第9話 肯定

 二階の自室から出て、半螺旋状の階段を降りればがらんどうのリビングが広がっている。おはよう、と投げた言葉は誰にも受け取られず散らばった。

 洗面台へ向かえば、無精髭で痩せた顔の男が鏡に映る。ざらりとした手触りに、そういえば彼女は「無精髭のさわり心地が面白い」などと笑っていたことを思い出した。


 残念ですが。

 三途の川をわたりかけた自分をこの世へ引きずり戻した担当医は、ベッドの上で意識を取り戻した男へそう告げた。

 どうやら自分は一週間ほどあの世とこの世を行ったり来たりしていたようで、最終的にこちらへ引き戻されたとき、自分の愛した人は川の向こう側にわたり切ってしまったらしい。すでに葬儀も済み、男に残されたのは壊れて動かなくなった時計ひとつだった。男が彼女の誕生祝いに送ったものだ。

 壊れた時計は、直すのも難しいだろうと自室の机においてある。捨てるに捨てられず、


 適当に身支度を整えて、BGM代わりにテレビをつけた。昔は部屋がいくら静かでも気にならなかった。その理由に気がついたのは最近だ。

 彼女は話すのが好きだった。それでいて聞きやすい声音と口調をしていたから、彼女の言葉や語る話が、自然とBGMになっていたのだ。

 彼女と違って自分はあまり喋るのが得意ではなく、自分が話すよりも聞いているほうが好きな性分だった。そういう意味でも、相性がいい相手だったと自分では思っている。


 記憶の中には、きれいな姿の彼女しか存在しなかった。思いの強さがイメージを美化している部分もきっとあるだろうが、自覚できる彼女との思い出は、総じて美しいままだった。

 事故後の彼女の姿を、男は一度も見ていない。

 だからこそ、未だに受け入れられないのだ。この世界に、もう彼女がいないなど。


 そして、彼女のいない世界を、これから自分が生きていくのだということも。

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