十四 後悔のその先②
茶器を受け取った椿は徐に桐箱の蓋を開いた。黒釉が月光の中で鈍色に輝いて、優美な佇まいで茶器はそこに収まっている。
――美しい……
椿の目にも、その深い夜に沈むような黒に心打つものがあった。すうっと、自然と手が茶器に伸びそうになるも、触れてはいけないような気もして、戸惑う手は宙に浮く。
「奥様、少しでも気分が悪くなりましたら仰って下さい」
雲水は鼻をちゅうちゅう鳴らして不安気に言う。
「蓋を開けるだけ、なのでしょう?」
「蓋を開けた時点で魂を吸い込まれます。只人のようにか弱い存在など、するりと」
奥様は人の匂いもするから心配です。と、ちゅうちゅう捲し立てる。
どう見ても椿は混じっている。その要因から椿も茶器に取り込まれてしまうのではと、恐れているのだろう。
「でも、こう言ったものは早い方が良いでしょう? それとも、人でないものの魂まで食べてしまうの?」
「あれらは無差別です。意思はなく、ただ喰らうために惑わす術を持っているに過ぎませぬ。弱ければ喰われます」
ご主人をお待ちするべきという白鼠。その真紅の眼は嘘偽りなく述べているのだと主張するように、
「……私は弱い存在かしら」
「奥様を侮っているのではありません。奥様自身が飲み込まれないという確信がないからこそ、その手が躊躇したのでしょう。危険も感じているのであれば、止めておくべきです」
雲水が放った正論に椿は押し黙る。事実、椿は茶器の魅力に揺らいでいるのだ。その自覚があり、自身が中途半端な存在である事も理解している。
だのに、宙に浮いたままの手が茶器に触れたいと言って、引いてはくれないのは何故なのか。雲水の言葉が正論のはずなのに、椿の瞳は茶器を捉えて離さない。
――美しい、この茶器のに触れたい
椿の目に茶器の黒が色濃く映ると、脳裏に、ふつり、ふつりと欲望にも似た思想が湧き出る。そうすると、今度は今し方聞いたばかりの雲水の忠告が薄らいだ。
宙に浮いたままだった手が、誘われるように茶器へと触れる――――既だった。
「椿、」
暗闇から声が湧き出た。
夜闇に紛れて、辺りの空気を散らすように黒い靄が舞う。ゆらりと蠢くそれに音はなく、ただ一点。椿の背後で塊となって色濃い黒が現れると人の形になった。
「椿、危ない事をするな」
椿の耳を
「……朧」
「蓋を開ければ良いのだろう?」
朧は椿に桐箱をしっかりと支えるように言うと躊躇いもなしに茶器の蓋の摘みに触れて、あっさりと蓋を開いた。
カチャ――と、陶器同士がぶつかる音が小さくなって、開いた茶器より、何かがふわりと浮き上がる。
仄かに青白く。ゆらゆらと鬼火の如くき淡い光が四つゆらめいたかと思えば、ふっ――と蝋燭の火が風に煽られたかのように消えてしまった。
「今のが、魂?」
初めて目にした人の命の形があっさりと消えて、椿は目をぱちくりとさせる。
「左様でございます。肉体に引き寄せられたのでしょう。肉体との楔が途切れていなければ、今頃は目覚めているのではないでしょうか」
恐らくですが、と付け足す白鼠は口惜しげに付け足した。
茶器の中身が空になると、一層夜は静寂となった気がした。いつもの夜、といえただろうが――一人、今も脅えた眼で佇む姿があった。
「あの……」
小太郎は緊張した面持ちを浮かべ、胸の前を鷲掴んでは二人と一匹を見つめていた。カタカタと肩を震わせながら。
「あの……俺……
辿々しい言葉だった。使い慣れていないであろうが知っている丁寧な言葉を混ぜ込んだ口は、今にも罪を告白せんとする。けれども、相対しているはずの椿はこれと言って表情を変えない。朧に至っては無関心と言えるだろう。
「……私たちが役人に見えて?」
「そうじゃない……けど、鼠の家から茶器は盗みました」
まあ、確かに。椿は己の肩に乗ったままになっている白鼠へと目を落とす。
「雲水さん、茶器は戻りました。あの子を罪に問いますか?」
「それは……我々に法なるものがあるかどうかの話であれば、誰に裁かれる事もありません。残念ながら此処では私はお二人の力を借りねば人の一人も殺せないですし」
家で一人で寝ているのであれば、鼠に肉体を齧らせる事は可能ですがね。と、最後に白鼠は愛らしい姿に反した毒を吐く。その言葉に、朧の目が赤く光るので、雲水は慌てて「しませんよ」と付け足した。
小太郎に雲水の声は届いていない。恐らくは今の言葉も聞こえてはおらず、罪に飲まれた顔のままだ。意気消沈しているのはそれだけではないのだろうが。
「罪には問わないそうです。お母様は、亡くなられた事は残念ですが、貴方はこれからも日々変わらず生きていけばいい」
椿の冷たい言い草に朧の眉が動く。だからと言って何を口出しする事もない。
「変わらず……って……母ちゃんがいなくなったのに……俺、どうしたら‼︎」
「どうもしないのよ。何も変わらない日々が明日から始まるだけ。過ぎてしまった事はどうする事もできない。愛しかった者を偲び生きていくしかないの。けれども、ただ苦しいと、悲しいと思うばかりでは、心は死んでしまう。そうならないようにできるのは貴方自身だけよ」
椿は目を伏せる。不意に、両親の声音が脳裏を過ぎ去り、自身が死にたいと思っていた日々が浮かんでいた。
「どうか、お母様に恥じないように生きなさい。私に言える事はそれだけ」
小太郎は涙ぐみ、その場で膝をつく。椿の言葉が最後まで聞こえていたかどうか。理解したかどうかまでは知れなかった。
挫けてしまったかもしれない。まだ、成人も済んでいない子供に酷な話だったかもしれない。だが、椿にはそれ以上どうしようもなかった。寄る辺には決してなれない。それだけは相入れないのだと。暗闇の住人となった椿では、生きる世界が違うのだと。
椿は小さく蹲る小太郎を前にして、いつかの自分を見ているようで手を差し伸べてしまいそうだった。だが、安易にして良い事ではない。
今手を出せば、そこに小太郎の意思はなく。ただ弱り切った精神で人に縋るだけなのだ。それは、ただの成り行きで、意思のある選択とは言えない。
椿は隣で黙って見ていた朧の袖をきゅっとつまむ。
小さく、「帰りましょう」と告げる。不安に包まれたように弱々しい声だった。
朧は何を察したか、椿の手を優しく包み込むと、二人は闇の中へと帰って行った。
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