先にある厳しさも優しさも併せ持つ女から目が離せなくなっていた。

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