第31話 遠くまで
時は黄昏、空を見上げれば月に追われた太陽が地平の向こうへ姿を隠し始めていた。心地よい風が吹く。
青年は髪結いの仕事を終えて帰路につく。己の店舗を持たず、依頼を受けて出張する形で客を取っていた。
今日の夕飯はどうしようか、と思ったところで、同居人の彼の予定確認を失念していたことに気がつく。
髪結いの青年は、ひとりの青年と居を共にしていた。司祭の青年は異国で司祭の資格を得、諸国を旅してきたという。
この町には宿屋がない。昔はふたつほどあったのだが、旅人が一切来なくなってじきに廃業した。
それでも宿が借りたいといった司祭の青年と、やむを得ない理由で下宿先がなくなってしまった髪結いの青年がちょうど「部屋を借りたい」という目的が一致して、ルームシェアを始めたのがもう三年ほど前の話になる。
丘を下った先は町の中心部だ。自分も同居人も料理をしない。食事はいつも帰り道で買い求める。一応同居人の分も買って帰って、余れば明日の食事にしようと考えた。
すると、惣菜店で見慣れた後ろ姿を見つけた。こちらに気づいた素振りはない。
「レオノーラ」
声をかけた相手は件の同居人である。こちらへ振り向いた彼はいつも優しげな笑みを見せた。そっと右手の指が宙をなぞる。
『お疲れ様、アルバ。ちょうど会えて良かった』
光の文字が髪結いの青年――アルバを迎えた。
司祭レオノーラは、祝詞以外で己の声を使うことがない。それが彼の降ろした神との「契約」だと、彼はかつて語っていた。
「行き違いにならなくてよかった。そっちも、今日の仕事は終わり?」
『あぁ。明日も見送りの予定は入っていないから、今晩はゆっくりできそうなんだ。それで、良ければなんだが』
彼が片手に持ち上げたのは葡萄酒の瓶だ。あまり酒を飲まない彼が持っているのは珍しい。
『今更ながらに気がついたんだが、今日は私が司祭になって十年になる日、らしくて』
「なるほど、それはお祝いだな」
喜んで付き合おう、との言葉とともに、アルバは彼の持つ瓶を引き受けた。レオノーラは自分が払うつもりだったようだが、主役に払わせるわけにはいかない。
酒のつまみに惣菜をいくらか追加で買い込んで、ふたり並んで帰路につく。
「けど、十年か。……ずいぶん遠くまで来たんだな」
『――そうかな』
ぽつり、とこぼすように思いを綴ったレオノーラは、気恥ずかしさと安堵の混じった笑みを見せた。
文披月の短編集 唯月湊 @yidksk
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