第10話 ぽたぽた

 玄関の扉が開く音で、家人の遅い帰宅を知った。

 一緒に暮らし始めて数年、玄関先まで迎えに行くような時期は過ぎた。一瞬動作を止めはするものの、再び視線は手元の文庫本の文字を追い始める。家人もそのうちこのリビングまでやってくるだろう。

 ただ今日は少々勝手が違っていたらしく、「ちょっと来て~」と呼び出しがかかった。手近なところにあったレシートをしおり代わりに挟んで、玄関へと向かう。

 玄関に立っていたのは、頭から足までずぶ濡れの家人であった。長い髪は濡れてはりついて雫が滴り落ちている。

「タオル取って。家の中まで濡らしたくない」

「はいはい」

 リビングにとって返し、バスタオルを一枚持ってくる。家人はその間に濡れた服を脱ぎ、洗面所の前においてある脱衣籠に放り投げていた。

「今日は雨の予報じゃなかったはずなのに」

「それ。おかげで傘の争奪戦になってさ。まぁ、負けたからこうなってるわけだけど」

 がしがしとバスタオルで髪や体を拭きながら、家人はため息をつく。

「今は天気予報も当たらない時期だしね……折りたたみでも傘もっといたほうがいいんじゃない?」

「嫌いなんだよね、荷物増やすの」

 仕事に行くときでも携帯と財布程度しか持ち歩かない、家人らしい言い分である。


 梅雨はそろそろ終わりに近づき、天気予報があまり当たらなくなる時期ではある。

 梅雨が明けることを祈りながらも、明けたら明けたで暑い夏が来ることを思うとどこかやりきれなさが残る。そんな時期だった。


 そのうち、家人がひとつくしゃみをした。やはり身体が冷えてしまっているらしい。

「お風呂沸かすよ。それまでの間、コーヒーでも淹れようか」

「あ、いいね。温かいもの飲みたい」

 風呂の栓を閉めに行く間に、家人はようやく玄関から部屋へと上がる。風呂を沸かすスイッチを押してダイニングへ向かえば、家人は揃いのマグを取り出していた。

「ちょっと良いコーヒー出そっか」

「マジで?」

「きみがひどい目にあった日だからね。ちょっとした気晴らしは必要でしょうよ」

 そう言いながら、少し奮発して買ったコーヒーの粉を取り出した。近日やってくる家人の誕生日に淹れるつもりで買ってきたものだが、どのみち家人向けに淹れるのならかわりはない。

 どちらかといえばコーヒーに凝っているのは自分の方だったが、最近は感化されてきたのか、家人もコーヒーの味や香りに詳しくなった。

「やっぱミル買う?」

「憧れはあるけどね」

 ドリッパーに粉を入れながら、とりとめもない話をする。じきに沸いたケトルの湯を細く円を描くように少しだけ注ぎ、止める。

「……やっぱ好きだな~」

「?」

「この、コーヒーの粉が開くのを待ってる時間」

「……変わってるなぁ」

 家人と自分の間に置かれたコーヒーサーバーに、はじめの数滴が滴り落ちた。

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