七 名前

 が語り終わると、暗闇にはしじまが戻る。

 椿は包まれたの腕の中に、閉じ込められたままだった。話とは違い、その腕は温かみがある。更には柔らかく優しい触り心地が頬を撫ぜて、さらり、さらりと、何度となく繰り返す。

 子猫でも撫でているような、くすぐったい穏やかな仕草。人らしい過去を話しているうちに過去の感情でも思い出したのか、男は益々人らしさを取り戻しているようだった。


 一動一動に情愛でも篭っている――そんな錯覚、と考えながらも椿も自然と手が伸びた。

 椿の頬に触れるの手に自身のそれを重ねれば、確かにそれは人の手だった。肌の上辺を撫ぜるように――身体を形作る肉や骨の形を確認でもしているかのように指先を滑らせる。

 

 肌触り、体温、全てが人そのもの。

 椿も何の気なしに、その手に頬を擦り付ける。

 愛情というはっきりしたものが浮かんだわけではない。

 ただ、何となく。今は、そうとしか言えなかった。

 その行為がに対してどう映ったかまでは、椿にはわからなかった。だが――


「椿……俺は……」


 切なく囁く声もまた、一段と――というよりも、人そのものへと変わっていた。

 その声に、とん、と胸打つものが確かにあった。

 

「あなたの……あなたの名前は無いのですか?」


 椿の問いに男は戸惑うも、古い記憶を探っているように考え込んだかと思えば、あっさりと答えた。

 

「……親がおぼろと名付けたが、使った事が無い」

おぼろ……あなたにぴったりですね」

「なんて意味だ?」

「掴みどころの無い……はっきりしないものの事です」


 は自嘲気味に、ははっと乾いた笑いを見せる。吹っ切れたようで、どこか寂しげでもある声の主は温もりを求めてか、もう一度椿を優しく抱きしめ、深いため息を吐いた。

 椿もまた背に手を回し、ありのままの温もりを享受した。温かくも、切ない背中。めいいっぱいの力でその温もりを噛み締めると、椿の意は決した。

 

 いや、椿の決意は最初から揺らいでいない。


「どうやったら、あなたは外へ出られますか?」


 椿は密着していた身体を離すと、を見る。ここに意志があると示し、己の強さを見せた。

 協力というよりは、交渉だろう。

 椿は望みを叶えてくれるのならば、手を貸すとで言っているのだ。

 朧は笑うしかなかった。愉悦の混じった、渇いた笑い。


「ああ、椿。お前は良い女だ」


 そう言って、当たり前のように椿を押し倒した。椿の身体を労るように、そっと。そうして、椿の身体を熱の籠った手でまさぐりながら、朧は椿の耳元で囁いた。


「封印を解く方法は、恐らく――」






 

 

 暗闇の中、二人は幾度と交わった。その行為は情愛に満ち溢れ、どちらかともなく唇を重ね、欲を貪る。

 椿は無意識に朧の隅から隅まで指先を伸ばした。

 朧を知りたいと思った。顔に触れ、唇に触れ、瞼に触れ。指はするすると降り、肩や背、腕と、朧の全てを知りたいと言っているようだった。


 情欲を駆り立てる行為に、ますます二人はのめり込んだ。惜しむように、時が来るのが待ち遠しいようで、永遠に同じ時を過ごしていたいようで。

 

 互いに互いを求め合った。

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