十一 夫婦
茜に染まった空の端。茜に焼けた大地を踏んで、二人は並んで歩いた。
春の初めは夕暮れにもなると冷え込むものだから、町人は皆そそくさと家に入って、表通りからは人気が減っていく。代わりに家々や店では声や行燈に照らされた影が賑やかしく夜を照らした。
二人は提灯も無しに、薄闇に染まりつつある町をあとにした。町を離れれば離れるほどに、夜の帷が黒い着物に身を包む朧を闇にでも吸い込んでしまいそう。椿は朧の体温を逃さぬように、しっかりと手を握った。
どれだけ手を握っても、朧の感覚は以前人であった時の肉体に残った記憶だ。
感触が人に似ているともとれる。そうと知っていても、椿の小さな手などすっぽりと収まって馴染んでいる感覚が、椿にはたまらなく好ましい。
離し難い。なのに、椿は朧が自ら進んで暗闇に向かっているような気がしてならなかった。
「朧、どうして今日は夜に移動するの? あの町は嫌だった? それとも、さっきの事……松柏さんの話を安易に受け入れた事に怒ってるの?」
足音、虫の音、微風に擦られる草や葉の音。静寂には程遠い夜の騒めきに紛れた声に、急足で歩いていた朧はピタリと足を止めた。
それまで、一心不乱に夜に向かっていた男が振り返るも、昼間に沈んだ声を発した時のまま苦々しい顔を晒す。
「……俺は、良い亭主とは言えない」
何を言うかと思えば。突飛な言葉に椿は首を傾げる。
「椿、俺はお前が喜んでくれるのが好きだ。その為に俺の中にあるもので賄って何がいけない」
納得したふりをして、適当な返事をよこしたという事なのだろう。単純に松柏に隙を見せたくなかったのもあるのかも知れない。
「今までは朧の中にある
「じゃあ、俺はお前に何をしてやれる」
「朧、夫婦って支え合うものって言ったでしょ? 一方的に尽くす必要は無いの。それに、十分なものを貰ってる」
椿は朧の手を離さなかった。椿の双眸に重なる憂いを帯びた目線。不安ばかりが募る朧の目にそっと手を翳し、指先はさらりと肌を下りて朧の頬を優しく撫でた。苦しみを拭い去ろうと指先を這わせると、苦々しく目を閉じた朧は椿の手を捕まえて頬へと摺り寄せる。
「俺は、人であった時の人生はまともであったとは到底言えない」
「そう」
「それどころか、俺には大事なものが何一つなかった。他人の命なんて、軽いも同然だったんだ」
椿は、「うん」と囁くように相槌を返す。
「なのに、こんな身体になって初めて真っ当に生きたいと思った。
弱気な声は、一段と闇夜に溶けて沈んでいく。
この一年、朧は椿を至る所へと連れて旅をした。
冬景色に始まった旅は、梅を見て、桃を見て、桜を見て、藤を見て。夏にもなれば
椿がまだ見ぬ景色をこれでもかと追い求めて、あちらこちらへと足を運ぶ。どこか生き急いでもあったが、根無草というわけではない。
二人には家がある。
山の主すら消え去った、人気のない山奥。表向きは土地が痩せこけ、獣も寄り付かないような寂れたそこは、今では朧の領分だ。そこで二人はひっそりと居を構え、椿が脳裏に取り込んだ景色をもとに小さな箱庭を創っている。朧の力を反映した夜ばかりの箱庭だが、季節ごとに景色を変え彩を変える景色を小さな家から二人で眺める。この一年はその為の旅だった、とも言えるだろうか。
旅路も、箱庭も、どちらも椿が喜ぶが故だ。
朧は、ずっと同じ事を繰り返すつもりだったのだろう。椿が行きたいと言ったところへと連れ立って、美しいものだけを見せて、記憶を埋めようと必死だったのだろう。
我が身など惜しくもなく、ただ椿のためだけにこの一年を過ごしたのだ。
「私、朧が見せてくれる景色が好きよ。朧と一緒に眺める景色が好き」
そう言って、椿は朧の手を引いて歩き始めた。ゆっくりと、空を眺めながら。
「それだけじゃ、到底見合わないだろう」
蔵から飛び出したあの日を思い出すほどの星空が、闇世の中で輝きを放つ。まだ月が遠い果てにある暗夜だからこそ、小さな星々の光の粒の輝きが空を埋め尽くした。
ゆっくりと歩いて、瞬きの一粒づつ眺めているようで、朧も釣られて上を見上げる。
「そうかしら。私には十分過ぎる人生だと思うけれど」
椿は星空から目を逸らして、屈託のない笑みを朧へと向けた。星空の下で、美しく咲く花の姿。
「朧は、私の事を一番に考えてくれているのでしょう? だから、私が朧の事を第一に考えるの」
ふふ、と
二人は、闇夜をゆったりと歩く。
星空の下、顔を出し始めた月影に追われながら。
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