九 春の終わり
椿の視界を花吹雪が埋め尽くし、燦々と差し込んでいた光が薄れようとしていた。
山桜の主が山へと回帰し、領分が閉じ始めたのだ。
花弁が椿の全ての感覚を遮断して逃げ場はない。目を閉じても花弁の擦れ合う音が椿の耳を埋め尽くして何も聞こえやしなかった。
山桜の主――いや、大いなる力を糧と判断した“山”そのものの悪意なき最後の食事。それに気づいても逃げ場をなくしてからでは遅い。
退路を断たれ、視界を断たれ、指の先、髪の一片から花吹雪に飲み込まれる感覚が椿を襲った。
呼吸すら苦しく口を開いたら身体の中まで喰らい尽くされそうで、椿は顔を腕で覆い口を塞いぐ程度が精一杯。無情にも最後の光が、今にも消えてしまいそうなまでに狭く、細まっていく。
一抹の光が線を引いて消え、領分が椿を飲み込もうとした。
その瞬間だった。
「椿!!」
椿に喰らい付いていた花弁が、一陣の風が吹き抜けると共に闇に舞う。ビュウ――と、吹き抜ける風は轟々と吹き荒びながらも、花吹雪から姿を現した椿の身体をがっしりと掴んで抱えるて領分の境界から飛び立っていった。
◇
暗闇となった世界を駆け抜けた。風を切り、四足歩行の獣が縦横無尽に駆け抜ける。
フサフサとした獣の背の上。白い毛並みに尖り耳。犬にも似た三角の顔の鼻先だけが黒く染まって、四本足が
暖かな毛並みはふわりと椿を包み込み、夜空を飛んでいるよう。
椿の背にはまた別の感覚がある。がっしりとした慣れた腕の心地は力強くも優しく椿を抱え、椿が白い獣の背から落ちないようにと支える夫の姿。暗闇の中では、髪色も着物も闇に溶けてしまいそうでならない男の瞳が、椿と重なった。
「朧……」
「……上手くいったな、最後は少々危うかったが」
夫の優しい微笑みは、心配を堪えて椿を安心させようとしていた。心配させてしまった事こそ、本来ならば椿は謝らねばならない。朧の言葉通りに危険はあったのだから。
だが、その朧の心そのものが椿には殊更心地の良いものだった。
「ふふ、ちゃんと助けてくれた」
最後の瞬間。領分も閉じ、花弁に飲み込まれそうになったその最後まで、椿に恐怖はなかった。
椿の中には、朧の力が宿たったままの感覚が恐怖を感じさせなかったと言っても良いだろう。
――もし、危険な目にあったとしても朧が必ず見つけてくれる
――だから、大丈夫
朧への信頼が椿の恐怖を拭いさっていた。
今も、その腕に
椿が寄りかかると、支える朧の手に力が篭った。気のせいかとも思ったが、見上げた顔つきがどうにも眉間に皺を寄せて不安ばかりが見える。
だが、その不安な顔つきは椿と目が合うと徐に口を開く。
「何処にいたって、見つけてやる。何があっても、助けてやる。お前は、やりたいように生きれば良いさ」
椿を抱き寄せ支える手は、言葉以上に力が籠る。少しばかり嘘が混じった、その言葉。きっと、本当は心配で気が気では無かった筈だ。
椿が寄り添った身体から、鼓動は感じられない。朧の身体は人の形を保ってはいるが人ではないのだ。息づく身体は遥か昔に失って、今此処にある姿は、現実か幻かも判然としない存在。
それが、自分の夫。でも、きっとこれ以上の存在もないと椿は確信していた。
「心配かけて、ごめんなさい。助けてくれて、ありがとう」
椿の落ち着いた鈴音にも似た声が、リンと暗闇に響く。
同調の力が乗ったそれで、朧の底値から不安が和らぎ強張っていた顔は幾分かマシになる。
椿は意図して力を使ってはいない。同調という曖昧なそれを持て余し、垂れ流していると言ってもあながち間違いではないだろう。
それでも、互いの力の心地に揺られた二人は、白き獣の背に揺られ暗闇で閉ざされた領分を駆け抜けていった。
◇
遠くに光が――
どんどんとその光は大きく、眩しくなる。
太陽のようだ。
目を塞ぎたくなるほどの強い光に、椿は目が眩み目を伏せる。
そんな椿の様子などお構いなしに、白い獣は暗闇の空を掛け、その光へと飛び込んだ。
眩しい。瞼を閉じていても、その向こうが透けているような。暗闇から出ても暫くは、椿は目が開けられなかった。
「椿、大丈夫か?」
「うん……眩しくて……」
目が潰れてしまいそう。そんな大袈裟な事を椿が呟くと、朧がクスリと笑った。
「領分に浸りすぎたな、すぐに治る」
そう言って、朧は椿の瞼の上に手を重ねた。何をするわけでもなかったが、妙に心地が良い。ほんのりと温かみを感じると、再び朧の手が椿の顔の上から退いた。
「椿、見ろ――」
朧が何をしたかはわからなかったものの、すっと痛みが引く感覚がして、言われた通りに瞼を押し上げる。最初は光の加減か全てが白色だったが、次第に世界に色が戻る。
白き獣はいつの間にか地に降りていた。山桜からそう離れていない、小高い丘の上。
朧に手を引かれ獣の背を降りると、爽やかな風が耳の横を通り過ぎる。麗らかな日和を全身に浴びながら空を見上げれば、灰色雲が消え去った空は青々とした晴れ模様へと変わっていた。
朧が、指差すその向こう。
眩い太陽に照らされた新緑の山に混じって、薄紅が咲き乱れていた。風吹けば、ザアザアと大樹の枝が揺れて、同時に花弁も舞う。
「おお、最後に咲かせて行ったか」
白い獣が愉快そうに笑う。
山桜が咲き乱れ、散りゆくその姿。
山桜の主の、最後の姿であった。
愛する夫の想い抱いて、主は眠る。
またいつか、山を栄えさせるがために。いつかも分からぬ先を想い描いて。
山神の美しき最後の姿かな。
「綺麗……」
椿の目はうっとりと、焦がれた情景へと見惚れたまま。
山桜の主の領分とは違った、自然の赴きはどれだけ眺めても見飽きる事は無いだろう。
そして、水鏡に映るその景色。
紛いものである、水の上に浮かぶ景色は晴天の青空も相待って、くっきりと薄紅の濃淡までもが映り込む。
桜が、風に舞う。
風吹けば木々が揺れて花弁が一斉に舞い、水鏡に波紋が浮かぶも落ち着けばまた元に戻る。その花弁が、今度は水鏡を薄紅へと染めていく。
潔いまでに、壮観たる最後の散り様に椿は景色を釘付けだった。今まで音だけだった記憶の箱を“美しい”という言葉で埋め尽くさんとする程に、その双眸で脳裏へと焼き付ける。
ほんの一時も無駄には出来ず、その散りゆく花弁一枚すら見逃さん程に集中した眼差し。
されど、空いた手は夫を求めてしっかりと手を握っていた。
その景色をともに眺める者がいる。
椿は桜が散るその時まで、景色から目を離す事は無かったが、その手を離す事も決して無かった。
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